好き≠ニいう言葉はとても便利で、同時にとても不便なものであると私は思う。
何故かというと好きにはたくさんの意味があって、家族、友人…人だけに限らずこの世に存在するありとあらゆる物や目に見えない思想までも、その心が好ましいと思えばそれらは全て好き≠ニいう言葉に集約されるから。
それなのに一つだけ好き≠フ中でも分類されるものがある。
他の言語で言えばlikeとloveだと言えば分かりやすいだろうか。何に対してでもその心が好ましいと思えば称される好き≠ェlikeならば、この世にたったひとつの特別な好き=cそれがloveだろう。

「好きだよ」

私はいつもそう告げる。たったひとつのそれを、たった一人のために。

「おう!おれも好きだぞ!」

そしていつもこう返ってくる。一見それは、想いが通じあってるのかと錯覚を起こしてしまいそうだけど、決してそんなことはなくて。だから本当に、この言葉は不便である。
快活に笑う彼にはたくさんの好きがあった。仲間、行く先々で出会う人々、動物や食べ物…きっと常人よりも遥かに多く好きという気持ちを抱え溢れているだろう。
でもその代わりにこの男には──ルフィには、そのたったひとつの特別な好き≠ェ存在しない。


*****


「私って、ここにいていいのかな」

それはなんとなく、零した一言だった。
この一味に入って温かい仲間に恵まれて、すごく楽しいし幸せで、みんな大好き。みんなもきっと私のことを好きでいてくれているし、今まで不満なんて何一つなかった。

ルフィに対する、この気持ちに気づくまでは。

「好き」と言えば「おれも好き」と返ってくる。その言葉通り、ルフィも私のことを好きでいてくれているけど、当たり前ながら私が求めているのとは違っていた。
そのやり取りはもう幾度となく繰り返していて、そして繰り返す度にちょっとずつちょっとずつ雪が降り積るように、薄暗い何かが私の中に募っていった。名前をつけるならそれはきっと、罪悪感、だろうか。
私だけ、違う。私のこの好き≠セけがみんなと違う。他の気持ちとは決定的に異なった下心と劣情が入り混じる決して綺麗なだけじゃないこの想い。それを抱える自分がすごく卑しい存在に思えて、少しずつ、だが確実に私の首を絞めにきていた。

だからなんとなく……いや、なんとなくじゃなかったかもしれない。でも気づけば零していたのだ。
こんな私がここにいていいのかな、って。

「…おれの仲間にいらねェ奴なんていねェ!」

その一言はどうやらルフィの忌諱に触れたようだった。しばらくぽかんと呆けた顔を見せた後に語気を強めて吐き捨てた彼は、それは珍しく眉根を寄せて不機嫌を全面に押し出した表情をしていた。思わず面食らってしまった私は何も言うことができず、そんな私を置き去りにルフィはどこかに行ってしまったのだ。


*****


「あら名前、随分と浮かない顔をしてるじゃない」

甲板から女子部屋に戻った瞬間、私の顔を見たナミの第一声がそれだった。動揺と焦りからうまく答えれないでいると、奥にいたロビンも読んでいた本を閉じてこちらに近寄る。私を挟んでベッドに三人並んで腰かけると、二人はお姉さんの顔をして「何かあったの?」と問いかけた。

「わ、わたし…」
「うん」
「…ルフィに嫌われちゃった…!」

ぼろっ、と大きな一粒の涙が零れ落ちれば後はもうだめだった。子供のようにわんわん泣き始めた私にナミとロビンは顔を見合わせて目を丸くしたのだ。
ことの経緯を嗚咽混じりになんとか話せば、「そういうことね」とナミがため息を交えて呟く。

「そりゃルフィ怒っちゃうわよ」
「…えっ」
「かわいそうだわ、ルフィが」

想像と違った二人の反応に思わず涙が引っ込んだのは無理もないだろう。いや、別に味方になってほしいとかそんなことを考えてた訳ではないけれど…。私がルフィにそういう気持ち≠抱いていることを二人は知っている。だからせめて慰めの一言くらいはあると思っていたのに…私の考えが甘すぎたのか。ある種の絶望に呆然とする私に困ったように二人は笑って、私の背中を優しくさすった。

「ルフィがなんとも思ってない人を仲間にするような奴に見える?」

緩く首を横に振る。確かにそれは思わない。
けれど、

「だって私、なにも無い…」

私はナミみたいな航海術はないしロビンみたいに賢くもない。ゾロみたいに腕っぷしも強くなければウソップみたいに器用でもないし、サンジみたいに料理だって上手くない。チョッパーみたいに医療に精通もしてないしフランキーみたいに物も造れない、ブルックみたいに楽器を演奏することだってできない。私には、みんなのような自分だけに出来ることが思いつかない。

それなのにこの心は一丁前に、そのみんなを束ねるルフィへ恋をしてしまった。

自分でも馬鹿だと思う。最初は否定した。船長としての信頼を履き違えているだけだって、何度も言い聞かせた。だけどそうすればするほど、皮肉にも自分の抱える思いの大きさに気づかされるばかりだった。
せめて私がもう少し美人だったら。だがそんな私を嘲笑うかのようにルフィの傍に現れたのは強くて美しい、かの有名な海賊女帝。到底足元にも及ぶ訳が無いだろう。比べることすらおこがましい程の存在にとても胸が苦しくなったのに、それでも諦められなくてルフィのたったひとつの特別な好き≠欲しがる自分がすごく嫌でたまらなくて。

「…自分にはなにも無いって本気で言ってる?」

静かな海のように落とされたナミの声。俯いていた顔を上げると、ルフィが怒ってしまう直前にしていたそれとそっくりな表情をしたナミの顔がそこにあった。答える代わりに唇をキュッと噛むと、深いため息を落とした後に強烈なデコピンが飛んでくる。

「痛ッッッ……!?!?」
「このバカ!アホ!ほんっとバカ!!」

あまりの痛みに悶える私に畳みかけるように吐き捨てられた言葉はナミにしては随分と稚拙な悪口だった。私は驚きと痛みとで目を白黒させるしかなく、混乱を極めた脳内はまともに思考回路を繋ぐこともできずに代わりに涙が滲んだ。

「ナミ、落ち着いて」

引っ込んでいた涙がまた一粒頬を伝った時、ふわりと頭の上に手のひらが降りる。それに優しく撫でられるとともにロビンの言い聞かせる声音が鼓膜を震わせた。

「名前はきっと自信を無くしてるのよ。ちゃんと言ってあげないと分からないわ」
「ハァー…ええ、そうみたいね。名前いい?よーーく聞くのよ」

両手を包み込まれるようにして手を握られる。とても、温かい手だった。
本当はこんなの私の口から言うことじゃないけど、という前置きをすると子供に言い聞かせるようにゆっくりとナミは話し始めた。

「名前には名前にしか出来ないことはちゃんとある。しかもそれはそれはとびっきり大切なことがね」
「……」
「ルフィはね、そりゃもう自分勝手で人の話聞かないし勝手に突っ走るしで自由そのものな人間だけど、絶対に最後には、名前のところに帰って来る。みんな、それを知ってるのよ」

私のところに…帰ってくる?
ロビンの顔を見れば、優しくにっこりと笑って頷いてくれた。

「名前がいないと、あいつはすぐ迷う。でも私たちが手網を持つのは到底無理だし。ね、ロビン」
「ええ、そうね」
「だから名前にしか出来ないの。だって、ルフィが名前にしかその居場所を許していないもの」

居場所…?ルフィが許す?
未だに私の頭上を微妙な疑問符が飛んでいたのを察知したのかナミはもう一度深いため息を吐いて、私の胸元に拳を突きつけた。

「あんたは未来の海賊王の隣陣取ってんだからもっとドーンとしてなさいってこと!」


*****


翌朝、甲板の端で海を見つめる麦わら帽子の後ろ頭を見つけた。ナミとロビンにはちゃんと謝って来なさいと釘を刺され、昨夜ナミが言った言葉の意味も謝れば自ずと分かるとも言われた。謝るだけで一体、何が分かると言うのだろう。

「…ルフィ」

緊張で喉が渇く。か細い声は彼の耳にも届いたらしく、振り向いてくれずとも少しだけ頭が動いた。

「その…昨日は、ごめん」

そよ風すらも無いほどに天候が落ち着いているこの空間はひどく静かだった。
私の情けない謝罪だけがぽつりと落とされる。沈黙が怖い。でもルフィは振り向いてはくれなかった。それだけで昨日どれだけ彼の怒りを買ってしまったのかという想像がついて、じわりと目元が滲んだ。だめだ、泣くな。私に泣く資格なんて無い。

「………もうあんな事言わねェって、約束しろ」

そしたら、許してやる。
固い声音だった。漸く振り返ったルフィの顔は初めて見たと思うくらい凪いだ水面のように静かで、そしてとても、悲しそうだった。
私は馬鹿だからそこで初めて気づく。ルフィは怒っていたんじゃない、

(悲しんで…いたんだ)

「うん…約束する…っ」

ごめん、ごめんルフィ。本当に、ごめん。潤んだ拙い言葉で何度もそう繰り返した。
自分の我儘な想いで勝手に押し潰されて、私のことを必要としてくれる人のことをこんなに悲しませて。本当に私は大馬鹿野郎だ。
ごめんとうわ言のように繰り返すうちに、俯いた視界の端でルフィが小さく笑う気配がする。そしていつの間にかキツく握りこんでいた私の手を解いて、するりと手のひらを撫でる。弾かれたように視線を上げれば、その先の彼はいつものようにあの眩しい笑顔を零していた。

「仲直りだな!」

そう言って、ぎゅうっと手を握られる。
ナミとはまた違った温かさ。そして少しごつごつして硬い、たくさんの怒り悲しみを壊して喜びや幸せを守り抜いたかっこいい手だった。

「…ルフィ、好きだよ」

自然と言葉が溢れる。それにルフィはまた一層輝かしい笑みを浮かべれば、

「おう!おれも好きだぞ!」

いつもの答えだった。でも今は不思議とそれでもよかったと思えた。
もう、欲しがるのは止めよう。今すぐには難しいかもしれないけれど、この一味としての自分の誇らしさを忘れなければきっとこの想いは美しい思い出として昇華してくれる。
目の淵に留まっていた涙が零れ落ちれば、上手く笑顔を浮かべることが出来た気がした。

だがそんな私の思いとは裏腹にルフィはひどく難しそうな顔をして口を尖らせはじめる。

「…ルフィ?」

様子のおかしいルフィに私は些か不安になった。また、何か怒らせてしまったのだろうか。

「昨日ナミとロビンに言われたんだ。名前は鈍いからそんなんじゃ気づかないぞって。おっかしーなァ、おれ最初から言ってんのに。何でだ?」

いや何でだって聞かれましても。私にはそもそも何の話をしているのかさっぱり。
疑問符が飛び交う私の目の前でルフィしばらく思案した後、何かを閃いたように「あ、行動に移せってそういうことか!」と笑う。

そして握られたままの手を引かれたと思えばどんどんルフィの顔が近づいてきて、唇に柔らかいものが当たった。
唇に、柔らかい、もの。柔らかい…もの?

「……ッ!!?」
「お、赤くなった」

え、ちょ、ちょっと待って!?!?!?いま…今、気のせいじゃなければ、キ、……嘘でしょ!?
突如大混乱状態に陥った私にルフィは「ナミとロビンが言った通りだ」と言って、ししし、と悪戯っ子のように白い歯を見せる。その距離があまりにも近くて、私は熱中症で倒れるんじゃないかというくらいに顔が熱くなった。

「好きだぞ、名前」

瞳を細めて間近で囁くその声は普段の彼からは想像もつかない程、艶めかしい。

たったひとつの特別な好き

それはもうずっとずっと前から眼前に差し出されていたことに私が気づいたのはもう少し先の話───。



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