いつもなら防音の壁を越えて微かに届く筈の歌声や楽器の音が、まったく聞こえない。窓から差し込む西日によってオレンジ色に染まった廊下の端に位置する第二音楽室。授業では滅多に使われない為に吹奏楽部も声楽部も部活動のない金曜日の放課後、無人になるそこは彼――ドフラミンゴにとってかつて憩いの場だった。
教室の前方に置かれた立派なグランドピアノは長期の休みを挟んでも、夏の湿気と暑さに晒されても調律が狂っていた試しがなかった。一年前は不思議で仕方なかったが、今では誰が毎日のようにピアノの調整をしているのか知っている。
鍵盤蓋を持ち上げ、白と黒で構成される鍵盤を指先で撫でた。ぽん、と高い音が閑散とした室内に響く。背凭れのない椅子に腰かけ、ペダルに軽く足を添えると緊張感が解け自然と肩の力が抜けた。力むな、と以前耳触りの良い低音で言われたことを思い出し、引き結んだ唇が緩む。
派手な見た目に似合わず教科書や参考書の詰まった鞄から楽譜を取り出し目の前に立てかける。借り物だが、ここ数カ月最も手にする機会の多い楽譜だ。五線をすべるたくさんの音符。音の波の羅列。
楽譜の読み方さえも知らなかった己に差し出されたそれが、練習用の教本だと知ったのは指が攣りそうになりながらも必死に練習を始めた数日後だった。
音楽室が無人になる金曜日の放課後、一人で鍵盤を叩いていた時に掛けられた声。ピアノを習ったことがある訳でもなく、ただ一度だけ、小学生の頃に社会科見学と称し教師の引率で大勢のクラスメイトと訪れたピアノの演奏会で聞き惚れた。耳に残る高い低い軽快で繊細で重厚な音。それは楽しそうに鍵盤の上で指を躍らせるピアニストの表情が忘れられなかった。
あんなに弾けるようになりたいとは言わないが、ピアノに触れたいと心から思った。
それからは授業が終わるなり音楽室に潜り込み、用務員が鍵を閉めに来るまで一心に鍵を叩いた。当然教えてくれる人間がいた訳ではないから独学だったし楽譜を見ながら弾くなんて思い付きもしなかった。腐れ縁の悪友に呆れられる程だったが、それでも楽しかった。
高校に入ってからは複数のバイトを掛持ちしているのもあり、週に一度か二度程度しかピアノに触れる機会は無くなってしまった。小さなピアノを買ってしまおうかと思ったこともあったが、防音など付いていない狭いアパートでは置き場所もないし、近所迷惑になってしまうからと断念した。金曜日はシフトから外してもらうように頼みこみ、この日だけは音楽室のピアノを占領していた。
2年に上がって最初の金曜日も、同じように音楽室を占拠していた。耳で聞いたことのある音をただ指で追うだけだったが、春休みを挟んで久々に触れたピアノはやはり楽しかった。
そこはちがう。不意に耳元で聞こえた声に飛び上がる程驚いたものだ。誰かが音楽室に入ってきた気配に気付かなかった。重い引き戸の開く音にすら気付かなかったのだ。余程集中していたのだろうが、間の抜けた声で悲鳴を上げたあの時のことは未だに思い出すと顔から火が出る思いだった。
しかしドフラミンゴの様子を気にすることもなく、声の主はもう一度言った。指の位置が違う、と。固まってしまっているドフラミンゴの背後から伸びた手が鍵盤に触れる。ここはこうだ、と直前までドフラミンゴが奏でていた音を繰り返した。ドフラミンゴが何度やっても指が交差してしまって上手くいかなかった個所だ。
恐る恐る振り返ったドフラミンゴの視界に映ったのは、長身である筈のドフラミンゴを超える大男だった。

その日はずっと指の使い方を教えられた。大男は音楽の教科担当で、くまと名乗った。
ずっと一人でピアノを弾いていたからか、誰かに教えてもらうというのはとても新鮮だった。鼓膜を震わせる低い声は心地が良かったし、難しいと思っていた曲も弾けるようになった。
そこまで思い出して、ドフラミンゴはかぶりを振った。だめだ、この先は。
深く息を吸って、鍵盤に指を乗せる。軽快な滑り出し。繰り返されるトリルはくまと出逢って数え切れない程に練習したものだ。
指が攣りそうになって、無理だと漏らした弱音にくまは笑いながらお前なら出来ると言った。それが嬉しくて、なにがなんでも弾けるようになろうと思ったのだ。
鍵盤を滑る指先。防音の室内に跳ねる音。当初は最後まで弾き切ることが出来なかった曲も、今では最後の小節まで途切れることなく持って行くことが出来る。夢中になって楽譜を追って、鍵盤を叩いた。
最後の一音まで丁寧に弾き切ったドフラミンゴが顔を上げると同時に、くしゃり、と髪を乱される。驚いて振り返った先にはくまがいた。
「随分と上達したな」
「先生…いつからいたんだよ」
練習のつもりで弾いていたとはいえ、肩慣らしの曲を聞かれるのはなんとなくきまりが悪く、拗ねたように唇を尖らせてみせる。
「最初からだ」
「…声かけろよなー…」
「邪魔をしては悪いと思ってな」
邪魔になどなる訳がない。傍にいるだけでこんなにも心臓が早鐘を打つというのに、一分一秒でも早く会えるなら会いたいに決まっている。むろんそんなこと本人に伝えた事などないし、これからも伝えることなど出来はしないのだけれど。





吐き出した息が熱い。閉じられた鍵盤蓋に押し付けられる肌が冷たくてふるりと肩を震わせた。ああ、この体勢は好きじゃない、と思う。ただでさえこんな醜態を晒して居た堪れないと言うのに、顔が見えなくて不安だなんて口にしたらどんな顔をされるだろうか。気持ち悪いと言われたらきっと立ち直れない。戸惑いを隠すためのサングラスは床に転がっているのだから、振り返ることすら出来ないのに。
「は、ァ…ッ」
ずる、と潤んだ内壁を擦りながら引き抜かれ、ドフラミンゴの口から掠れた声が漏れた。どろりと内腿をつたうぬるい感触が不快なのに、行為の終わりを告げられているのだと思うともったいないとも感じる。
不意に腰を支えていた手が離れがくりと膝がおれ、ピアノに縋っていた指が滑った。外はもう真っ暗だ。早く服を着なければ、と思うのに体に力が入らず言うことを聞かない。腰を掴まれていなければがくがくと震える足は最中にくずおれてしまっていただろう。このまま眠ってしまえたら楽だと思うが、そんな訳にもいかないだろうと己を叱咤した。
多少足元が覚束ないものの、なんとか立ち上がり床に投げ出されていたシャツを羽織る。放課後の教室で全裸になるなんて、我ながら正気の沙汰とは思えない、とドフラミンゴは苦笑した。しかし服を脱がないと、帰ることの出来ないありさまになるのだから仕方がない。
「ドフラミンゴ」
名を呼ばれ、びくりと肩が跳ねた。ん?と小さく返事をして、感情を封じるためのサングラスを拾い上げる。
「来週は来れない」
「…分かった。別に大丈夫だぜ、一人で練習できる」
短く告げられた用件に落胆したそぶりは見せられない。サングラスで顔を隠し、くまを振り返ると極力明るい声でそう答えた。

施錠した音楽室を後にし、蛍光灯の明かりが頼りない廊下を並んで歩く。まだ仕事が残っているから、と昇降口でくまに見送られ、ドフラミンゴは校庭に出た。見上げると僅かに欠けた月がぽかりと浮かんでいる。
鼻の奥がつんと痛んだが、涙は零れなかった。
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