「許しませんからね」

落ちてきた固い女の声。それはひどく震えていた。声だけじゃない、肩もきつく握った拳も同様に。

ドレスローザでの件を終え、ゾウへ辿り着いたローが果たした久しぶりの自身の仲間との再会。我らがキャプテンの帰還に仲間たちは皆泣いて、騒いで、口々によかったと言いながら温かく出迎えた。
ただ、一人を除いては。
ベポ、ペンギン、シャチをはじめその他のクルーと顔を合わして会話を交わす最中、ローはある異変に気づいた。彼女…名前の姿がない。名前はハートの数少ない女クルーであり、またローの恋人。その名前の姿が、見えないのだ。
最初皆がぞろぞろと駆け寄って来た時に後ろの方でその様子を眺めるように立っていたのは覚えている。後で声をかけよう、もしくは声をかけてくるだろう。そう思っていた。だが不思議なことにあれ以来一度も見ていない。
体調でも崩しているのだろうか。まさか、自分が不在の間に怪我でもしたのか。一抹の不安を抱えながら名前の居場所をペンギンに聞く。すると帽子にほとんど隠されたはずの顔が暗然と色を変えた。

「名前は元気です。ただ…」

名前の居場所を教えてもらったローは、そのままの足ですぐに名前の元へと向かう。少し歩いた先にいた、自然溢れるゾウの木々に囲まれた中でひっそりと佇む一人の女。それが探していた彼女の背中で、話しかけようと近寄った時、ローが声を発するよりも早く言われたのが冒頭の台詞だった。

「みんな優しすぎる」
「……」
「私は、とてもあんな風にできません」

顔は振り返らない。震える拳は肌が白くなるくらい力が込められていて爪が手のひらに食い込んでしまいそうだとローは思った。それをさせているのは紛れもない自分だということは勿論、分かっている。
名前は元気です。ただ…ひどく、怒っていますよ
ペンギンの台詞が頭の中をリフレインした。

「キャプテンは貴方です。一言欲しかったけど別に同盟程度なら好きにすればいい。………ですが何もかもを一人で背負うのは、違うでしょう」
「……」
「私たちは何のために、居るんです」

ぐっ、とまた拳に力が入る。ああそんなに握ったら。そう思うと見てられなくて堪らずローは名前の手を取った。無理矢理に指を差し込んで拳を解くと、手のひらには爪の痕が若干あるものの血は滲んでいなかった。それに安心して小さく息を吐く。
方や振り返った名前はローの姿を…ぐるぐるに巻かれた腕の包帯を見て傷ついた顔をした。実際に傷を負っているのはローの方なのに、それよりもずっとずっと苦しそうに。

「そんな、怪我して…っ、自分勝手にも程がある、ふざけないでください…!」

持ち上げられた瞼から鋭い視線が飛んでくる。たくさんの感情を無理矢理押し込めて、今にも脆く崩れてしまいそうな瞳をしていた。
確かにペンギンの言った通りだ。今までそれなりの期間をかけてクルーとして、そして恋人として。関係を築いてきた中でここまで憤りを顕にしているのを初めてみたと思うくらいには、名前は怒っている。
元々これまでもローはふらりと姿を消すことがたまにあったし、自身の興味を引く本や医学書を手に入れれば食わず寝ずの夜通しで読書に耽ることもあった。その度にローの身を案じ、眉を顰めて小言を漏らす彼女を幾度と見てきたがそんなものの比ではないのは誰が見ても明らかで。


「宥めたりとか、してませんからね」

教えてもらった名前の居場所へ向かおうとした直前、ペンギンが言っていたことを思い出す。

「おれたちも恨み言の一つや二つ言いたいと思いはしましたよ。でもきっとキャプテンの姿を見てしまえばおれたちは許してしまうでしょうから。そこは全て、名前に任せました」
「…、」
「名前をあんなに怒らせるのも、それを落ち着かせるのもあなたにしかできません」

せいぜいフラれないようご機嫌取りに勤しんでくださいね。その台詞とヘラリと笑ってみせた最古参の一人である仲間を見て、ローはようやっと全てを理解した。
自分を慕ってきてくれた彼らもさすがに今回ばかりは簡単に許してくれる訳ではない。これはある種の意趣返しだ。
おれたちは名前の味方だ∞自分の女を悲しませたケジメくらいは自分でつけろ
そう、ペンギンの顔には書いてあったのだから。


「悪かった」

手を引いて、華奢な身体を抱き締める。自分よりもずっと小さく頼りない身体の内側にあまりにも酷で重たい感情を抱かせ続けてしまった。その責任は他ならない自分が取らないといけない。

「謝ったって…許さない…ッ」

絞り出すような声は相変わらず刺々しく、それから潤んでいた。ローは擦り寄るように名前の首元へ唇を寄せる。だが彼女の両手は自身の身体の横にぶら下がったまま。ローの背中に回ってくるどころかピクリとさえ動かなかった。それに心の臓が凍える感覚がする。
勿論今の自分に傷つく権利なんて到底…無いのだけれど。

「…本当に、悪かった」

許さないと言われた。でも自分に残された台詞はこれしか無いのだ。
せいぜいフラれないように、と事前に言われるということは…そういうことなんだろう。その可能性も無きにしも非ずということだ。そこまでのことをしてしまったという自覚はある。
馬鹿な男だと、人でなしだと罵ってくれて構わない。殴られたっていい。でもどうかこの細い身体を抱き締める権利を、背中に手を回してもらえる権利を、愛し合える権利を取り上げないで欲しい。その一心でローは名前を抱き締め続けた。

「──背負っているものは、」

幾分か沈黙を貫いた後、名前の気配が揺らぐ。微かに聞こえるのは細い声。ローは耳をそば立てて、一語一句聴き逃さないよう息を潜めた。

「背負ってるものは降ろせましたか」

それはきっとローがこうまでしてドフラミンゴを討った理由。
その理由には、名前も含めたクルー全員直接的な関わりが一切ない。だからこそローは単独行動を起こした。名前もそれを理解している。大切な仲間を巻き込みたくないというローの優しさが故の行動だったことも全て。でも、それでも。仲間だというなら、刃となり盾となることを許して欲しかった。共に戦うことを認めて欲しかった。
名前の台詞にローは深く思案して、ぐっと彼女の肩を抱く手に力を込めた。

「…ああ」
「少しは、軽くなりましたか」
「ああ」
「……そう」

なら、よかった。
そう言ってゆっくり、ゆっくり背中に手が回る。小さくて、とても温かい手。それがローのシャツを握り締めながら僅かな力で縋り付いてくれば途端に心が溶かされる思いがして、ローは応えるように名前を抱きすくめる腕の力を強くした。じわりとシャツの肩口が濡れる感覚と、小さな嗚咽が耳を掠める。

「もう…こんな思い、二度とごめんよ」
「あァ、分かった」
「次っ…こんなことしたら海楼石の檻にぶち込んでやるんだからね」
「そりゃ…怖ェな」

あまりにも物騒な物言いに堪らず苦笑い混じりに言えば「嫌ならしなければいいでしょ」と至極真っ当な意見が即座に返ってくるものだからまた苦笑いを浮かべるしかない。
名前の敬語は取れていて、彼女が一端のクルー≠ゥら唯一無二のローの恋人≠ヨと姿を変える。そのことが嬉しくてローはもう一度首筋へと甘えるように唇を寄せた。
許された…訳ではないかもしれないけれど。でもペンギンに言われたご機嫌取りというやつにはとりあえず成功したようだ。それでもまだ一応彼女の好きなスイーツや欲しいと言っていた物を手に入れる算段をつけておこうとあれこれ考えを巡らせる。でも、そうだな。しばらくは一緒に寄り添って過ごすのもいいかもしれない。しっかり者で、他のクルーがいる前ではただの部下としての態度しか示さない名前は案外甘えたな面があるから。そこも可愛いとローは思っているのだが。

「ロー、」

どう甘やかしてやろうかと考えに耽っていれば、腕の中で大人しくしていた名前が身じろぐ。それに気づいてローが少しだけ腕の力を緩めると、顔をあげた彼女と目があった。

「…おかえりなさい」

赤く染めた目を細めながら柔く微笑まれると咄嗟に息を飲んだ。さっきまでの尖った雰囲気が嘘のように微笑ってみせる名前の表情は、どんな陽の光よりも優しく、またどんな宝石よりも綺麗で。
ああ、どこまでもこいつには敵わない。そうローは胸の内で呟いた。
ドフラミンゴを討つと行動を起こした時、仲間と別行動を取った時、全ての覚悟をした。もう二度と戻ることが叶わなくとも、それでいいと腹を決めた。そのためだけに自分は生きてきたから。

(───だが、)

己の心臓は胸の中心で脈を打ち、両足で地を踏んで立っている。生きているのだ。生きて、紛れもないこの手で愛おしいと思える存在を抱きしめることができている。自分の無事を祈り、帰還を喜んで迎えてくれる人がいる。
幸せなことだと、心の底からそう思った。

「名前」

濡れた彼女の頬を指で拭ってやる。そうしてゆっくり唇に口づけをひとつ落として額同士をこつん、と合わせた。至近距離に映る目が丸くなってほんのり赤く染まる頬がいじらしい。胸に込み上げてくる温かくて優しい気持ちに逆らうことなくローもまた、柔く美しい顔で微笑った。

「ただいま」

この台詞を口にできる幸せを噛みしめながら。



title : エナメル



← →

×