学生の夜は長い。それは日々を面白おかしく遊んで過ごしているお気楽な学生だろうが、日々を実験と実習とレポートに費やし神経をすり減らしている勤勉な学生だろうが、変わることなく学生の夜は長い。夜の繁華街で夜を過ごすのか、薄暗い部屋でノートパソコンと睨み合いながら夜を過ごすのか、その程度の違いはあれど、彼らにとって夜とは睡眠を取るためだけに与えられた時間ではありえなかった。
 とくに、レポートの提出を数日後に控えた医学生に十分な睡眠を取る時間などある訳もなく、常よりもいくらか色を濃くした隈がその忙しさを物語っている。
 けれど、流石に何時間もぶっ通しでうすぼんやりとした液晶と睨み合っているといい加減疲れも限界を迎えたようで、キリの良いところで一度手を止め、凝り固まった筋肉をほぐすように軽く首を回してみる。ごりごりと骨の軋むような音が響き、思わずため息が漏れた。
 机の上に置かれた小さな時計に視線を向ければ、時刻は既に深夜の3時を回っている。そろそろ寝なければ、明日の朝一の講義が少しつらいかもしれない。しかし書きかけのレポートは完成間近で、これを今夜のうちに完成させてしまえば明日から多少なりとも楽になるのは間違いなかった。もうひと踏ん張り、といったところか。
 眠気がないといえば嘘になる。むしろ時折眩暈を起こす程度には眠い。せめてカフェインで眠気を覚まさなければ、下手をすれば寝落ちなどという情けないこと極まりない事態になりそうだ。億劫ではあるが、一度少しだけ休憩を挟もう。
 重い腰を椅子から引っぺがすようにして立ち上がると、わずかに立ち眩みを覚えた。最後に仮眠を取ったのは何時間前だっただろうか。今日こそはベッドに入ってふわふわとした布団に包まって眠ることができるだろうか。明日はそれほど早く起きる必要がないから、3時間でも眠ることができたら。そんなことをつらつらと考えながら狭い廊下に出る。手探りで壁のスイッチを探し当て、ちかちかと幾度かの点滅を経て廊下を明るく照らし出した。
 ぎしぎしと軋む廊下はそれほど長くない。ほんの数歩で辿り着いたキッチンの明かりも灯し、冷蔵庫から先日買ったばかりの豆を詰めたガラス瓶を取り出す。エスプレッソに最適なそれは数年来のお気に入りであり、コーヒーはインスタント程度しか飲まなかった同居人など今ではこれ以外で淹れたコーヒーには不平を漏らすようになった。まったく余計な舌を肥えさせてしまったものだ、と笑う。
 ゴムのパッキンで密閉されたそれの蓋を開けると瞬時に広がる香ばしい香りはそれだけで目が覚めるような気がした。キッチンの隅に置かれたエスプレッソマシンに豆をセットしようと振り返り、一歩踏み出そうとしていた足が、止まる。
 ひくり、と顔が強張るのがわかった。チェーンスモーカーである同居人のせいで若干黄ばんではいるものの、元はおそらく真っ白だったのだろうと思われる壁。あと2、3歩で手が届く距離にあるその壁の、丁度視線がまっすぐにぶつかる位置。に、ぺったりと張りついた、黒く、艶やかな、それ。
 引き攣れた喉から迸りそうになった悲鳴は、全力でもって抑え込んだ。いくらなんでもそんな情けない真似はいただけない。まずは落ち着くことが大切だった。ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐き出して、勝手に動きそうになる足を叱咤する。ここで動いてしまっては、もしかすると、こちらに向かって飛んでくるかもしれない。それだけは心の底から回避したい事態だ。たかが昆虫とは言うなかれ。人間はこの世界に生まれ落ちた瞬間から、それを嫌悪するように創られているのだ。
 けれど、いかんせんそれとこちらの距離が近すぎる。細く長いそれの触角が規則的に動いている様さえも目視できたが、嬉しくもなんともないどころか吐き気すら催してきた気がした。早くここから離れなければ。早く。一刻も早く。
じり、と後退るのと同時に、それが僅かに動いた。びくりと肩が震え、それ以上後ろに下がることもできなくなる。睨み合い。物音一つしないキッチンに、浅く早い呼吸音だけが響いていた。
 立ち尽くしたままどれほどの時間そうしていたのか。不意に空気が動き、気配が生まれる。軋む床の音がこれほど心強く聞こえたことがかつてあっただろうか。それから視線を外すことはどうしたってできないが、振り返るまでもなく、音の主が誰かなどわかっている。
「…何してやがる、こんな時間に」
 常ならば癪に障る不機嫌そうな声だが、今日ばかりはまるで救世主か何かのように感じられた。振り向かないまま、おそるおそる腕を持ち上げ目の前の壁を指で指し示す。
「…あれ、なんとかしろ」
「…あァ?」
 小さくひらぺったく黒いそれが、丸めた新聞で叩き潰されるまで、あと一分。
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