「そういえば私っていつ退院なんですっけ」

時の流れというものは早いもので、交通事故に見舞われて突然始まった入院生活から一週間以上が過ぎた。そこでふと湧いて出てきた疑問を口に出せば、目の前のお医者さんはそれはもう言いたいことがありありと伝わる顔をする。

「お前聞いてなかったのか」

うん、絶対そう言うと思ってた。もう先に顔が言ってたもん「マジかよ」って。入院したばかりの頃に言われたはずなんだけど正直話半分にしか聞いてなかったというか…頭の熱と身体の痛みに魘されてもはや覚えていない。正直にそのことを伝えればロー先生はため息をつく。もうこの反応も定例化してる気がするなあ、なんて頭の隅で思いながら先生の顔を眺めた。

「頭の抜糸は今週末」
「はい」
「だが腕の骨折が残っているから退院はまだ先だ。抜糸後は整形の医者に引き継ぐからおれからは何とも言えない。恐らく今月末くらいじゃないのか」

あーなるほどー、なんてうんうん頷いていればはたと動きが止まった。今この人さらりと言ったけどなんかびっくりすること言ってなかった?抜糸後は整形の医者に…

「えっ!?」
「何だ」
「引き継ぐってなんですか!?」

聞き捨てならない発言に大袈裟に食いつけば、至極当然といったような素振りでロー先生は白衣のポケットに手を突っ込む。

「頭の処置はおれがしたが、腕は整形の分野だから専門外だ」
「じゃ、じゃあ抜糸が終わったら」
「おれの役目は終了ということだな」

そ、そんな…!私はてっきり最後までロー先生が診てくれると思っていたのに…!そういえば確かに先生は頭の傷だけ確認して、腕はノータッチだったなとこれまでを思い返す。

「抜糸っていつでしたっけ」
「今週末」

こんしゅうまつ。思わずたどたどしくそう反復してしまった。じゃあ、つまりロー先生が今みたいに回診に来てくれるのもあと少しってことなのか。

「…どうした、都合でも悪いのか」
「へっ!?いや、全然!」

今週末で、こうして先生と話すことも無くなる。当たり前のはずのその事実が思いの外重くのしかかってきて私は狼狽えた。先生はここに遊びに来ている訳じゃない。あくまでもこの人は医者で私は患者。怪我が治れば用も無くなる。そんなの、最初から分かっているはずなのに。

(…淋しい、なんて)

週末が来てほしくないなんて。そんな馬鹿なことを一瞬考えてしまった。
動揺から視線が泳ぐ。その中でちらりと一瞥したロー先生の顔はやっぱりいつも通りだった。分かっている。私にとっては唯一のお医者さんでも、先生にとって私は大勢抱える患者の一人。どんなに話せるようになっても、所詮はその立ち位置。だって元々それ以上もそれ以下もないのだから。
ああでも、先生も少しくらい私と同じことを、

「…さすがにそれはないかぁ」
「……何だ」
「いいえ何でも」
「……」
「それより先生!今日のおめざめテレビなんですけど」

それこそ馬鹿なことを考えるな、って自分に言い聞かせた。
話を逸らすようにナミと星座占いの話をはじめれば、先生は昨日と同様に椅子に腰かける。ほんの短い間の付き合いなのにこんなことをしてもらっている。忙しいはずの時間を割いてもらっている。それだけで私は十分贅沢者だ。
突然始まったと思えば、突然終わりが見えてきたカウントダウン。顔を覗かせた不相応な本音には見てみないフリを決め込んで、にっこりと笑顔を貼り付けた。


*****


その後の病室の一角、私は温かい手を握り絞めながら泣きたい心地になっていた。

「タケコさん行っちゃうんですかあ〜」

同じ病室にいたタケコさんが退院してしまうらしい。病衣から私服に着替えたタケコさんのしわくちゃの手をもう一度キュッと握る。めそめそする私にタケコさんは柔らかく笑いながら「ナマエちゃんありがとう」と言った。いつも親切にしてくれた可愛いおばあちゃん。そのタケコさんがいなくなれば病室には私だけになる。一応四人部屋なのに私だけ。悠々自適に過ごせるし、退院することはいい事だと分かっている。でもそれを差し引いてもめちゃくちゃ寂しくて。せめてものと思いで見送るナースさんたちに混じって私も家族のお迎え待ちのタケコさんの傍に居座っていると、そうしないうちにお迎えがやってきた。

「ナマエちゃん」

家族の元へ向かう直前、タケコさんが私を見上げる。ほわほわと優しく微笑っていた。

「大変だと思うけど頑張ってねぇ」
「?」
「大丈夫、ナマエちゃんは素直でかわいい子だから上手くいくと私は思ってるわよ」
「…? はい…?」

一体何の話だろう。頭の上にはいくつもの疑問符が浮かんだけれど、とりあえず褒めてもらえたことにありがたく頷く。それにタケコさんは一層穏やかに微笑むとご家族さんに連れられて行ってしまった。



そしてその日の夜、一人になってしまった病室で私はベッドの端に座ってテレビを観ていた。
タケコさんがいないのは寂しい。寂しいけれど、今日この時にテレビの音を気にする必要が無いことに心の底から感謝した。なぜなら今日は、

「マリガルのMスタ出演…!」

そう、推しグループの音楽番組出演日。もちろん家の録画もばっちりだけど今回の新曲はナミがセンターのためにリアタイをしなければと思っていた。今か今かと時計とテレビを交互に見つめていれば程なくしてオープニングが始まる。瞬きも忘れてテレビにかじりつくと続々と今回の出演者が紹介とともに登場した。その中で中盤に出てきたマリガル。そしてカメラに抜かれるように映ったのは自分の最推しで。

「きゃー!ナミ!今日もかわい、」
「おい」
「うわああっ!?」

テレビいっぱいに映り込んだナミに思わずベッドから立ち上がった瞬間、勢いよく開いたカーテンと横から入って来た声にそれはもう漫画のように飛び跳ねた。だって誰もいないつもりでいたのに。不意打ちにドッドッと激しく鳴る鼓動をそのままにその方向を見遣ると、そこにはロー先生が立っていた。
途端に落ちる沈黙。立ち上がったままの私を上から下まで視線を巡らせる先生のそれはもうお馴染みといった感じの少し冷ややかなもので。

「…一人になったらお前は余計騒がしいな」
「〜ッ!いつもはこんなんじゃないですけど!?」

遅れてやってきた冷静と羞恥にどさりとベッドに座り込んだ。熱くなる顔に下唇を噛むと先生はくくっと喉を鳴らして笑う。

「おれのことは気にせず続けていいぞ」
「今CMです!ていうか笑わないでくれませんかね!?」

そもそも何の用ですか!と噛みつくように聞けば、殊更揶揄うように笑った先生は白衣のポケットから何かを取り出すと私の右手に置いた。最初こそ怪訝な視線を送っていた私だったが、右手に渡ったそれを見ると「あ」と声が出る。

「これ、」
「ばあさんからお前にって頼まれた。返すのを忘れていたからってな」

私が入院して数日経った時にタケコさんに貸していたボールペン。書類に記入しようとして困っていたタケコさんに渡したものだ。すっかり存在を忘れてた…。忙しい中わざわざ持ってきてくれたのかと受け取りながらぎこちなくお礼を言う。

「そういえば今日は白衣のままなんですね」
「宿直だからな」
「へえ」

ということは病院に寝泊まりするのか。「お医者さんは大変ですね」そう口を開こうとした時、テレビから歓声が聞こえてきて顔が勢いよくそちら側に向いた。いつの間にかCMは終わり、MCの紹介とともにテレビに映るのは推しのグループ。思わず目の前に先生がいるのも忘れてテレビをじっと見つめてしまった。

「おい」
「ハッ! す、すみません」

そう口では謝りながらもMCとトークを展開するメンバーたちについつい意識が向いてしまって。ナミは今回センターを務めるために一番目立つMCの隣にポジションを取っていた。ろ、録画はしているけど気になる…!結局またすぐに顔がテレビに向いてしまう私に先生がため息を零したのが聞こえる。するとギシ、とベッドのスプリングが軋む音がした。音がした右隣、ロー先生がベッドの淵に座る。

「せ、せんせ」
「妹が」
「え?」
「妹がこの番組を観ると朝騒いでいた」

なんでも好きなアイドルグループが出るとかで。アイドルグループというワードに思わず食いつくと聞いてもないのにマリガルでは無いと即答されてしまった。

「よくは知らねェが麦わら帽子被ってる奴…?がいるとか」
「ああ!SEA boys≠フルフィですね!」
「…多分、そんな名前だった気がする」
「あの子たちもマリガルと同じ事務所なんですよ!」

マリガルよりも少しだけ遅くデビューした彼らは所謂マリガルの弟的なグループ。ルフィはそのメンバーかつ不動のセンターだ。そうか、妹さんファンだったのか。ちょうど今マリガルの後ろのひな壇に座っていたためにタイミングよくテレビにルフィが映る。この子ですよね、と画面を指させば先生は首を縦に振った。
番組ではSEA boysも交えてのマリガルのトークが展開される中、ベッドの端で二人座ってテレビを眺める。先生は仕事は大丈夫なのだろうか。あ、もしかして。

「先生、マリガルに興味あるんですか?」
「は?」
「ライブのDVD貸しますよ?」

僅かな期待を持って聞いてみれば「いらねェ」と即答されてしまった。意外と興味ありげに観てた気がしたのに。残念だと分かりやすく肩を落とす。すると艶やかな黒髪を靡かせたマリガル一の美女がテレビ画面に映って、すぐに先生の肩を叩いた。

「ハンコック!先生、ハンコックですよ」
「うるせェ」

画面いっぱいに美しい笑顔を振りまくハンコック。だが先生の反応は至って普通…どころか微妙なもので。くそう、なかなかこっちの道に引きずりこむのは難しいな。そもそも男の人でこんなにハンコックに靡かない人初めて見たし。大体の男の人にハンコック勧めたら興味持ってくれるのに。

「先生ってどんな女の人が好みなんですか?」
「…何だ急に」
「単なる興味というか」

もし清楚系が好きならビビとかを勧めた方がいいのかな。インテリ美女ならロビン?頭の中ではマリガルの面子の顔を次々に思い浮かべる。小悪魔系ならナミかな。ナミなら全力でプレゼンできるぞ。先生は思案するように少しだけ視線を斜め上に流すと口を開いた。

「バラしがいのある奴」

バラし…がいの………え、いやバラしがいってそんな、

「先生…」
「何だ」
「多分それだと人間とは付き合えないかと」

さすがの私もドン引きだという表情を隠さずにそう零してしまった。言ってることが完全にマッドサイエンティストのそれだもん。モルモットしか相手できないよそんなの。そんな私の台詞に先生は吹き出すように笑う。いや全然面白いところじゃないと思うんだけどな!

「ナマエはありそうだけどな、バラしがいが」
「は…やめてくださいよ!?嫌ですよそんなの!」

いきなり向けられた物騒な発言に顔が青ざめる。この人実際にしそうだもん…寝てる間に手術台とかに連れて行かれそうだもん。
その間にテレビではマリガルのトークが終わってメンバーがステージに移れば観客の歓声が沸く。MCが曲名を言うとイントロが流れ始めてマリガルのパフォーマンスが始まった。

「あ、始まりましたよ先生!」

興奮気味に先生の肩を叩いて、歌って踊る彼女たちが映るテレビ画面を指さした。流れるメロディを口ずさみながら時にはカメラに抜かれるナミに声をあげつつ手を振って。そうして番組に食いついていれば隣のロー先生がいやに大人しいことに気づく。チラリと一瞥すれば先生はこちらを見て笑っていた。それはまるで微笑むかのように、少しだけ楽し気に。

「…? 何で笑ってるんですか?」
「さあな」

怪訝に聞けば依然として口元に弧を描いたまま目を伏せる先生に首を傾げる。
『キミは気づいていないのね』それは曲中のサビにある一番最後の歌詞。テレビの中、そこを歌い上げたナミがパチンと愛らしくウィンクをした。


← →

×