最初に感じたのは熱さだった。
後頭部で手首を縛められ、膝立ちの状態で頭上の滑車へと繋がれた。普段あまり使うことのない筋肉がぎしぎしと悲鳴を上げている。邪魔だ、と剥ぎ取られたシャツとジャケットは視界を奪われる直前に放り投げられた。ああ、皺になる、と明後日の方向へ思考を飛ばしていたドフラミンゴは、いい加減この非日常の世界に馴染んできているような気にさせられる。素肌に縄を掛けられたのは初めてだったが、危惧した程の痛みも苦しさもなかった。黒いレザーのアイマスクによって奪われた視界は多少の不安を煽ったが、それでもこんなものか、と思う程度の余裕は未だ存在していた筈だった。
思ったより筋肉ついてんな、と完全に無防備になった脇や背を辿る様に指先を滑らせる男の手から逃げようと身を捩らせた矢先だ。
「…ッァ…!」
衝撃。それから、熱さ。外気にさらされた背、脇腹、それなりに筋肉のついた腹へかけて何か細いものが巻きつくような感覚。一瞬遅れて知覚したのは、激痛だった。まるで焼けるような痛み。何が起こったのかを理解する前に、再び同じ痛みが背を打った。
あまりの痛みに満足に声が出ない。咄嗟にその痛みから逃れようと身体を捩るが、固定された滑車が動くことはなく、ぎち、ときつく結ばれた縄が軋んだだけだ。
「や、め…ッ」
空気を裂く音。身構えた瞬間に走る衝撃。痛み。ようやく、ドフラミンゴは己を襲った痛みがなんであるかを理解した。
なめした動物のかわを幾重にも編んで作られた、しなやかな鞭。実物は見たことも触ったことも当然あったが、己をこの世界に引きずり込んだ彼は一度も使おうとしなかった。まだ無理だろう、と笑った彼――くまの顔がよぎる。
今、己の自由を奪い痛みを与えているのは、くまじゃない。彼のことを知っているようではあったが、今日初めて会った得体の知れない男だ。
「ィ…っ、ぅあッ…!」
「キシシ、なかなかいい声で鳴くじゃねェか。あいつにゃ勿体ねェ」
しなった鞭が肌を打つたびに、陸に上がった魚のように背をたわませる。ひどく楽しそうな男の声が聞こえたが、なんと言っているのか聞きとる余裕はない。これは、だめだ。
「やめ、ろよ…!っ、離せ、ちくしょ…ッ」
「ンン?つれねェこと言うなよ。今更だろうが」
今背後にいるのがくまじゃないと思うだけで、吐き気がこみ上げた。痛い、気持ち悪い、苦しい、痛い。不規則に与えられる痛みに加え、脳味噌を直接掻きまわされるような目眩に襲われる。
知らない縄の感触。知らない声。知らない手の温度。全てに拒否反応を起こしそうだ。気持ちが悪い。吐き気が、する。助けてほしい。
だれに、なんて分かり切っていることを自問する。くましかいない。あの大きな手で触れてほしい。彼の操る縄が肌を覆い、関節を固定し、そうして与えられる酩酊感が待ち遠しかった。彼以外に触れられることは苦痛でしかない。彼でなければ、だめなのだ。
くま、と、声にならない声が唇から洩れる。じわりと涙が滲んだ。
「なにしやがる!」
不意に止まった痛みと、何か重い物が叩きつけられる音、響いた怒鳴り声。がくりとくずおれそうになった身体はしかしぎしりと縄を軋ませただけで倒れることはなかった。じくじくと痛む背が熱い。吐き気は治まったが、乱れきった呼気を正そうと浅く呼吸をするだけで引き攣れるような痛みが背に走った。
「それはおれの台詞だ。なにをしている」
冷ややかな声が頭上から聞こえ、ひく、と脚が震える。腕を後頭部で固定していた縄が緩み、ようやくぐったりと身体から力を抜くことが許された。床にへばりつきそうになった身体を支えられ、ふわりと香った男の体臭に安堵を覚える。ぐったりと身体を預けるとアイマスクが外された。薄暗い筈の室内が眩しい。
思わず細めた眸に映ったものは、後頭部をさすりながら床に尻をついた、先程嬉々としてドフラミンゴを甚振った男の姿だった。おそらく背後からド突かれたのだろう。痛みからか、唇はへの字に引き結ばれている。
「てめェのお気に入りだっつーから味見しただけじゃねェか」
まったく悪びれていない(むしろ非常に不機嫌そうな)男の様子に、くまの眉間の皺が深くなった。肩に添えられた手に力が篭ったのが分かる。
「鞭で打たれたこともない初心者に傷が出来るほど鞭打つのが貴様の味見か」
ああ、やっぱ傷んなってんのか…。痛みの引く気配のない背中は時間を置いてますます熱を持っているようだった。酷い日焼けをした後のような熱さは堪らなく不快で、ちくしょう、と多少の恨みを込めた視線を男に向ける。意外にもぽかん、とした顔をした男と目が合う。一瞬の沈黙。
「……ハァ?!」
素っ頓狂な声が薄暗い店内に響き、頭上からは深い溜息。いったいなんの話をしているのかよく分かっていないドフラミンゴが溜息の主をおそるおそる見上げるとちらりと返された視線が明らかに不機嫌で、呆れられただろうかと微かな不安が胸をよぎる。
「いやだってお前初心者は面倒臭いから手ェださねェっつってたろ」
「…記憶にないな」
「…マジかよ」
片膝を立て座り直した男が心底意外だというように目を瞠った。ドフラミンゴとくまを交互に見やり、気まずそうにガシガシと頭を掻き毟る。あー、だのうー、だの歯切れの悪い様子で唸りながら、男は眉間に刻まれた皺を緩ませた。
「…悪かったな」
そうして吐き出された謝罪に、思ったよりも嫌な奴ではないのかもしれないと思う。どう反応していいものか迷ったあげく、おう、とだけ返事をしたドフラミンゴの肩を支えていた手がふと離れた。
「立てるか?」
「…、ああ」
くまに差し伸べられた手を掴み、引っ張り上げられるようにして立ちあがった。思っていた以上に身体が重い。痛みを堪える為に必要以上に力んでいたからだろうか。けれど覚束ない足元を気にするでもなく、くまは掴んだままのドフラミンゴの手を引いて歩きだした。
来い、とも、こっちだ、とも言わないくまに促されるまま後をついていく。元々無愛想な男ではあるがいつもならもう少しドフラミンゴに対して態度が柔らかいというのに。





――今日はもう帰れ。
バーカウンターの奥が、スタッフの控室になっているようだった。狭い室内で無言のまま背中の傷を消毒され、大袈裟だと言ったドフラミンゴの言葉を黙殺し包帯まで巻かれてしまった。先程の男(モリアという名前らしい)が持ってきたシャツを羽織ったところで、ようやく口を開いたくまの台詞に身体中の血の気が引いた気がした。
自宅のベッドにうつ伏せで倒れ込みながら、何かがいけなかったのだろうか。いつもくまを訪ねて通っていた店で別の男に身体を預けたことが問題だったのか。否、それ以前に、初心者である己が鬱陶しかったのかもしれない。
そもそもくまは男で、ドフラミンゴ自身も男で、以前店を訪れた際に行われていたショーでは当然縛られていたのは女だった。しなやかな四肢と、締められた縄が食い込む、柔らかい肌。悩ましげに吐き出される甘い吐息。全て、ドフラミンゴが持たないものだ。
やはり同性である男、それもつい最近初めて店を訪れた様な初心者に懐かれたところで、くまにとっては迷惑でしかないのかもしれない。
ぐるぐると考え始めると、思考は悪い方向にしか向かない。日付は既に変わっているし明日も仕事だというのに一向に眠気が訪れず、ドフラミンゴは深く溜息を吐いた。
ダメだ。しばらく店には行かずに頭を冷やそう。そう心に決めて、ちっとも重くならない目蓋を無理矢理に閉ざし、ふと思い出した。ああ、サングラスを置いてきてしまった。
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