例えば、喜怒哀楽がはっきりしているところだとか。打てば響くように返って来る反応だとか。
人の生と死。ある種その臨界点とも言える病院という場所に身を置き、幾度となくそれに対峙してきた中で出会ったこいつは、随分と楽しそうに生きる奴だと。そう思った。



「先生、また明日!」
「ああ」

ニコニコと絶やさず浮かべる人当たりのいい笑顔。ベッドの上で手を振るナマエに軽く手を上げることで応えて、空間を隔てるカーテンを閉めた。

「……ハァ」

音も無く病室の外に出て扉を閉めた後、それにもたれるように背をつけると零れ落ちたのは一つのため息。腕を組んで頭を俯かせる。無言のまま考えに耽れば自身の脳裏に浮かぶのは、赤丸の入ったカレンダーとナマエの姿だった。
ナマエは確かに騒がしいが決して聞き分けの悪い患者ではない。だがその彼女が抜糸をしたくないとごねるから興味本位で聞いてみたのだ。「淋しいのか」と。
するとか細くナマエは「淋しい」と肯定した。妙な意地も何も張らず、頼りない心の内をそのまま曝け出したような声音と表情で。昨日泣かれた瞬間もそうだったが、聞いておきながらおれは柄にもなくひどく動揺した。命が掛かった急患を相手に精神が揺らぐような経験を何度もしているはずの自分が、たった一人の女の心の機微にここまで影響を受けるだなんて。

先生は、淋しいですか?

その問いにはどう答えるのが正解だったのか。
おれは医者で、あいつは患者。医者は患者を治すことが仕事で、使命で、義務だ。怪我が良くなって自分の元から離れていくことを淋しいなんて───どうしておれが言えようか。
応とは言えない。かといって否とも言いたくはなくて。そうして結局、口から出てきたのは医者としての模範解答。まるで聖人君主のようにすました医者の顔をして、何の事なしに言葉を紡ぐのが限界だった。

「…ままならねェな」

ひっそりと誰もいない廊下に声を落としては苦笑いを零す。
どんなに足掻いたところでどうにもならない。タイムリミットはもう、すぐそこまで来ている。


*****


治療において不必要なことはしない、というのがおれの医者としてのポリシーだった。

「ロー先生!」

だがナマエを前にするとそのポリシーは悉く破壊されている気がする。
救急搬送された当初は頭から大量の血を流して顔面蒼白だったくせに。屈託なく向けられる笑顔にはもはや見る影もない。

冷たい(そんなつもりはないが)態度を取ることで有名なおれに積極的に関わろうとする患者はかなり稀有な存在だ。最初の内こそ何かと馴れ合いたがる患者もいるが大体皆すぐ諦める。だからこいつもそうだろうと、一言二言交わせば落ち着くだろうと思っていた。
だが嬉々として話しかけてくる様には全然めげる雰囲気がなかった。寧ろ言葉を交わせば交わす程面白いおもちゃを見つけたかのように笑う。それが何だろうか…本当に何となく妹と被った。おれとは違い明るく社交的な性格に育った妹のラミ。そういえば確か歳も近かったな、と思い始めればあまり邪険にするのも気が引けてしまって。

少しくらいいいかと思ったのが運の尽き、と言ったら怒られそうだな。

多少大袈裟なくらいに返って来る反応は時として面白く、また時として心配もさせた。面倒な入院患者と喧嘩をおっ始めたと聞いた時には呆れたものだ。挙句ぶっ倒れるし、堪らず説教すれば喧嘩を売られただけだと不貞腐れるから説教に拍車がかかったのは医者として当然だろう。おれのことを型破りな医者だとナマエは言うが、ナマエの方こそおれから言わせれば型破りな患者だと思う。

「ちょっと先生、話聞いてますか?」
「聞いてる聞いてる」

素直に笑い、素直に怒り、たまに下手くそな照れ隠しを見せる。やる事なすこと本当に打てば響くような。だから思わずつついてしまうし、最初こそ妹だと思って半分以上仕方なく接してきたつもりがいつの間にやらすっかり絆されているのだから笑うしかないだろう。



『皆さんおはようございます。本日よりお天気コーナーを担当することになりました、ナミです!』

その日、朝食が並べられたダイニングテーブルに座りテレビの電源を入れると映ったのは橙色の長い髪の毛を束ねた一人の女だった。

(…この顔)

かなり見覚えがあるなと首を傾げる。すると思い出したのはナマエに半ば無理矢理見せられたSNSの画像。自分の好きなアイドルがおめざめテレビの天気コーナーをするんだとはしゃいでいた顔が浮かんだ。

「あれ、お兄さま今日はZAPじゃないの?」

今頃病室で騒いでないといいが、と思いながらジッと画面を眺めていればあくびをしながら向かいに座ってきた妹が不思議そうに声をかけてきた。特に理由は無いがうちの家では朝はいつもZAPを観ているために大体すぐにチャンネルを変えている。未だに眠そうな妹の顔を一瞥すると、テレビにもう一度視線を戻した。

「…おれの担当している患者がこの女のファンらしくてな」

理由としてはそれしかない。だからそのままの事実を言う。すると向かいの妹は目を真ん丸にして時が止まったかのように固まっていた。
何か変なことでも言ったのか。訝し気な視線を送ると、慌てたように立ち上がる。

「お、お母さまお父さま大変っ!お兄さまが患者さんの話をした!!」
「は?」

何を言うのかと思えば。医者なんだから当然だろうと思えば、両親とも驚いたようにやって来て逆におれは面食らうことになってしまった。
この時に指摘されて始めて知ったのだが、どうやらおれは今まで話を振られない限り家で患者の話をしたことがないらしく。しても病気の症状のことだけで、こんな患者の好きな芸能人など治療と関係ない≠アとなんて無論口にしたことなど無かったそう。

「その患者さんって女の人だったりする?」
「……お前と同い年だ」
「わあ!」

妙にキラキラさせてくる瞳が居たたまれない。ゆるゆると視線を逸らすと両親もどことなく生温かい微笑みを向けているのに気づいて余計に居心地が悪くなった。まさかと思うがこれ、

「おい…変なこと考えるなよ、ラミ」
「えー?」
「そうよ、まだ分からないわ」
「でも父さんには患者と結婚した医者の知り合いがいるから安心していいぞ、ロー」
「…!」

ああほら言わんこっちゃねェ!
結局家を出るまで妹からはナマエのことを根掘り葉掘り聞かれ、生温かい家族の微笑みは続いた。適当にはぐらかすことも叶わずおめざめテレビの星座占いの件まで話すと家族全員ノリノリで見始める始末となり、おれはナマエの星座が一位だということを知る。
ちなみに何故おれがナマエの星座を知っていたのかというと、医者が患者の生年月日を知ることなんて造作も無いことだからな。カルテを見れば一発だ。


*****


「ロー先生や」

病院の廊下、一人で歩いていた最中に呼ばれた名前に振り向く。だが視界には誰も居らず不思議に思って目線を下に向けると微笑みを携えた老齢の女がそこにいた。ここは入院病棟、私服を着た女は一見見舞い客かと思いそうだったが、顔を見れば誰なのかはすぐに分かった。ナマエと同じ病室にいた入院患者…名前はタケコ、だっただろうか。おれの担当では無かったがナマエとよく話しているのを見かけていた。といっても特に会話を交わしたことはなかったため、まさか声をかけられるとは思わず固まってしまう。今日退院すると担当医からは聞いていたものの今更自分に何の用なのか。
考えあぐねるおれを余所にばあさんは手をこちらに差し出してくる。そこには一本のボールペンが握られていた。

「ナマエちゃんから借りていたのをすっかり忘れててね、悪いんだけど代わりに返してもらえないかね?」
「あ…ああ」

なるほどそういうことかと大人しくボールペンを受け取れば、相変わらず微笑みを浮かべたそれと目があった。何か、他にもあるのか。読めない笑顔に訝しげな視線を送るが、そこは伊達に歳を重ねていないとでもいうように全然動じた様子も無くばあさんは微笑っていた。

「ナマエちゃんは素直でいい子でしょう」
「…? はあ…」
「お医者さんという立場は難儀なものだね」

何の話を、と思ったのは一瞬で、この時既におれの頭は疑問の答えへとたどり着こうとしていた。こういう時無駄に冴える己の頭と勘が憎いと思ってしまう。

「おい…」

無意識に凄んだような声が出る。だがやはりこのばあさんには全く効果がないらしく、「おや」なんて言いながら目を丸くして幼子を相手するかのように食えない表情をした。

「思ったより初々しい反応をするんだねえ」
「は…?」
「自分が抱えているものなんて第三者に指摘されて初めて知るのはザラさ。何も変なことじゃ無い」
「……」
「先生を見てるとおじいさんを思い出してしまってね。気持ちを表現するのが下手くそでなかなか動いてくれないから、当時の私はヤキモキしたものだよ」

先生の場合は動きたくても動けないっていうのもあるのかもね、とばあさんは笑う。たどり着こうとしていた疑問への答え。それが間違っていないことをここで確信して思わず眉間に皺が寄ったのが分かった。

「だからつい、お節介を焼いてしまった」
「っ、おい!」

笑いながら踵を返すばあさんに呼び止めるような声が口をついて出る。だがそれは全く聞こえていないかのようにスルーされた。程なくして相手の元に家族が現れてしまえばもうおれに為す術は無い。家族に連れて行かれる様子を眺めた後、手中にあるボールペンに視線を移す。あの口ぶりじゃこれを本人に返すのを忘れていただなんて十中八九嘘だということは容易に想像がついた。
なんて女なんだと堪らずため息が出る。ふわふわと柔らかく笑う優しいばあさんなんてとんでもない。あれは人の皮を被った女狐だ。



その日の夜、宿直だったのもあってついでにとナマエの病室に向かう。あの女狐が退院したということは四人部屋に一人で話し相手もいないし大人しくしているのかと思えば、そこはさすがというか何というか、テレビに向かって騒いでいる最中だった。

「…一人になったらお前は余計騒がしいな」
「〜ッ!いつもはこんなんじゃないですけど!?」

羞恥を滲ませた顔でベッドに腰を下ろす姿につい笑いが零れる。やっぱり見てるとつくづく飽きないと思わせるから、ここに向かうのが楽しくなってきてしまっている自分に肩を竦めた。
ナマエが騒がしかった理由はテレビに映っている人物を見ればすぐに分かる。もはやそれ以外の理由が無いとでもいうように案の定、橙色のロングヘアの女がそこに映っていた。

「ハンコック!先生、ハンコックですよ」
「うるせェ」

何となく、時間に余裕があったからナマエと並んでテレビを眺めれば、映った黒髪の女にいち早くナマエは反応する。何を思っているのか、なにかとこいつはこの女を勧めてくるものだから面倒だ。確かに顔は綺麗だと思うがいかにもお高くとまったという感じで好みではない。元々そういう女は異性としてあまり好きなタイプじゃなく、前に一度似たようなことを同じ病院で働くペンギンとシャチに言ったら「同族嫌悪ってやつですか」と言われた。あいつらはいつか絶対バラす。

「先生ってどんな女の人が好みなんですか?」

余計なことを思い出したなと内心独りごちていると丸い目が不思議そうにこちらを見上げる。考えていたことを見透かされたような質問に面食らった。

「…何だ急に」
「単なる興味というか」

好み、か。改めて考えてみれば、好きではないというのはあってもこういう女が好きというのはあまり考えたことがないなと思い至った。というもの、親譲りの見目と医者という職業が相まってか正直これまで女に困った試しがない。ちなみにこれを言ったらペンギンとシャチからは大顰蹙を買ったのだが。
思案する頭に合わせて目線を巡らせた後、もう一度自分を見上げる丸い目と視線を合わせる。単なる興味、と言ったようにおれを捉えるのは何の目論見も無さげな瞳。それを認めると自身の思考回路とは全然別のところから、零れ落ちるようにその言葉は出てきた。

「バラしがいのある奴」

あまりお高くとまった奴は好みじゃない。かといって大人しければいいのかというとそうでもない。だからそうだな、少し騒がしくて分かりやすいくらい、一挙一動目が離せないと思わせるくらい、常に興味を持たせてくれる奴がいい。
おれの台詞に目の前のナマエはポカンと口を開けて間抜けな顔をしたと思えば、みるみるうちに白けたような表情を作り出すのでそれがまた面白くて。

「先生…」
「何だ」
「多分それだと人間とは付き合えないかと」

ああやっぱり。どこまでもこいつは期待を裏切らないなと笑ってしまう。反応がいちいち的を得ている感じがしてしっくりくるというか。するとつい、気が緩んでしまった。

「ナマエはありそうだけどな、バラしがいが」

それは全く口にするつもりのなかった余計な一言。直後にしまったと思った。

「は…やめてくださいよ!?嫌ですよそんなの!」

だが言われた張本人の言動に、おや?と内心首を傾げた。
嫌、という言葉を使っているがそれはおれが考えている意味とは違った方向のもの。しかもお目当てのアイドルがテレビに登場すれば「始まりましたよ!」なんて呑気に言ってのけた。もはや完全に興味がそっちに振り切っている様子に思わず瞬きを繰り返す。
…もしかして、これ、気づいていないのか。

「…? 何で笑ってるんですか?」

不味いとさっきまで冷汗をかく心地だったくせに、何も知らずに不審そうに聞かれるとそれはそれで少し不服というか焦れったいというか。
そこで漸く、おれは自分の抱えているものをちゃんと認めることができた気がした。

「さあな」

そこは気づけよ、なんて考えては、でもそういうところが、とも思うのだから我ながら救えない。
「さっきのはお前のことだぞ」ともしここで言ったら、こいつは果たしてどういう反応をするんだろう。
もっと慌てたように騒ぐだろうか。話が見えないとばかりにとぼけた顔をするだろうか。───それとも。

(…それはおれが言えることじゃねェしな)

お医者さんという立場は難儀なものだね≠の女狐のしてやったりと笑う顔が目に浮かぶ。
全く、お前の言う通り本当に難儀なものだよ。そのことには気づくべきじゃなかったというのに。
とんだお節介を焼いてくれたなと悪態をつこうにも、女狐は巣へと帰ってしまっている。ここまで相手の計算の上なのだろうかと思うとひどく悔しい気もするが、胸の内は不思議とすっきりしていた。


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