喫煙者にとって、世の中は随分と住みづらくなった。薄暗く人気のない喫煙所の、無造作に置かれた安っぽいパイプ椅子に腰を下ろしながらスモーカーは思った。ほんの少し昔であれば己のデスクでいつ煙草を呑んでいてもなんのお咎めもなかったというのに、最近では煙草を取り出した途端に刺すような視線でもって退室を促される。最初の頃は意地でもその場を離れることはなかったが、部下にそっと差し出された禁煙パイポに僅かばかり傷付いた日からはおとなしく喫煙所を訪れるようになった。女というのは怖い生き物だ。
 ポケットを探り取り出したオイルライターに視線を落とす。小さな青い石の埋め込まれた鈍い銀色のそれをなんの気まぐれか突然寄越した青年も、あまり喫煙に対して良い感情を抱いてはいないようだった。それであるにもかかわらずこんなものを寄越した理由などは、すでに数年を共に過ごした今でもよく理解は出来ずにいるのが現状だ。
 蓋を親指で跳ね上げる。ちん、と澄んだ音が響き、次いでヤスリがフリントを擦る音。揮発したオイルが燃える独特の匂いが立ち込め、銜えた煙草の先端をちりちりと焦がした。フィルターを通して深く呼吸をする。肺を満たした白く濁った煙をゆっくりと吐き出したところで、不意に、額から右の蟀谷にかけて傷跡が疼いた。もしかすると、外では雨が降っているのかもしれない。
 喫煙室の中央に設置された無駄に容量のある灰皿に灰を落としながら、スモーカーは疼痛を訴える傷跡に触れた。傷自体はすでに二年も前のものであるというのに、雨の日はどうにも痛みがぶり返してくる。
 刑事などというものは、実のところ非常に恨みを買いやすい仕事だ。人の粗を暴き法で裁こうというのだから当然のことではあるのだけれど、若く青臭かった頃はそれが納得いかないこともあった。よかれと思っての行動が思わぬ逆恨みを招いたりもする。未だ鈍く痛みを訴え続けるこの傷も、その類の輩と対峙したときのものだ。油断していた己が悪いとはいえ流石に肝が冷えた。あまり良い思い出ではないけれど、手当てを受けて帰宅した際、大袈裟に巻かれた(実際非常に大きな傷だったのだけれど)包帯を目にした瞬間のあれの顔はなかなかに見物だったことをよく覚えている。
 この仕事を長年続けていれば、気の迷いが油断を招いた結果命を落とすことになった者も、人間不信に陥って職を辞した者も少なくはない数を見てきた。それでもまあ、今までもこれからも続けていこうと思う程度にはスモーカーはこの仕事を嫌ってはいないのだ。
「あ、スモーカーさん、やっぱりここにいた!」
 大分短くなった煙草をぐりぐりと灰皿に押し付けながら、ぐるりと呼ばれた方を振り返る。顔を見なくとも聞き慣れた声は間違えようもないが、視線を巡らせた先にはやはり想像通りの部下の姿があった。
 いつもかけているメガネはどこに行ったのか。どちらかといえば華奢な部類に分けられる体躯には不釣り合いな量のファイルを抱えたたしぎが小走りに近付いてくる姿は、危なっかしいとしか言いようがない。走るな、と声を掛けようとしたところで、たしぎの姿勢が大きく傾いだ。案の定だ。盛大な音を立てて抱えていたファイルをぶちまけ、冷たく固い床とおそらくは熱烈なキスをする羽目になったたしぎの元へ足を向け、スモーカーは呆れたように溜息をついた。もはや今更驚くことでもない。初めて己の元に部下として配属された日から、彼女の転倒は日常茶飯事だった。いわゆるドジっ子というものなのだと他の部下達はのたまっていたが、スモーカーにはよくわからない属性である。
「何度転べば学ぶんだ、お前は」
「いたた…すみません、スモーカーさん」
 強かに打ち付けたのか、折れてはいないようだが赤くなった鼻頭を押さえて呻くたしぎの代わりに散らばったファイルを拾い集めてやる。なんとはなしに開いてみたそれには、随分と古い新聞を切り抜いた記事がスクラップされていた。
「…なんだこれは」
「資料室から借りてたんです。ちょっと調べておきたいものがあって」
 ようやく立ち上がり服についた埃を払い落したたしぎにファイルを手渡しながらそれぞれのラベルに記載された年を確かめてみれば、どれも10年以上も昔のものばかりだ。勉強熱心なことだ、と他人事のように思ったスモーカーは、ふと彼女が己を探していたらしいことを思い出す。その手に収まるファイルの山が個人的な好奇心によるものであるのならば、なぜ彼女は己を探していたのだろうか。
「そうそう、スモーカーさん、今日はもう帰れって」
「あァ?」
「先程警視がいらっしゃってたんです。それで、警部が最近スモーカーさんが残業続きだって話を」
 疑問を口にするよりも早くたしぎが彼を見上げ告げた答えは、スモーカーのすでに常態と化した眉間の皺を更に深くするには十分なものだった。相も変わらず余計なことをしてくれる。
「疲れていても効率は上がらないから今日は早く帰って明日からまたよろしく、だそうですよ」
「………」
 やる気があるのだかないのだか、日頃から読めない男ではあるが、そんなに長く残業は続いていただろうか、と思う。元々定時上がりなど存在しないようなものであるから、多かれ少なかれ誰しもが残業を抱えているのは当然だ。事件があれば捜査に駆り出され、下手をすると数か月休みがない、なんてこともあった。ここしばらくはそれほど大きな事件も起きていない為にそこまでの時間を犠牲にすることもないが、なるほど考えてみれば雑事ばかりが積み重なり一月ほどはまともに休みを取っていないようだ。
 かろうじて自宅に帰るだけの時間はあるが(その為にわざわざ署から近いマンションを借りているのだから当然だ)、家に帰れば飯を食って寝るだけの生活が続いていた。
「伝言は伝えましたから、私はこれ資料室に返して戻りますね」
「…階段、気を付けろよ」
 元より返事は聞くなとでも言われているのだろう。大丈夫ですよ!と唇を尖らせた彼女の背を見送り腕時計に視線を落とす。帰れ、は上官命令だとでもいうつもりか。まったく腹立たしいことこの上ないことではあるが、せっかくだからたまには早く帰ってやるのも悪くはないかもしれない。
 確か今朝顔を合わせた際に今日の午後は休講になったとぼやいていたはずだから、あまり外に出たがる性質でないあれはおそらく家にいるだろう。冷蔵庫の中身を思い返しながら、なにか足りないものはあっただろうかと考える。面倒臭い。
 ライターとは反対側のポケットに突っ込んでいた些か古い型の携帯電話を取り出し、ばちん、と二つ折りのそれを開く。若干の亀裂が入ったヒンジ部分が悲鳴を上げた気がするが、そんなことは気にせずに発信履歴を呼び起こす。どうせ家にいるなら冷蔵庫の中身を確認させよう。もしかすると他にも消耗品が足りなくなっているかもしれない。そう思って、履歴の一番上に表示された名前を選び発信ボタンを押した。呼び出し音。数秒。数十秒。出ない。
「チッ、また不携帯か」
 舌打ちを響かせながら携帯を閉じる。自室に携帯を放り出したままリビングにでもいるのだろう。携帯電話を携帯しないでなんのためにそれを持っているのだ、と、己も度々やらかしているそれを棚に上げてスモーカーは内心で悪態を吐いた。

















 自宅に着いたのは薄紫色に染まった空が次第に濃い青に変わり始めた頃だった。エントランス、と呼べるほどの広さはないそこに設置された集合ポストの中身を確認する。くだらないチラシとダイレクトメールはすべて共用のごみ箱に放り込んだ。残った数通の封筒を手にしたまま乗り込んだエレベーターの、上から3つ目のボタンを押下する。古いマンションであるために、無いよりはマシ、といった風情のエレベーターは非常にモーターの音が煩く上昇も遅い。もう慣れたとはいえど焦れったい程の時間をかけて、ようやく10階に辿り着いた。ひとけのない廊下の先の、一番奥に位置する扉が目的の自宅だ。
 取り出した鍵が、じゃらり、と重い音を立てる。いくつかの銀色が連なった中からそれを選び出し鍵穴に差し込んだものの、開の方向へ鍵を回してみれば、見事になににも引っかかることなく回りきってしまった。つまり、施錠されていない。
 いくら中にいるのが男一人であるとはいえ、なんと不用心なことであろうか。これは一言二言の小言で済ませてやるわけにはいかない、と勢いをつけて開いた扉の先、まず視界に飛び込んできたものは、人だった。見覚えのあるシャツとデニムは間違いなく居を共にする子供(遠い親戚の、が頭に付く)であった。それが、薄暗く廊下に倒れ伏している。
 一瞬、またか、と思った。この子供は休んだり眠ったりという行為が大層苦手であるらしく、限界を超えた途端に電池切れを起こした彼のこういった光景を見るのは初めてではなかったから、正直なところ驚きは既に感じるところではなかった。
「…こんなところで寝てんじゃねェよ、クソガキ」
 盛大に溜息をついたところで、不意に馴染みのある臭いが鼻についた。いやな記憶が呼び起こされる生臭いそれに、背筋が凍るようなこころもちを覚える。手探りで下駄箱の上の壁を辿り、ぱちんと音を立てて玄関の古びた蛍光灯を灯した。
 視界に広がる赤。蛍光灯の光を受けてぬらりと光った、鋭い銀色のそれにもまとわりつく赤。鋭さの半分以上をその身に沈ませ未だじわりじわりと赤を滲ませる子供が、そこには転がっていた。
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