溺れそうだ、と思った。なによりも愛しなによりも憎んだ生命の始まりである広大に厭われる身体を得てから幾度も味わったそれによく似ている、とも。
 足りない酸素を求め喉を喘がせる。そのとき背筋を震わせたのは確かに恐怖だったかもしれない。己の意思とは無関係に滲む涙にけぶる視界では男の表情をうかがうこともできず、深く深く沈みそうになる意識を必死に繋ぎ止めようと伸ばしたてのひらが縋るものを探した。




 ほんの僅かに意識が浮上した。どろりとした何かに全身を包まれているような心地を覚える。体中の節々が鈍く痛みを訴えているが、未だまどろむ意識が覚醒を拒もうとしていた。瞼がひどく重い。
 不意に鼻先を掠めた薫りに再び沈みそうになる意識を掬い上げられた。あまり好きではない、けれど腹立たしいことに決して嫌いでもないその薫りに促されるように、うっすらと瞳を開く。ぼんやりとした視界。ピントを合わせるように幾度か瞬きを繰り返すうちに、次第にはっきりとした輪郭が浮かび上がった。こちらに向けられた背と、たなびく紫煙。薫りの正体は、考えるまでもなくそれだ。男が常に纏うその薫りは、もはや男の体臭であると言っても過言ではないのだけれど。
 それにしても、この男にそれを求めることは非常に酷であり間違っているのだと分かってはいるが、この情緒のなさはいったい何事だろうか。別にいわゆる恋人同士のような甘さを求めている訳ではない。断じて、そんなものは求めていないしむしろ願い避けではあるのだけれど、もう少し、ほんの少しくらい、せめて背中でなくて顔を見せろと、それくらい思っても罰は当たらないだろう。
 そんなことをつらつらと考えながら眺めていた背が、微かに動く。こちらを向くだろうか、と抱いた期待はあっさりと裏切られたが、ふいにそれに気が付いた。隆々とした筋肉に覆われた背の、肩の辺りから肩甲骨の下の辺りまでを走る赤い筋。蚯蚓腫れのそれにところどころ滲む、すでに固まりつつある血液がひどく痛々しい。
 心当たりは、あった。素肌に纏わりつく鬱陶しいシーツを払い、己の指先に視線を落とす。思った通り、爪の先に付着した赤。そういえば、ここしばらく爪を整えていなかったな、と思い返す。
鋭利でもない爪で肌を抉られるなんてそれなりの痛みであっただろうに、この男はそんなそぶりを見せただろうか。もしかすると眉根くらいは寄せたのかもしれない。けれど、こんな失態を晒してしまう程度には余裕などなかった己に、それに気付くことなどできるはずもなかった。口惜しさすら感じる様だ。
 ゆるり、と伸ばした指先で、赤い筋を辿る。ほんの僅かに筋肉が強張って、男がこちらを振り返る。
「…いたむか、はくりょうや」
「…起きたのか」
「……まだねてる」
 実際のところ、未だ半分まどろんだ脳味噌は覚醒しきってはいない。でなければ、この背に触れようとは思わなかっただろう。己とは相反する概念を背負う背だ。本来であれば、この背に触れることなど考えることも、許される筈もない、そんなものであるはずなのに。
 そうか、と呆れたように呟いた男の手が伸びてくる。わしわしと頭をかき撫でられ、再び抗い難い眠気が襲ってきた。
「寝てろ」
 耳に届いた男の声がばかに遠く感じる。無防備にも程がある、と常の己ならば思うのだろうけれど、今はただ、明日になったらまずは爪を切ろう、と、そう思った。
×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -