ゴトリと重い音を響かせてガラス張りのローテーブルに叩きつけられた空のロックグラスとその傍らに鎮座するスコッチの琥珀色をした瓶は決して安いものではないが、普段酒を口にしないドフラミンゴには知った事ではなかった。
まどろっこしい。わざわざグラスに注いで飲むその手間が酷く煩わしく、ドフラミンゴは結局、手を伸ばした瓶からグラスに注ぐ事はせずに直接唇に傾ける。
この場にウィスキーを愛好するものがいればそんな飲み方をする酒じゃないと悲鳴を上げたかもしれないが、生憎ここは定例会議の為に招集されたドフラミンゴに宛がわれた個室であり、彼に意見するものは存在しない。そもそもそんな事を言われた程度で飲み方を変えるドフラミンゴでもないのだが。
飲み慣れない強いアルコール。喉を焼く熱に咽そうになりながら、ドフラミンゴは小さな飲み口から唇を離す。唇の端から零れた琥珀を指先で拭い、揺れる視界に眉をひそめた。
いつ飲んでも美味いと感じる事が出来ない。苦手なら飲むな、と呆れたように言われたのはいつだったか。大して昔の話では無い筈なのに思い出す事が出来ず、静まり返った室内に舌打ちを響かせる。
人の記憶とは脆いものだ。そんなことは知っていた筈だったが、今はその脆弱な人間の脳味噌が酷く恨めしく感じられた。全てを覚えていなければいけないと思うのに、ままならない。それが無理矢理に摂取したアルコールの所為だと気付けない程度には、ドフラミンゴの優秀であるはずの脳味噌は酩酊してしまっているようだった。
本来酒を受け付けない体質だというのに、胃袋を満たす強いアルコールはなにも朝から何も口にしていない空腹と相まって通常よりも速い速度で血液を犯し判断力を奪う。
まだ半分ほど中身の残っている瓶をテーブルに叩きつけるようにして放り出しても硬質な音が響くのみで繊細な筈のガラスには罅すら入る事はなく、別に叩き割ってしまいたい訳ではないのにドフラミンゴは何故か酷い不快感を覚えた。
かちり。不意に耳に届いた小さな金属音にゆるりとそちらへと視線を向ける。開かれた扉から薄暗い室内に光が差し込み、珍しくサングラスに遮られていない色素の薄い瞳が眩しげに細められた。
「……遅ェよ」
アルコールに焼かれた喉から絞り出した声は酷く掠れていて、己のものだと分かっていても滑稽で笑いを誘った。上等な絨毯が敷き詰められている筈の床をギシギシと軋ませながらドフラミンゴの腰掛けるソファに近寄る影――くまのかたちをしたものはしかし、突然笑い出したドフラミンゴに表情を変えることもしない。機械なのだから、当然なのだけれど。呼び出した手前なにか言わなければとは思うが、別に用事があった訳でもない。
「相変わらずつれねェやつだな。ベガパンクももっとおもしろみのあるもん作りゃいいのによ」
「………」
何を言っても反応は返って来ない。そんなことは最初の日に嫌という程思い知らされていた。昔から反応の薄い男ではあったがそれでもしつこく話しかけていればそれなりに返事は返ってきたし、時には饒舌に語り出すことだってあった。
肩を震わせて笑うドフラミンゴをただ見下ろす無機質な眼(材質はおそらくガラスか何かだろう)には少なくとも感情らしきものは見つからない。本来のこの身体の持ち主はどこにもいないのだと思い知らされるようで、アルコールの所為だけじゃなく吐き気がこみ上げた。
「……なんとか言えよ」
「必要性を感じない」
苛立ちを押し殺してぎろりと睨め上げる。嫌でも耳が慣れ始めた硬い声は、辛うじてくまの名残を残しているようだったがそれでも耳触りだ。黙っていても声を言葉を発しても不愉快にさせるなど一種の奇跡ではないだろうかとドフラミンゴは思う。
小さく舌を鳴らし立ち上がった瞬間、ぐらりと身体が傾いだ。無理矢理胃袋に流し込んだアルコールは思っていた以上に身体の機能を奪っていたらしく、くたりと萎えた膝に力が入らない。無様にもソファから転がり落ち毛足の長い絨毯に膝を突いたまま目眩をやり過ごそうと目を閉じるが、ぐらぐらと揺れる脳味噌が呼び起こす吐き気は収まらずじわりと涙が滲んだ。
不意に、身体が軽くなる。否、正確には身体が浮いた。驚いて目を開いた先に黒い壁、否、中心の抜けた十字の描かれた胸元と、見慣れた筈の顔。横抱きに抱えられ、予想外の事態に思考が付いて行かず吐き気も忘れて男の顔を凝視する。なに、と掠れた声が漏れた。
「顔色が良くない。呼気に含まれるアルコールも危険値だ。寝ていろ」
感情の起伏のない声が告げる。元々堅苦しい話し方をする男だったから、機械になってもあまり変わらないな、と頭の隅で考える。背を通って肩を支えるてのひらの感触と温度もまったく変わっていない。妙な既視感に、おかしな夢でも見ているのかと勘違いしそうだ。
「…随分と人間らしいこと言うじゃねェか」
「戦闘以外ではそうするようにプログラムされている」
「……、…そうかよ」
下らない命令だ。ぎりぎりと奥歯を噛み締めてようやく吐き捨てる。分かっているのだ。やれ暴君だ朴念仁だと言われながらも酷く人間臭かったあの男にこんな演技は出来やしない。期待している訳でもないのに、何故こんなにも落胆するのか分からなかった。
あいたい、と思う。叶わないと分かっているから、余計に。
「…分かった、寝る。寝るから、下ろせ」
「歩けないだろう」
手の甲で両目をかくしたままの訴えはあっさりと却下されてしまったようだ。しかしどうせ歩けないのは確かだったのでなにも言わない。広い部屋の隅にはそれなりに豪華なベッドが置かれているから、どうせそこに放り投げられて終わりだろう。
案の定男の足はベッドへと向かった。以前ならばまるで荷物のように放り投げられていたが、壊れ物を扱うようにそっと下ろされて眉間に皺が寄る。気持ち悪ィ、と唇だけで呟いたそれは音にはならなかった。
さらりとしたシーツの冷たさが火照った身体に心地良く、目を閉じてしまえばもう動く気にはなれなかった。このまま眠ってしまえそうだと思った矢先、ぐい、と肩を掴まれ身体を起こされる。
「ん、っだよ…」
「水を飲んでから寝ろ」
乾いた笑いが漏れた。馬鹿馬鹿しい。いらねェ、と肩を掴む手を払いベッドに倒れ込む。柔らかいクッションが後頭部を受け止め、完全に寝る体勢に入ってしまう。一瞬の沈黙と、ぎし、とスプリングの軋む音。ぐ、と顎を掴まれ億劫そうに目を開けた途端、視界を覆う顔。
「…は、ちょっとま…っ、ン…!」
咄嗟に押し退けようとした手はあっさりと掴まれ、抗議の為に開いた唇には冷たい唇が押し付けられた。びく、と跳ねた肩に構わず唇を割って入りこんだ舌先をぬるい水が伝う。酒に焼かれた喉が水分を欲するのは正常な反応だ。喉を鳴らしてそれを飲み下し、足りないと本能が訴える。ねだるように重ねられた唇を甘く噛み、離れたところで我に返る。これはくまじゃない。
「…ッ、なにしやがる…!」
「この方法が最善だと判断した」
さも当然のように言われ、うっかり流されそうになった己に内心臍を噛んだ。いくらあの男と同じ行動に動揺したとはいえ、アルコールに侵された脳味噌はこうも判断力を鈍らせるのか。
いつのまに持ってきたのか、サイドボードに置かれていた透明なボトルを手渡される。中身は水だろう。あとは自分で飲め、ということか。ひったくる様にそれを受け取り、唇の端から零れるのも気にせずボトルの中身を一気に飲み干してしまう。空になったそれを放り投げ、再び目の前の男を睨みつけた。
「寝るから、出てけよ」
「了解した」
そうだ。呼び出された理由さえ確認せずに、言われたまま命令に従うただの機械だ。己に言い聞かせる。向けられた背に違いは感じ取れないが、そう言い聞かせなければどうにかなってしまいそうだった。引き止めて縋って戻ってこいと無様に泣きだしてしまわないように唇をかむ。
酔いなど既に醒めてしまった。ああ、くまにあいたいと思う。
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