あいつはきっとおれとの約束なんて覚えちゃいないんだろう。
そりゃそうだ。
ものの分別もつかないガキとの約束なんて、覚えている必要も、守ってやる必要もないのだから。
おれだけが覚えていて、おれだけがその約束にしがみついていた。
愚かで浅はかで、救いようがない。






「ただいまー…って、なんだ、来てたのか」
ドフラミンゴは自らの生い立ちに不満を感じたことは一度もなかった。血の繋がらない父親はだからと言ってないがしろにされることもなく、愛されているという実感もある。些か特殊な性質の父はあったが、そんな些細なことを気にするほど、ドフラミンゴ自身繊細な人間でもない。
「おう、邪魔してるぜ」
ただ一つ気になることがあるとすれば、それは頻繁にこの家を訪れる男の存在だった。父(本人に向かって父と呼んだことは一度もないが)の旧友だという男は、ドフラミンゴが物心ついた頃には既にこの家に入り浸っていた。毎日ではなかったが、それでも記憶を辿ればどのシーンにもこの男がいるのだからやはり結構な頻度での訪問だったのだろう。
別に嫌いな訳ではない。子供の頃はそれなりに遊んでもらったし、大学受験のときは無償で家庭教師をしてくれた。大学に進んだ今も時折勉強を見てもらったりしている。兄弟のいないドフラミンゴではあったが、兄がいたらきっとこんな感じだろう、と思っていた。
最後に会ったのは確か先月だったはずだ、と記憶を巡らせ、ドフラミンゴは男が腰掛けたソファにどさりと鞄を放り投げる。以前と比べそれ程頻繁に現れなくなった男だが、おそらく仕事が忙しいのだろう。どう見てもチンピラ然としたなりとは裏腹に馬鹿高いスペックを持った男だ。当然年齢に見合った地位を持っている。
「せっかく来てもらって悪ィけど、多分今週は帰って来ねェよ」
残念だったな、と続けた。父に用事があっての来訪ならば、無駄足だ。世界中を飛び回る彼が帰ってくるのは来週頭。広い家にはしばらく己しかいない。
「ア?んなこた知ってる」
けれど勝手な予想は外れたようだった。あっさりと返された返事にドフラミンゴは首を傾げる。
「へ?じゃあ何しに来たんだよモリア」
「寂しがり屋のクソガキが一人でお留守番してるって聞いたから様子見に来てやったんだろ」
キシシ、と独特な笑い声と共に告げられ、間の抜けたことに口を開いたまま固まってしまった。一瞬間を置いて、ムッとしたように唇をへの字にひん曲げる。
「誰が寂しがり屋だよ。いい加減ガキ扱いすんなっての」
「未成年はまだガキなんだよ」
「………」
19も20も変わらないと言いたいところではあるが、どうせ言い返したところで男…モリアに言い負かされて悔しい思いをするだけだ。口が達者な自信はあったが、どうにも両親とモリアにだけは勝てる気がしない。どうせあとひと月で未成年ではなくなるのだから、今無理して反発する必要はないだろうとドフラミンゴは己に言い聞かせた。実際のところ、成人したからといって20も年上のこの男が大人だと認めてくれるとは思ってはいないのだけれど。
「…飯食ってくの?」
冷蔵庫を開けつつ問い掛ける。カウンターキッチン越しにモリアに視線を向けつつ、特濃!とこれでもかというほど大きな字で書かれた牛乳パックを取り出し、注ぎ口に直接口を付けた。ぐび、と喉を鳴らして牛乳を飲む。やはり牛乳は濃くてこそだ。加工乳など邪道だ、とドフラミンゴは常々思っている。
「ん?あァいや、今日はこの後用事が入ってんだ。お前の顔も見たしそろそろ帰る」
「…ん、そっか」
上昇していた機嫌が一気に落ちていくのが分かった。ことん、とシンクの上に牛乳パックを置きながら返した返事は、我ながら声が低い。
「あいつらが帰ってくる日にまた寄るから、お前も帰って来とけよ」
立ち上がったモリアがキッチンを覗き込みながら言う。不満げに唇を引き結んだままモリアに視線を返した。苦笑を浮かべたモリアにくしゃりと短い金髪を掻き回され、改めて子供扱いされているのだと実感する。事実そうだ。これじゃあまるで我儘な子供だ。面倒を掛けたい訳ではないのに、ついこの男には甘えたくなってしまう。
「どうせ帰ってくるまで待ってんだろ?」
「忙しくなけりゃあな」
忙しかったら帰るのか。思わず口から飛び出しそうになった言葉をすんでのところで飲み込み、ドフラミンゴは頭に置かれたままの手を軽く払う。これ以上内心を吐露する訳にも行かず、さっさと帰れよ、とむくれた表情でモリアの背を押した。
「ちゃんと飯食えよー」
「食ってるよ!」
玄関を出てからも父親か母親かと言いたくなるような台詞を残して背を向けたモリアに舌を突き出しつつ見送って、ドフラミンゴは盛大に溜息を吐いた。ぱたん、と閉じられた玄関の扉に背を預ける。そのままずるずると座り込み、立てた両膝に額をくっつけ丸くなった。
「…ちくしょう」
いつまでたっても、モリアの中で己は子供のままだ。初めて出逢った頃の、小さな幼児のままだ。あの約束だって分別のつかない子供の戯言だと思われていたに違いない。今となっては覚えてさえもいないだろう。
『おれ、おとなになったらモリアとけっこんするんだ!』
そう言って父を固まらせたあの日、暴走した子供をモリアは馬鹿にはしなかった。わしわしと頭を撫でて、あの独特な笑い声を上げながら小さな子供を抱きあげた。そしてしっかりと視線を合わせて言ったのだ。
『お前が大人になったら、考えてやっても良いぜ』
幼いながらに本気だったと思う。指切りもした。あれから14年経ったが、ずっと古い約束にしがみつくことしか出来ないでいた。この想いは、自分とは違う大人に対する憧れでしかないのかもしれない。そう思い込もうとしたこともあった。けれど、既に成人していた彼が女と歩いている姿を見かけた時にそれは無駄な努力だと思い知らされた。連れている女は可愛らしかったり美しかったり日によって様々だったが、見かける度に胸が苦しくて泣きそうになったものだ。
「…女々しいな、おれは」
本当は約束を覚えていてくれているんじゃないか、なんて馬鹿馬鹿しい希望は、もう忘れた。無駄に期待して泣くのはもう嫌だ、諦めよう、と誓ったのはほんの数ヶ月前のことなのに、本人を前にするとこんなにも簡単に決意が揺らぐ己が嫌だった。つきん、と鼻の奥が痛み、視界が滲む。
不意に、ポケットに突っ込んでいた携帯が震えた。びく、と肩を跳ねさせ、ドフラミンゴは顔を上げた。マナーモードに設定したままだった携帯は音を響かせることはなかったが、いつまでも途切れない震えがメールではなく電話だと告げている。
のろのろとポケットから携帯を取り出し、視線を落としたサブディスプレイには見慣れた名前。今にも溢れそうだった涙が一瞬で引っ込んだ。慌てて折り畳み式のそれをぱちりと開き、通話ボタンをプッシュする。耳に押し当てたスピーカーから聞こえた声に、ドフラミンゴは肩から力を抜いた。
「悪ィ、携帯ポケットに突っこんだままだったから…」
遅いよ、と笑う相手に素直に謝意を伝える。じわりと耳が熱くなった。
「へ、今から?あァ、うん、場所は?ん、分かったすぐ出る」
左の手首に巻いた腕時計にちらりと目をやり、頷く。通話を終え、ばちん、と勢いよく閉じられた携帯を再びポケットに突っ込み、先程ソファーに放り出した鞄を取りに玄関を離れる。
いつまでも立ち止まっている訳にはいかないんだ、と再び己に言い聞かせた。鞄を開き、財布を取り出す。それもポケットに突っ込み、おそらくはモリアが入れたのであろうエアコンのスイッチも切った。玄関の鍵を閉めて改めて時計を確認したドフラミンゴを呼ぶように、甲高くクラクションの音が響いた。
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