人間の感情というものは本当にままならないもので、大事な時ほど制御が利かないと思った。
「ナマエ」
「〜〜ぅう…!」
「おい、ナマエ」
俯かせた頭の上からロー先生の呼ぶ声がする。やばい。とても、やばい。そう思えば思う程涙腺は緩むばかりで、どうにか抑え込もうとしてもただ気味の悪い呻き声が出るだけだった。ポタ、とボールペンを握りしめた手の甲に雫が一粒落ちる。ああ、本当にどうしよう。頭の中で妙に冷静な私が囁いた。頭は不思議と冴えている。なのに胸の中心が、心が嵐に見舞われたかようにひどく吹き荒れていた。
「…どこか痛むのか」
神妙に問われたそれには首を振って答える。
「じゃあ何で泣いてんだ」
「……泣いてません」
「泣いてんだろ」
「泣いてな゙い゙」
滲んだ声音は我ながら見え見えの嘘にも程があった。でも泣いていると認めても、一体何と言えばいいのか。自分でもどうしてこんなに涙が溢れてくるのかよく分かっていないのに。
ただ、予感がしている。気づいてはいけないものに気づきそうな、そんな予感が。それは本能的なもので、その予感を探ったりましてや口にしてしまったりしては駄目だと察知したのもまた本能からくるものだった。
「…泣いてんじゃねェか」
「泣いてないって言ってるじゃないですか…!」
突然泣かれるなんて面倒に決まっている。いっそのこと見て見ぬフリをしてくれればいいのに。そう思うけど先生はどうも見過ごしてはくれない。だから私も私で意固地に言い張って、服の袖で適当に目を擦った。すると落ちてくるのは大きなため息。まるでどうしようもないと言いたげそれに身体が思わず固まる。ああほら、やっぱり面倒なんだって、そう思った。
───なのに。
「…そんなに目をこするな。腫れるぞ」
そう言って伸びてきた手。頬に添えられるようにして触れてきたそれに顔を持ち上げられると、少しだけかさついた親指が私の目尻を拭った。そこから流れるような動作で濡れた目の下、頬も優しくなぞる。その瞬間、私はなにが起きたのか分からなくて。泣いていたことも忘れてポカンと呆けた顔をしてしまった。そうすると故意に合わせずにいた視線がバチリとぶつかる。
「───」
ふ、とロー先生が目を細めながら微笑った。
「……っ!」
「! おい!」
全身の血流が一気に激しくかけ巡って身体中が熱くなる。パシンなんて乾いた音を立てて先生の手をはたきおとせば抗議の声が聞こえてきたが、そんなものに気を遣う余裕なんて微塵もなかった。
(…なんでッ、なんでそういうことするかな…!?)
これはただの考えすぎで、思い過ごしだったのかもしれない。それでも今の私にはそうとしか感じられなかった。涙を拭うなんて、頬に触れるだなんて、まるで、
(大事に扱うみたいに…!)
私はただの患者のくせに。もうすぐ患者ですらなくなる存在のくせに。ただのお医者さんがそんな安易に優しく触れてこないでほしい。もうこれ以上、私を───
「…帰ってください」
「は?」
「私寝ます!だから帰ってくださいっ!さようなら!おやすみなさい!」
胸が苦しくて痛くて、たまらない。ねえ先生、お医者さんなら助けてよ。そんなこと言えるはずもなかった。
先生の白衣を引っ掴んで身体を反転させると、無理矢理カーテンの向こう側に押しのける。そして先生の身体が私のベッドを囲むカーテンの境界線を越えた瞬間、物理的に…かつ心理的な意味も込めて壁を隔てるように勢いよくカーテンを閉めた。
「……っ」
ベッドに戻って布団を頭まで覆い被せる。ぐるぐると淀む思考回路を放棄するように暗闇の中でギュッと固く目を閉じて身を縮ませた。本当に何をやっているんだか。私にはもう、時間が無い。抜糸の予定日はもう目と鼻の先まで来ている。
そんな日なんて、ずっと来なければいいのに。
*****
『それでは今日も元気にいってらっしゃい!』
お決まりの台詞の直後、テレビの番組が切り替わる。今日も今日とておめざめテレビの放送を見届けるとリクライニングのベッドに背中を預けた。
始まった別の番組をぼんやりと眺めながら、ふと視界に入るテレビ台の端。そこにある卓上カレンダーを見遣った。明日の日付を囲む赤丸。それはロー先生が言っていた今週末…頭の怪我の抜糸予定日だった。
(ついに明日、か)
どんなに来なくていいと思っていても、夜は更けるし朝は来る。時の流れはいつだって平等だ。忘れるはずもないのにしっかり印されたその赤丸はまるで戒めのように感じられて、書き込んだ当時の自分を思い出しては苦笑するしかなかった。
慣れた手つきで解かれた包帯。そこの下にある傷口を確認されればすぐにまた元通りに巻き直される。
「調子はどうだ」
昨日の今日ということもあるのだろう。私たちの間に流れる空気はいつもより重たかった。それでも先生はお医者さんだからこれまで何度も繰り返された質問を今回もする。きっと前に言っていた医者としての最低限の義務というやつなんだろうなと漠然と思った。
「バッチリですよ」
それなら問いにちゃんと答えるのは患者としての義務なんだろうと私も笑顔を貼り付ける。するとチラリと先生がカレンダーに目線を配ったのが分かった。
「…明日、何時がいい」
「え?」
「抜糸の時間だ」
それは…私が言ってもいいのだろうか。先生には他にもっと仕事があるはずなのに。思ったままのことを口に出せば、できるだけ希望には沿うようにすると言う。終わりを…自分で決めろと。この人にはもちろんそんなつもりは無いのだろう。だが随分と酷な真似をしてくれると理不尽な憤りに口を真一文字に結んだ。
でも、それなら。私が決めていいんだったら。
「やりたくないです」
つい、魔が差してしまった。
「…は?」
無表情のその顔に噛みつくような視線を向ける。切れ長の目を丸くする様がスローモーションのように感じられた。
「…それは、」
「分かってます。でも抜糸なんかしたくない。だって先生、」
もうここに来てくれないんでしょう?そう続けようとした口は開いたまま声にできなかった。やめておけ、冷静になれとすぐに自身を咎めるもう一人の自分の声が聞こえてくる。そうだ、こんなことしたって変わらない。誰よりも自分が分かっているのに。口を閉じてはもう一度開いて、また閉じる。間抜けにそれだけを繰り返した後、堪らず右手で顔を覆った。罪悪感、虚無感、他にもたくさんの複雑なものがのしかかってきた気がして何だか胸が重たい。
それを和らげるように深く深く息を吐くと、頭の上に何かが乗った。よく知った温もりの、何か。
「もしかして淋しいのか」
本心はどうであれ、そんな訳ないでしょ!って少し前の私なら笑いながら突っぱねられただろう。医者のくせして舌打ちするし脅すし、意地悪だしすぐ人のこと揶揄うし。ここまで破天荒なお医者さん今まで見たこと無い。だからきっと明日が終われば穏やかな毎日が訪れるんだって。でももう今は。
私の頭を撫でるこの手の主は小さく微笑っている。見てしまうと、隠せなかった。
「…さみしいです」
ぽつりと零した本音はあまりにも弱々しくて。
淋しいよ。すごく淋しい。当たり前でしょう。意地悪だけれど、それ以上に優しくていつだって先生は私のことを気にかけてくれた。面倒くさそうにしながらも一度だって私が話しかけるのを蔑ろになんてしなかった。ほとんど一方的に話したような会話の内容だってちゃんと覚えてくれていた。「誰にも言うなよ」って言いながら微笑ったり、こうして頭を撫でられる度に少しずつ胸の内に温もりが募っていったのを、先生は知らないでしょう?
こんな予定じゃなかった。どうせ終わってしまう関係なら変に優しくするなって恨み言のひとつでも言えたなら。でもそんな気も起こさせないんだからずるいよ、ロー先生。
「ほら、せっかくマリガルの話聞いてくれる人できたのにって思って!無理矢理だったけど!」
本当、ままならないなあ。
「……」
「…先生は、淋しいですか?」
首を傾げながら努めて茶化すようにそう言った。期待は、していない。でもいい意味で裏切ってはくれないかと、そんな空想を抱いているのも本心だった。月光を閉じ込めたような金色の瞳が数拍私を射抜くとフッと伏せられる。
「…おれの患者が少しでも良くなって減るならそれに越したことはねェな」
明確なYES・NOの返答ではなかった。だけどその言い方はきっと…そういうことなんだろう。証拠にロー先生の顔はどこまでも医者のそれだった。
「…ふふ」
「ナマエ?」
「ふふふっ、あはは!」
もっと落ち込んだり、傷ついたり、それこそまた泣いちゃったりするのかなって思ってたけど。自分でも驚くことにこみ上げてきてきたのは笑いだった。
冗談でもそこは淋しいって言うところでしょ、とか、意外と真面目なこと言いますね、とか茶化す台詞はたくさん浮ぶ。けれど怪訝な表情をする先生を見るとますます可笑しくなってしまって結局全部笑い声に変わってしまった。
(変わりないっていうか、歪みが無いっていうか)
どこまでいっても先生はお医者さんで、同時に私は患者。その事実を改めて思い知れば不思議とひどく安堵した。
「ねえ先生、今日も話聞いてくれますか?」
ああもう、大丈夫な気がする。あんなに乱されていた心が一気に凪いでいく。漸く憑き物が落ちたかのように自然と笑うことができた。
「…ああ」
先生は一瞬だけ目を見開くと椅子に腰掛ける。それで?と当たり前のように続きを促してくれることがやっぱり、嬉しくて。
「今日のナミもすっごく可愛かったんですよ!衣装がとても似合ってて…」
これでいい。お嬢様のことを思いだすと未だに少し胸が痛いけれど、これで、いいんだ。私に首を突っ込む余地も、胸を痛める道理も元々無い。
「あ!あと聞いてくださいよ、今日の星座占いなんですけどね」
「そんな急いで話さなくても逃げやしねェよ」
だからこの僅かな私だけの時間を噛み締めよう。
可笑しそうに笑みを浮かべる先生に私も喜色に滲ませた顔で笑い返した。