その日の検温中、ナミ似のナースさんと顔を合わせた時にふと目に入ったのがきっかけだった。

「それかわいいですね」

私が指さす先、ナースさんの胸ポケットからひょっこり顔を覗かせていたのは白熊のようなキャラクターの顔。もふもふとしたそれは多分ボールペンの頭の部分だろうか。にしても随分と大きい気がするけど。可愛らしい顔に思わず声をかければナースさんは自身の胸元を確認して、ああ、と納得したような声を出した。

「これはうちの病院のマスコットキャラクターのベポ≠ュんよ」
「ベポ…くん」
「さっきまで小児科のところにいたから。これ持ってると子供からのウケがいいのよね」
「お…おお…」

ウケがいいってそんなサラッと裏話みたいなこと言っちゃうのか。そんなところもどことなくナミに似てるななんて漠然と思う。それよりここって確かに大きな病院だけどマスコットキャラクターまで作ってるんだ。不思議に思ってその場でスマホで検索をかけてみると思いのほか検索結果がヒットして、誰かが撮影したであろう大勢の子供と戯れる着ぐるみの動画まで出てきた。ナースさんによると着ぐるみにしてはめちゃくちゃ喋ってるし動きも自然すぎるから一部ではそういう生物なのではという在らぬ噂まであるとかないとか。

「ちなみにロー先生もこれ持ってるわよ」
「えっ」

ボールペンとしての機能性よりもデザインを優先したために大きな頭のついたそれは、曰くここの病院従事者のマストアイテムなのだそう。それはロー先生も例に漏れず、子供の患者を相手にする際に怖がられないようにベポくんボールペンを白衣の胸ポケットに差して診療にあたるのだとか。頭の中でこのボールペンを持った先生をイメージする。ついでに子供に媚を売る姿も想像してしまった。…なんか、すごく、

「かわいい」
「!」
「…って思ったでしょ」

思考に覆い被さるように言われた台詞に目を見開くとナースさんがニヤリと怪しく笑っていた。その表情に思わず口元がひくつく。

「…そのペンがかわいいなとは思いましたけど」
「ふーん?これ非売品だけど欲しいならおねだりしたら?くれるかもよ?」
「いや…別にそこまでは」
「それとも私のコレあげようか?大好きなロー先生とおそろい」
「……! ああもう!」

やっぱりそういうこと言うと思った!大好きの部分をいやに強調されて一気に居たたまれなくなる。前にこのナースさんとはロー先生のことを指摘されてからこの調子だ。多分面白がってるのが大半だろうけど!ていうか好きとは言ったけど大好きなんて言ったこと無いし!

「だからそれはヘンな意味じゃなくてですね!」
「あーなんだっけ、推してるって意味だっけ?」
「そう!そうです!ロー先生は、」
「おれが何だ」
「ぎゃー!?」

突如として割り込んできた声に幽霊でも見たかのようなリアクションを取ったのは不可抗力だと思う。絶妙というか最悪というかのタイミングでやってきたロー先生に「あらあ、噂をすればってやつね」なんて語尾にハートマークがつきそうな口ぶりでナースさんは笑った。その笑顔が何というか…とてつもなく愉しげで。

「ナマエさんの推しも来たことだし、私は退散しようかしら〜」
「は?」
「わー!?!?」
「それじゃあね」

なんて事を言い残すんだ!そんなツッコミをするよりも早くナースさんは含み笑いとともにウィンクをして颯爽と去ってしまった。完全に…完全にからかわれている!なす術もなく、ただ呆然と彼女を見送れば数拍置いてロー先生からはため息が落ちてくる。

「全く…仲がいいのは構わねェが騒ぎ声が筒抜けだぞ。一人の病室だからってはしゃぐな」
「す、スミマセン…」

いやこれほぼナースさんと不意打ちで現れた先生のせい…なんて責任転嫁同然なことを思わず思ってしまったが口に出せば間違いなく目で殺される…ヘタしたらメスが飛んできそうだとすら思ったので大人しく謝罪の言葉を口にする。すると「大体お前は…」から始まり、久しぶりに小姑のようなお小言を先生は零し始めた。どうやら幸いにもナースさんの推し発言はスルーしてくれるらしい。
くどくどと続くお小言にしおらしく首を垂れていれば、ふと目に入ったのは先生の白衣の胸ポケット。そこからひょっこりと覗いた白熊の顔と目が合った。

(…え、あれっ? これって…)

ベポくんなのでは?
噂をすれば、なんてついさっきナースさんが言った台詞と同じことを思う。ロー先生も小児科に行っていたのだろうか。一度その存在を認識すれば無かったことにはできるはずもなくて。呆れた表情を隠すことなく説教を続ける先生と胸元にあるチャーミングなマスコットキャラクター。ただでさえ先生がベポくんボールペンを持っているだけでも何だかかわいいのに、今の状況によって生まれているアンバランスが殊更、

「おいナマエ…なに笑ってんだ」
「へっ!?」
「医者が話してるときにいい度胸だな」
「ちょ、誤解誤解!誤解ですってば!」

(微笑ましかっただけなのに!)

胸元のベポくんがかわいくて!そう言いたかったけれど、完全に医者として小姑モードになっている先生へ弁明の機会を与えられる隙もなく。結局私は更にお説教を食らうことになってしまった。


*****


その翌日、ロー先生は決まった時間になっても回診に来なかった。
いつもならどんなに遅くなっても来てる時刻になっても先生は姿を見せなくて。今日はお休みなのかな?とこの時は思っていたのだけれど。

「ロー先生はお嬢様≠ノ捕まってるのよ」

私の疑問を解消したのはお馴染みのナミ似のナースさんの一言だった。

「お嬢様=c?」

たどたどしく復唱した私に血圧測定をしながらナースさんは首を縦に振る。
聞くところによると、過去にロー先生が担当したとある難病を抱えた患者さんがお見えになっているそう。その患者さんは世界的にも超有名な大企業のご令嬢で、ロー先生のおかげで病気は完治したのだとか。すると彼女は先生をえらく気に入り、そして今日お父様…つまりその大企業の社長を引き連れて会いに来たらしい。

「何度か顔を合わせてるらしいわよ。相手が相手だから病院としても怒らせるわけにはいかないし、さすがのロー先生も無下にはできないみたいね」
「ど、ドラマみたいですね」

至極庶民的な感想しか出てこなかったのだが、曰くここは大病院なためにそういうことは意外と多いらしい。政府のお抱えの人物とか芸能人とか。

「ロー先生はご両親も優秀なお医者さんだし割と名のある医者一家だからねー、今頃もしかすると縁談でも持ち掛けられてたりして」
「え、縁談ッ!?」

思わず大声が出てしまって、慌てて口を押えた。そんな私にナースさんは面白いものを見たかのように含み笑いを浮かべる。

「もしかして気になる?」
「い…いえ…そんな訳では」
「やっぱり気になるわよねえ。ナマエさんからしたら自分の回診を放っておかれてまで他の女のところに行ってるんだもの」
「別にそんなこと思っては…!」

うんうんと納得したように一人頷くナースさんに居たたまれない気持ちになる。ま、まああんなに傍若無人とも言えるような態度をとるロー先生が無下にできない相手なんて一体どんな…という興味はある。あくまでただの興味だけど!

「運が良ければもうじき帰るところに遭遇するかも、」

そうナースさんが零した時、病室の外が騒がしくなった。途端にナースさんも私も口を噤んで顔を見合わせる。そしてナイスタイミング、とナースさんは不敵な笑みを零した。
こそこそと二人して病室の出入口に向かえば静かに扉を開く。そして廊下に頭だけを覗かせると、そこには人だかりができていた。

「うわー、錚々たる面子って感じ」

顔を見たナースさんが言うには、病院側には会長、副会長、院長、婦長などが揃い踏みだとか。その中央にはロー先生がいるのだからさぞすごい光景なんだろう。そして先生の前に立つのは一人の女性。

「あれがお嬢様≠諱v

スラリとした長い手足と白い肌、顔はお人形のように小さく整っていて、とにかく綺麗な人だった。遠目から覗いているために会話は当然聞こえないが、彼女がロー先生の両手を包み込むように握る。言葉を交わしながら何度か頭も下げていた。それにロー先生も何かを話している様子が伺える。なんだろう、あの二人を見ていると本当にすごく、

「ドラマみたいですね…」

つい少し前に零したのと同じ台詞。だけど使う意味はあの時とは全然違っていた。



日が落ちて窓の外もすっかり暗くなった頃、ぼんやりとベッドの上に寝転がる。電源の入ったテレビからは音声が聞こえてくるものの全然意識がそっちに向かなくて。もうすぐハンコックがゲスト出演するバラエティ番組が始まるというのに。ふう、と息を吐いて天井を眺めると頭に過るのは今日見かけたロー先生とお嬢様の姿。

「…お似合いだったなあ」

美男美女という言葉があそこまでぴったりなことはそうないのでは、と思ってしまった。美人な上にお金持ちって…神様は不公平すぎる。
ちょっとは私も特別扱いされてるんじゃないか、って心のどこかで思い始めていた。でも全然違う。あの人とは特別の度合いがまるで違う。きっとロー先生と患者以上の関係になれる人は、ああいう人なんだ。
そもそも何を勘違いしてたんだろう。私はただの患者で、お医者さんとしてのロー先生しか知らないくせに。きっと彼女に比べたら私はミジンコだ。ミジンコにも失礼かもしれない。

「いいなあ…」

無意識に呟いたその台詞。その後寸秒遅れて我に返った。…え、今私何て言った?待って、いやいやいや、

「いいなあ、って何よ!?」

自分で自分に盛大にツッコんだ。確かに美人で羨ましいとは思ったけど!相手は!大企業のご令嬢!身の程知らず過ぎる!いやその前にロー先生はただの推し!美女とくっついたところで関係ないし!そう、全く関係なんて…

「〜〜〜っ」

ないのに…!堪らずベッドから起き上がって頭を抱える。唸り声を一人で上げていると、いつの間にかテレビにはハンコックが映っていて、待っていたバラエティ番組が始まっているようだった。今日も相変わらずの美貌を振りまく彼女を画面越しに眺める。

「…私もハンコックみたいに美人だったら」

ああでもロー先生はハンコックが好みじゃないんだった。だめだ。

「やっぱり私はミジンコ…」
「何言ってんだお前」
「!?」

ぼそりと独り言を落とせば、予想外に返って来た声に肩が跳ねた。ここ最近不意打ちで現れるのがブームなのか、と思わず現れた人物に悪態をつきたくなってしまう。

「……」
「……」

訪れる沈黙。何を言えばいいのかと目を泳がせた。

「…てっきり今日はお休みだと思ってました」

あー!なんで私はそんな嫌味っぽい言い方しちゃうかな!そう思ってももう遅くて。まともに目を見れずに視線を伏せてしまう。

「今日は外せない用があってな」
「………」

あの綺麗な女の人に会うことが?そう口をついて出てきそうなのを既で堪えた。言葉を飲み込むように下唇を噛み締める。すると椅子に座ったロー先生に顔を覗き込まれた。

「何だナマエ拗ねてんのか?」
「…はっ?」

小首を傾げてそんなことを聞かれるから思わず目を瞠る。先生の口元は小さく笑っていて、いつものように揶揄っているというのはすぐ分かった。

「…ッ、拗ねてませんけど!」

カッと顔が熱くなる。憤りを押し出したような鋭い声が出てしまって、やってしまったなんて内心叫んだ。こんなの図星だと、言外に拗ねてると言ってるようなものだ。歪む表情にロー先生は面食らったかのように少しだけ目を見開く。そうして手のひらを私の頭の上に置いた。

「…冗談だよ。ナースが心配していた、調子が悪そうだって」
「!」
「だから様子を見に来たんだ」

先生の言うナースはきっとあのナミに似た人だ。先生にはからかい半分で話したのかもしれないけど、それでもこの人はここに来た。いつもならそれに私は手放しで喜べるはずなのに。今はその優しさが少し、苦しい。
ロー先生の顔はもう笑っていなかった。本当に心配しているような、そんな表情をしていた。ああ、気を遣わせている。本当に私は何をやってるんだろう。すぐさま襲ってくるのは大きな自己嫌悪。後ろめたさからまた先生の顔を見ることができなくなってしまって下に目線を逸らすと、ふと目に入ったのは白衣の胸ポケットだった。そこから顔を覗かせた、白熊。ベポくんのボールペン。
欲しいならおねだりしたら?
それを認めた瞬間、あのナースさんの言葉が頭に浮かんでしまった。

「それ…かわいいですよね」
「?」
「…私も、欲しい」

虚ろに見つめた視線の先のものに気づいたのか、ロー先生は自分の胸元を見遣る。ポケットにいる白熊の顔。少しの沈黙の後、先生は徐にそれを取り出すと私の手のひらに渡した。

「…え」
「? 欲しいんだろ?」

やる。そう簡単に先生は言う。

「えっ…えっ、だめですよ!これ非売品って聞きました!ここで働いてる人しか持ってないんですよね!?」
「別にナースステーションに行けば予備がある。それとも新しいの持ってきてやろうか?それはおれが使ってたやつだから汚れてるしな」

確かにそれは先生の言う通り、インクは少し減っていて、ベポくんの耳は黒くなって使用感があった。
でもだからこそ、ロー先生が使っていたのがありありと分かるから。

「…これが、いいです」

ぎゅ、とボールペンを握る。小さくそう伝えると、先生はもう一度軽く頭を撫でてくれた。「誰にも言うなよ」と言いながら。それがなんだか、とてもいけなくて。

「…ナマエ?」
「……っ」
「おい、どうした」

本当にいけない。馬鹿げてる。こんなことで涙腺が緩むなんて、馬鹿げてる。なのに一度コントロールを失ったそれはもう制御が効かなくて。
珍しく動揺した風のロー先生を置いて、私は涙を零してしまったのだ。


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