サディストかマゾヒストかと聞かれれば、当然笑いながら即答してきたはずだった。
甚振られることに喜びを覚える質では無かったし、冗談にしろ本気にしろ他人が嫌がることをするのは嫌いではない。命令されるのも押さえ付けられるのも己には縁のないことだと思っていた。
思っていたのに、それなのに、この状況は、いったいなんだ。
手首を、腕を、胸を、ぐるりと締め付けられる。想像していたような痛みは無いが、後ろ手に拘束された所為か反った胸が肺を圧迫して息苦しかった。
「痛むか?」
背後で縄目を確かめながら問う男の顔は近い。擽る様に耳朶に吹き込まれた吐息がぞわりと肌を粟立て、サングラスの奥に隠れた瞳を僅かに泳がせた。居心地の悪さに思わず捩らせた身体はほとんど思うように動かず、ジリジリとした焦りがドフラミンゴの背筋を寒くする。
「痛くはねェが…」
うなじの辺りがかゆい。腰掛けたスツールの妙に柔らかい感触が不快で、ドフラミンゴは眉間の皺を深くした。早く解けよ、と続けて肩を揺らす。
「ついでだ。こちらへ来い」
しかし彼の話を聞いているのかいないのか。黒いベストを身に付けたバーテンの様な男は屈めていた腰を伸ばしドフラミンゴの肩に手を添える。促されている。わかってはいるが、男に従ってはいけない気がした。ステージなんぞで見世物にされてたまるか。穏やかな顔をしてはいるが、ひたりと己を見据える眸は決して笑ってはいない。
「…遠慮しておくぜ。生憎おれはマゾじゃねェんだ」
警鐘を鳴らした本能に従って、ドフラミンゴは肩を竦めてみせた。成り行きで縄を掛けられることには了承したが、それ以上は許容範囲外だ。
けれど、ドフラミンゴの言葉は黙殺されたようだった。ぐい、と縛りあげられた腕を引かれ、関節が軋んだ。半ば強制的に立ち上がることを余儀なくされ、主導権を握られつつあることに苛立ちを覚えた。有無を言わせぬ雰囲気がこの男にはある。
「…ッ、てェ…」
「すまんな。こっちだ」
欠片も悪いとは思っていない声だ。客に対してどういうことだと思わなくもないが、そういう接客を好む者も多いのだろう。理解しようとも思わない世界だが、引き摺られるようにその世界の入り口をくぐってしまった気はする。虐げられる趣味は無い筈だが、アルコールの影響を多分に受けた好奇心が勝っただけだと己に言い聞かせた。
ステージとは言っても、小さな店の中でそこだけがせり上がった台のようになっているだけのものだ。頭上を見上げれば縄を通すための梁や滑車。既にこの場から走って逃げたい、と心の底から思う。
ぐるぐると脳内で聞く相手のいない言い訳を繰り返している内に、やや乱暴に前を向かされた。居た堪れなくて泳いだ視線は、結局足元に落とされる。縄が擦れる音。腕を縛める縄に新たな縄が通され、頭上からぶら下がる滑車に繋がれた。下手さえうたなければ関節を痛めないように縛ってあるのだろう。やや身体が浮いて圧迫感と息苦しさは増したが、痛みは相変わらずほとんど感じない。辛うじて爪先で立っている状態はひどく不安定で、おかしな焦燥感がなりをひそめる気配は無かった。
「足を上げるぞ」
「は?ちょ、うわ…ッ」
ぐらり、と身体が傾いだ。否、傾いだと思った身体は幾重にも重ねられた縄の為に倒れることは許されず、片脚を軸に僅かによろめいただけで済んだ。男の手によって持ち上げられた左足の膝をすくう様にして通された縄が同じ滑車に繋がれる。これは、なかなか辛い体勢だ。
「縛られるのは初めてだと言っていたな」
「あ、たりまえだろ…そうしょっちゅうこんな目にあってたまるかよ…」
ぐい、と首を捻って、ドフラミンゴは背後の男を睨みつけた。身を捩る度に不安定に揺れる身体が忌々しい。縄に締め付けられる肌を辿る様に滑った指先がするりと脇腹を撫でる。ひ、と息をのんだドフラミンゴの耳に低い笑い声が届いた。
「て、めェ…なに、」
「前を向け」
不意に背後から伸びた手にサングラスを奪われ、顎を掴まれた。逆らうことを許さない声で命令される。決して力は強くないが、促すように顎を持ち上げられては従うことしか出来ない。おそるおそる上へとずらした視界に映るのは、狭い店内の様子。
にやにやと笑いながら携帯のカメラをこちらへ向けている同僚達。顔も知らない、たまたま同じ日に店の中にいた他人。今背後で己を上向かせている男と同じ、倒錯した世界を構築するキャスト。
突然、頭から氷水を掛けられたような気分になった。そうだ、ここは閉鎖された空間ではない。引き結んでいた唇が戦慄く。まるで、この男と二人きりのような錯覚に陥っていた。二人きりで、身体の自由を奪われ、従わされているような気になっていた。見られている、という意識はあった筈なのに。
指先がどんどん冷えていく。それなのに耳は異常な程に熱い。じとりと汗が滲み、背中を濡らした。肌を晒すことは頑なに拒否を示した為に服はほとんど乱れていないが、それでも大きく足を開かされた状態で拘束された姿を晒すことは、想像以上に余裕を奪われる。
早く解けと後ろの男に声を掛ければいいのに、声が出ない。男の手は既に離れていたが、俯くことも視線を動かすことも出来ず、何か言おうと開いた唇からはひどく震えた吐息が漏れるばかりだ。完全にパニックを起こした脳味噌は、本来優秀な筈のドフラミンゴの思考を完全に停止させている。
「随分といい反応をする」
それまで淡々とことを進めていた男の声に、初めて感情らしきものが混じった。肩を掴まれ、ぐるりと後ろを向かされる。抵抗できずによろめく身体を両手で支えた男が、双眸を細める。
「名前を言え」
羞恥からか、恐怖からか、怒りからか。微かに眦を染めたドフラミンゴを見下ろした男からの問いに、ドフラミンゴの眸が揺れた。だめだ、やめておけ、と脳内で誰かが叫んでいる。ほんの一瞬の間躊躇うように閉ざされたドフラミンゴの唇を、するりと指がたどる。こく、と、小さくドフラミンゴの喉が鳴った。
「…ドフラミンゴ…」
「そうか」
掠れてはいたが、辛うじて聞きとれる声だった。満足げに口角を上げた男が、身を屈ませた。びく、と身体を震わせたドフラミンゴには構わず、思った通り常と比べ赤みを帯びた熱い耳朶に唇を震わせる。くつくつと喉の奥で笑いながら、男は囁いた。
「ドフラミンゴ、また来い」
ああ、捕まった、気がする。霞が掛かったような頭の片隅で考えながら、ドフラミンゴは頷いていた。
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