暗闇の中を必死に走っていく。ずっとずっと先には一筋の光が見えていて、ひたすらにそれを目指していた。身体は沸騰するように熱くて、喉は焼き切れそうなほどに痛い。どうして走っているのか、あの光の先には何があるのか、そんなことももう分からなくなっている。ただ私はあの先に向かわなければいけないという衝動だけが身体を突き動かしていた。
どのくらい走り続けたのだろう。身体が重い、もう限界だと思った時、遠くにあったはずの光が突然爆ぜてあっという間に視界を取り囲んだ。突如として現れた煌々とした眩い世界の中で目をしかめれば、その先で誰かが待っていた。
こちらを向けている広く大きな背中には十字架を模したような見慣れないマークの刺青。頭にはオレンジ色のハットようなものを被っている。その姿を認識した瞬間、とうに限界を迎えているはずの身体は弾かれるように駆け出した。視界は酷く滲む。私は泣いていた。

『ナマエ』

ゆっくりとこちらを振り返る彼が私の名を呼ぶ。顔は帽子のつばに隠れて口元しか見えない。でも確かに笑っていた。
待って!徐々に光に飲まれていく彼にそう言いたいのに、焼き切れてしまった喉は声を発してくれない。

待って、お願い、行かないで───



「っ!」

ハッと意識が覚醒する。手を伸ばした先にある景色は見慣れた自分の寝室だった。ベランダのカーテン越しから朝の光が差し込んでいる。伸ばした手をそのまま自分の顔に覆えば頬が濡れていた。
──まただ。そう心の中で呟いてため息を一つ漏らした。
ここ一週間ほど、似たような夢ばかりを見ている。いつも私は息も絶え絶えに暗闇の中を走っていて、光の中にいる彼に手が届きそうなところで目が覚める。私の名を呼ぶ彼のことは全く見覚えが無いはずなのに、己の意識下とは別に夢の中の私は確かに彼を知っているのだ。目が覚める直前にいつも呼ぼうとする彼の名前。一度として呼べたことのないその名は目が覚めた後どんなに考えても分からない。一体誰なのか。その名前さえ分かれば少しは変わるのだろうか。

「…仕事行かなきゃ」

気だるい身体を引きずってベッドから出た。
いつも通りに出勤の支度を済ませて、家を出る直前にスマホ画面の時間を確認すれば、同時に目に入るのは連絡アプリの通知。三日前の通知を指すそれはあの時の居酒屋の彼からの二度目の食事のお誘いだった。忙しさにかまけてそれには返信どころか既読すらつけていない。…いや、本当は連絡のひとつくらい返す時間は十分にある、けれど。結局今日も見て見ないふりをしてスマホをポケットの中にしまい込んだ。

彼と食事に行った日からひと月と少し。その間にまだ春の穏やかさが残っていた初夏は通り過ぎて本格的な夏が始まっていた。今でも私の脳内を占めるのは食事に行った彼ではなく、ましてや仕事のことでもなくて、エースくんのことばかりだった。あの日から一度として彼とは顔を合わせていない。
「知らねェ」そう吐き捨てるように言われた言葉が馬鹿みたいにずっと頭の中で繰り返される。あの瞬間の私は驚くほど動揺して、心臓が凍てつく感覚がしたのを忘れられない。

「大丈夫?」

嫌というほど思い出すそれと、ここ毎夜見る不思議な夢のせいで寝不足気味の頭を押さえていれば、隣のデスクに座る同期が心配そうな眼差しを向けていた。答えを保留にした私にあの日の食事に行くきっかけを作った彼女には、また彼から食事の誘いが来ていることも、その返事をしていないことも伝えていない。というより伝える気が起きなかった。

「夏バテかも」

そう一言だけ、微笑って誤魔化した。



*****



この一ヶ月で窓を見る癖がついてしまったと思う。
帰宅後にソファに身を委ねながらバラエティ番組を見ていたはずだったのに、無意識にそれを視界に入れてしまう自分に苦笑を漏らした。あの日から一度も叩かれることのなくなった窓は沈みかけた夕日が差して深いオレンジ色に染まっている。頻度があまりない時であっても一週間ほどを過ぎれば彼はこの窓を叩いていた。そしてその先でいつもの人懐っこい笑顔を浮かべていたのに。そう時は経っていないはずだが、ひどく昔のことのような気がする。まるであの時のことは短い夢で、全て気のせいだったのだろうかと思ってしまいそうなほどに。

(いや、)

むしろあの日々は夢に等しかったのだろう。
相手は若い大学生の男の子で、社会人も数年と過ぎた私とは本来ならば関わることのない人間だった。なのに偶然私がここに引っ越してきて、偶然隣のアパートに彼が住んでいて、偶然窓が彼の部屋のベランダと向かい合わせだった。そして彼が物干し竿で窓をつつくなんて行動を起こさなければ私たちはここまで関わり合うことは無かったのだ。たくさんの偶然と彼の突拍子もない行動が合わさってできた奇妙で脆い関係。その証拠に私は彼の連絡先さえ知らない。あれだけ会話をすることがあったのに、誕生日・家族・趣味・好きな食べ物や嫌いな食べ物も、彼の基本的な情報をほとんど知らないのだ。
ソファから立ち上がって窓へ向かう。手で触れると外気の熱で少しぬるい。
この窓が、私と彼を繋ぐ唯一のものだった。でもそれすら彼からの一方的なもので、私から彼にコンタクトを取る手段は何一つとして無い。本当に奇妙な関係だと嘲笑すれば、そこで私は漸く気がついた。

(そうか…私は寂しいのか)

突然始まったものなんて突然呆気なく終わってしまっても何ら不思議なことではない。私たちは家族でなければ友達ですらないのだから。そう思っているのに虚しさを隠し得ないこの気持ちを形容するならば、やはり寂しいが一番しっくりくるのだろう。

窓を開ければ生暖かい空気がなだれ込んできて思わず顔を顰める。いつの間にか日は沈んでいて辺りは暗くなっていた。自発的に窓を開くのはベランダにいた彼とばったり対面してしまった時以来だろうか。あの時エースくんは上裸だったし、私も私でひどい格好してたから本当にびっくりしたなあ、と懐かしむように微笑った。
ベランダの先、彼の部屋の明かりは灯っていて、カーテン越しで分かりにくいけれど数人の影が動いて見える。どうやら友人が遊びに来てるらしく、やはり彼は人気者のようだ。少し盗み見しているみたいで落ち着かないけれど許してほしい。
もう、この窓を開けるのは、これで最後にするから。

「…できればもう少し、君とのこと知りたかったな」

そんなことは今更だと分かりきっている。
そろそろ閉めてしまおうと窓に手をかけた時だった。

「うわ暑っ!おいエース、開けんなよ」
「悪ィ、電話かかってきたから出るわ」

前から聞こえるのは複数の男声の笑い声。ガラガラと目の前のベランダの出入口が開く。そこから一言二言言葉を交わして出てくるのは紛れもない、

「エー、スくん」

後ろ手に窓を閉めた後、伏せていた目がこちらを捉える瞬間がスローモーションのように感じた。私は一体どういう顔をしていたんだろう。きっと目の前の彼と同じ、息が詰まったような顔をしていたのだろうか。

「…あ、ご、ごめん」

無言の間を数拍置いて、我に返った瞬間窓を閉めた。彼は電話をしていた。本当にたまたま外に出たみたいだ。最後の最後にまた偶然が訪れたことに皮肉なものだと思う。深く吐いた息が微かに震えていた。

───コンコン

「…!」

もうこの窓は開けないとそこから背を向けた時、久しぶりに聞いた何かを叩くノック音。何か、というのは愚問だった。私はこの音をよく知っている。
コンコン。もう一度音がする。この窓は開けない、開ける理由がもう無い。ついさっきまでそう思っていたのに。震える手で掛けたばかりの鍵を外す。ゆっくり窓を開けばそこに彼はいた。

「ナマエちゃん」

控えめにほんの少しだけ、彼は微笑っていた。

「電話…してたんじゃないの」
「うん、でもいい」
「友達が遊びに来てるんでしょう」
「うん、それも別にいいんだ」

予想に反してエースくんの声音は優しいものだった。無言になる私たちの間をぬるい風が通り過ぎていく。何を話せばいいのだろう。迷う私はそこでまた気づく。共通点の無い私たちがこれまで他愛もなく話せていたのは、いつも彼が話題を振っていてくれたことに。

「…ナマエちゃん」

長い沈黙を破ったのもやはり彼だった。

「あれ、彼氏?」
「え?」
「店で一緒にいた奴」
「ち、がうけど」
「じゃあ好きな人?」
「へっ、違うよ!そういうのじゃなくて…あの人はただの会社の知り合いで」

なんでこんなに私焦っているんだろう。付き合いで行くことになっただけ、としどろもどろになりながら言えば、ぱちくりと彼は瞬きを繰り返す。

「彼氏は?」
「いないよそんなの…」
「…そっか……そうなのか」

噛み締めるようにそう言った後、軽いため息と共にエースくんはベランダの柵にもたれかかった。

「おれてっきりそうなのかと思って…あークソ、まじダッセェ」
「え、なに、どうしたの?」
「いや…こっちの話」

乱雑に頭をかき乱す彼に疑問符を浮かべる。なんかよく分からないけれど、納得はいったみたいだ。しばらく大人しくなったと思えば、俯いていた頭が急にガバリと起き上がった。思わずビクリと肩が跳ねる。

「おれ、ナマエちゃんのこともっと知りてェ」

エースくんは真っ直ぐとこちらを見据えてそう言った。今度はこちらがパチパチと瞬きを繰り返す番となる。純粋に驚いた。だって私とほぼ同じことを言っている。少し前に、決して彼が知る由もないあの独り言と。
驚きから無言を貫く私に居心地が悪くなったのか、それじゃあ、と彼が背を向けた。部屋に戻ろうとする背中を眺める光景が何故かあの夢と重なる。

(待って、)

咄嗟にそう思った。
体内で大きく響く鼓動が言い様のない不安を私に植え付けてくる。でもそこではたと気がついた。この喉は焼き切れていない。現実の私はちゃんと伝えたいことを伝えられるし、記憶だって無くなったりしない。

「っ、エースくん!」

大きく息を吸ってその名を呼ぶ。
この関係はたくさんの偶然と、彼の突拍子もない行動で成り立った。まだ続いてくれるなら、それなら今度は私が。
振り返る驚いた顔の彼に、私は笑ってこう言うのだ。


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