「……ん…?」

暗闇の中に沈んでいた意識がふわりと浮上する。ぼやける視界の中では数人の姿があおりの状態で目に入った。ざわざわとした喧噪の中で、指示を出す男声は聞き覚えのあるもので。この声はついさっきも聞いた…。

「! 戻ったか」

男声の方向に無意識に視線を向けると、声と共に顔が近づいてくる。ぼやけていた焦点が徐々に合うと共に次第にクリアになる視界と思考はその人物の正体を導き始めていた。そうだ、この声と綺麗な顔は、

「ロー先生…」

目覚めた一番に先生の顔が見れるなんて贅沢だなあ。なんてぼんやりと思う。そんな私の考えが顔に出ていたのか「…こんなときまで笑うな」なんてもう何度も聞いたような呆れ声が落ちてきた。だけど言葉とは裏腹に額に触れた先生の手のひらは、優しかった。



結局のところ私が意識を失っていたのはほんの数分間らしい。一応その後CTなどの検査をしたけれど問題は無かったらしく、経過観察ということになった。
検査後に病室に戻るとロー先生からは世間の姑もびっくりなくらいにくどくどとお小言を頂いてしまい、「病人のくせに喧嘩なんて売るからだ」なんてあの時のことを言われもした。それにはつい条件反射で「どちらかというと売られた方なんですけど!」と反論してしまえば「じゃあ買うな!」と更に怒られてしまう羽目になってしまったのだけれど。そう言われると確かに返す言葉もございません。

「ふう…」

陽が落ちた窓を眺めながらリクライニングで起こしたベッドにもたれかかる。今日はなんだか疲れたな。いろんな意味で。
「絶対安静だ、いいな」と数時間前に受けたお小言の最後に圧のある声で吐き捨てたロー先生の顔を思い出すと乾いた笑いが漏れる。あんなに言わなくても別に何もしないのに…。ちなみにあの騒動を巻き起こした犯人の姿は病室から消えていて、ベッドももぬけの殻になっていた。


「ナマエ、起きてるか」

本当にあの人どっか行っちゃったのかな、と漠然と考えていれば聞こえてきた声に意識が向く。え…ロー先生?カーテンの向こうから聞こえてくるそれから予想される人物に心臓がドクリと跳ねた。だって今日はもう回診は終わってるのに。

「っ、はい」

思わず固い声音になる。返事の後、すぐに開かれたカーテンの先に立っていた人物が目に飛び込むと、私は起こしていたはずのリクライニングベッドよりも更に前のめりの体制になってしまった。だって、だってこれはしょうがないでしょう!

「ロー先生!」

そこに立っていたのは予想通りロー先生だった。だけど、いつもの白衣姿ではない。
ロー先生は、私服だった。

「はしゃぐな馬鹿。そしてうるせェ。またぶっ倒れるぞ」
「いきなり辛辣…!」

でもそんな辛辣さもどうってことないと思えるくらいに驚きが圧倒的に勝っている。先生の私服を拝める日が来るなんて…誰が予想出来ただろうか!?
先生は帽子を被っていて、「それゴマフアザラシみたいで可愛いですね」って思うままの感想を言ったらめちゃくちゃ複雑そうな顔をされた。え、せっかく褒めたのに…。可愛いじゃん。ゴマフアザラシ。

「先生なんで私服なんですか?仕事は?」
「仕事は終わった」

ロー先生は流れるような動作でベッド横に置いてあった椅子に腰かける。そうか仕事終わったのか…。ん?待てよ、仕事終わったのになんでこの人ここに来てるの。

「……」
「…何だ」

相変わらずクールな表情をした顔と目が合う。仕事終わりに先生がやって来るなんて絶対何かある。ていうか何も無しでお医者さんである先生が来る訳がないし。どうにか情報を引き出そうと訝しげに見つめてみるものの、恐ろしいほどにポーカーフェイスなそれからは何にも読み取れやしなくて。よく考えろ私……あ、まさか!

「実は頭の検査結果が良くなかったってオチですか…!?」
「は?」
「だってロー先生がわざわざ来るなんてそれくらいしか…!私もしかして…」

余命幾ばくも無い、とか?
口にすると何だか一気に現実味を帯びた気がして、一気に体温が下がる感覚がした。ロー先生はそれでも無表情で。だがしばらく思案する素振りを見せると、フッと不敵な笑みを零す。そして、

「…ナマエにしては勘がいいじゃねェか」

なんて言うから、私はもう目の前が真っ暗で。
そんな。本当に?本当に私もう生きられないの?聞きたいのにそれ以上怖くて聞けなくて。今まで適当に生きてきたけど、いざという時思い浮かぶのはもっとこうすればよかったとかそんなことばかり。
恐怖でカタカタと唇が震える。絶望の淵で先生の顔をなんとか伺うと、こんな時なのに似つかわしくない怪しい笑みを先生はまた浮かべていて。にゅっと徐に先生の手がこちらに伸びてきたと思えば。

「なんてな」

ぽん、と緊張感なく手のひらが頭の上に置かれた。数秒遅れてパチパチと目を瞬かせる。

「………はい?」
「冗談だ。結果は本当に問題ない」

冗談………え、冗談?

「は、はああああ!?」
「おい暴れると本当に倒れるぞ」
「今倒れたら間違いなく先生のせいですけど!?」

患者を脅かす医者がこの世のどこにいるんだ!あらやだびっくりここにいたわ!
この悪徳医師!悪魔!鬼畜!思いつく限りの悪口をぶつければ、ククッとロー先生は喉を鳴らす。そして肩を震わせるものだから私は羞恥やら憤りやらが混ぜこぜになった顔を赤くすることしか出来なくて。
あー笑ってる!くそ!すっごいムカつく!ムカつくのに顔がいい!かっこいい!ずるい!

「で、一体何しに来たんですか…!」

わざわざ私を揶揄うためだけに来たなら相当な悪趣味だぞこの人。綺麗にしてやられた悔しさに歯ぎしりをしながらジトリとした目線を向けると一頻り笑って満足したのか、元のポーカーフェイスに戻った先生は私に手を差し出してきた。そこにはスマホが握られている。

「…?」
「早く取れ」

今度はなんだと疑心暗鬼になるのも無理はないだろう。ロー先生の顔と手を何度か見返して、おずおずと受け取る。受け取ったスマホの画面には知らない女の子が映っていた。

「…………誰」
「…お前が見たいって昨日せがんできたんだろうが」

深いため息ともうお馴染みの呆れ声。
見たいって…昨日…せがむ……その台詞から私の頭の中で蘇るのは昨日ロー先生と去り際に交わした言葉。そして今渡されたこの女の子の写真。どんどんと問題を解くかのように方程式が成り立っていく。ってことはもしや…!

「妹さん!?」
「ああ」

先生の返答にそれはもうびっくりして、何度もスマホの画面と先生の顔を見比べた。あ、思ったより顔似てないかも?髪の色も違うし、雰囲気も結構違う。それでもめちゃくちゃ可愛いけど。ロー先生一家の遺伝子すごい。
ていうかそれよりも、

「先生覚えてくれてたんですか…!」
「お前は忘れてたみたいだな」

いやいや滅相もない!顔の前で手を振って否定の意を表したが、ジトリとした目線を向けられてぐっと喉が詰まった。あれ、さっきまで私がその目を先生にしてたはずなのに。なんか立場が逆になってる気が。
でもあれは私の我儘っていうか、ダメもとでのお願いというか。期待してなかった…って言い方は良くないかもしれないけれど。まさか本当に、見せてくれるなんて思っていなかったのだ。

「……もしかして先生、わざわざこれを見せに…?」

さすがにそれは都合の良すぎる解釈か、なんて自分で言っておいて否定したくなった。
だけど先生は押し黙る。肯定はしなかったが否定もしない。でもこんな状況で黙るってことは、そういう事だって、捉えてもおかしくない…よね?

(ま、まじか…)

今すごくキュンときた。めちゃくちゃキュンときた。

「ロー先生…これはラブコメが始まるってやつですか?」

思わず呟いた頭の悪い私の言葉に、

「…もう一回頭検査するか?」

とドン引きの表情で返されるのはこの後すぐの話。


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