エースがインペルダウンに収容された

その一報が船内を駆け巡った時の事は現在(いま)でもよく覚えている。

「エース…!エースが海軍に、ッ!」
「ナマエ落ち着け!」
「ちゃんと息しろよい!」
「私の、私のせいだ、私があの時、ちゃんと止めなかったから!」

マルコ隊長をはじめ他の隊長、クルーたちが囲う中央で膝をついて泣き叫ぶ一人の女。ナースたちがその震える身体を抱き寄せて自分たちも泣きそうになりながら必死に宥める様子が余計に痛々しくて見てられない程だった。

「デュースくんたちにも言われたのに、頼まれたのに…っ」
「それは違う!おれもナマエも分かってただろ!あんなことしてもあいつは止まらねェって、分かっててやったんじゃねェか…!」


白ひげ海賊団最大のタブー・仲間殺しを犯したティーチを追うとエースが激高したあの日、周りの人間がいくら止めてもエースは聞く耳を持たなかった。おれをはじめとする元スペード海賊団の面子ももちろん説得を試みたが、掟を定めたオヤジ本人が止めても聞かなかったんだ、当然効果はなく、何とか思い直してはくれないかと考えあぐねた結果ひとつの僅かな可能性に賭けた。それがナマエだ。
ナマエは良くも悪くも非常に聞き分けのいい女だと思う。真面目なんだ。白ひげ海賊団は船長であるオヤジの意向で女は戦闘員として誰一人乗せていない。そしてその立場の違いははっきりと区別されていた。ナマエはそんな自分の立ち位置を弁えており、決してその垣根を越えてこようとしなかった。

「本当は、無茶なんてしてほしくないと思ってる」

いつか偶然医療室で二人きりになった時、誰にも言わないでほしいと前置きをされた上でひっそりと彼女がそう呟いたのを覚えている。
海賊は皆、揺るがない志を持って生きている。それが輝かしい名誉なのか限りない富なのか、求めるものは人それぞれ違えど果てしない夢を追いかけて、生きているのだ。中には救いようのねェクソ野郎もいるだろうが少なくともおれたちは白ひげの気高い志に賛同し、恩を感じ、オヤジと慕って集った。おれたちは同志であり仲間であり家族。オヤジの思いはみんなの思い、ここで築き上げた繋がりは何物にも代えがたい誇り。だからそれを守るためなら、いくらだって命を懸けられる。心のど真ん中に抱えたモンを捨てて逃げるのは死んだも同然だと思っているから。
きっと傍から見ればなんとも不器用で馬鹿な生き方なんだろう。だがナマエはおれたちの生き方を尊重して深く理解してくれていた。戦闘が始まれば無茶をしてほしくないと本音を零したその口で行ってこいと、思う存分に暴れてこいと言っていつだって笑顔で背中を押すのだ。強く、聡い女だと思う。そんな彼女をモビーにいる人間はみんな大切にしていたし、そして誰よりもエースの心を動かした。だからこそ、ナマエが動けば少なからずエースに響くものがあると思ったのだ。

深夜、元スペードの面子を連れてナマエへエースを止めて欲しいと頭を下げに行った時は最初こそひどく戸惑った様子だった。当たり前だ、たとえ彼女だとしても女であり戦闘員でもないナースが掟破りの裏切り者を追いかけようとする隊長を止めるだなんて、通常許されない。エースに邪険に扱われても嫌悪感を抱かれてもおかしくない。おれたちはナマエにとって不利益しかないことを頼んでいる。

「すまねェ、ナマエ…ッ、もうお前しかいねェんだ」

止められるなんて思っていない。それでも、万が一にでも。散々海賊の世界で彼女を蚊帳の外にしておきながらいざという時になりこうして彼女を頼ってしまうだなんて本当に心底情けない。

「…ううん、いいの。私も止めたいと思っていたから。可能性は、低いだろうけど」

それでもナマエはおれたちを責めることはなく、頑張ってみるね、と言いながらエースがいる甲板に向かってくれた。
しかし夜が明けた朝方の甲板には結局エースの姿は無く、手すりに縋り付くようにしゃがみ込む目を赤くしたナマエだけが残っていたのだ。


「私があそこで止めるべきだったの、もっとしっかり、止めてたら…!」
「ナマエ…ッ」

ごめんなさいと繰り返し呟いて両手で涙に濡れた顔を覆う。木製の床には滴り落ちた涙が大きなシミを作っていた。
深く深く項垂れて細い肩を震わせる、こんな脆くて今にも壊れてしまいそうなナマエの姿は、見たことがない。白ひげ海賊団ほど強大な海賊ともなれば機会は少なかっただろうが、それでも海賊と共に行動する以上血と埃の臭いに満ちた凄惨な現場に遭遇する事だってあった。血で血を洗うような激しい戦いの後、生死を彷徨う多くの仲間たちを目の当たりにしても、他のナースたちが堪らず目を覆ってしまうような場面に直撃しても、ナマエは医療に携わる自分たちがここで打ちのめされている場合ではないと周りのナースたちを叱咤して歯を食いしばって懸命に治療にあたっていた。その気丈な彼女が。

心臓が痛い。息が、苦しい。目の前に広がる現実に自然と呼吸が浅くなる。
おれのあの行動が、とてつもなく大きな十字架を彼女に背負わせる羽目になったのだと、痛いくらいに思い知らされた瞬間だった。


*****


あの時と、頂上戦争の夢は未だに結構な頻度で見る。その度に言い様のない不安に駆られては、元気に生きている今の≠いつの姿を見て安心するっていうのがおれの日々の繰り返し。


「そういえば、彼女ができたんだって?」

カラン、とグラスに入った氷が音を立てる。いきつけのダイニングバーのカウンターで机に肘を付きながらデュースが隣にある顔を覗き込めば、絶妙に何とも言えない複雑な表情を浮かべるそれと目が合った。

「…誰に聞いた、それ」
「アイツだよ。ほら、お前と同じバイトの」

エースと同じ居酒屋に勤め、またデュースと大学の同じ学部・ゼミにいる一人の同級生の男の名前を出せば「ああ」と心当たりがあるような声が返ってきた。

「なんだエース、お前一丁前に彼女なんかつくったのか」

カウンターから揶揄するように話に入ってきたのは、この店の店主。おしゃべり好きな彼は口こそ楽しそうに動かすが、その下で手は忙しく器用にくるくると薄いグラスを回しながらクロスでピカピカに磨き上げる。ここの料理や酒は提供も早くそしてクオリティも天下一品だ。先刻、作ってもらった絶品のつまみを口にしながらデュースはリーゼントが特徴的なこの店の店主―――サッチに向かって笑いかけた。

「しかも年上らしいですよ」
「はァ!?テメッ、生意気だな!」
「おいデュース!お前アイツからどこまで聞いたんだよ!」

寝耳に水だと言わんばかりのエースの反応にくくっと喉を鳴らす。

「お前がキレたってところまでだよ」

デュースは残り少なくなった酒を一気に煽ると眉を下げて笑いながら視線をエースに向けた。
事はほんの数日前、その同級生の男と大学で顔を合わせた際に相手がデュースに泣きついてきたのだ。曰く、独り身の男勢で一緒に飲む約束をしていたはずのクリスマスに急にエースがバイトの休みを入れるものだから問い詰めたら彼女ができており、しかもその彼女とやらは最近会社の忘年会で店に来ていた客の一人でえらくエースが親しげに話していた女性だったらしい。

「スーツを着たどう見ても自分たちより年上のお姉さんだったから貢いでもらってんのか、って冗談言ったらガチギレされたって凹んでたぞ」

まあお前が悪いとは返しておいたけど、と続ければエースは押し黙る。大きなため息を吐いてガシガシと後頭部をかいた。

「言っていい冗談と悪い冗談があるだろ。こっちが付き合うまでどんだけ必死だったかも知らねェでそんな胸クソ悪ィこと言われたら誰だってキレる」
「…どうした、随分と惚れ込んでるじゃねェか。その彼女さんに」

デュースの新しいドリンクを作るサッチが片眉を上げて面白そうに笑う。そんなに可愛いのか?なんて茶化した台詞を吐けばこちらの思惑とは反対に至極静かな表情のままのエースはふと視線を落とした。

「あァ、かわいいよ。誰にも取られたくねェって思うくらい」

カラン、と再びグラスに氷が滑る音が空間に響く。想像をゆうに飛び越えた返答にデュースとサッチは思わず無言で顔を見合わせた。こりゃァ驚いた。そう二人の心の声が重なる。酔ってるのか?なんて一瞬考えたが、まだ店に来てさほど経っていないしエースもデュースも一杯しか飲んでいない。酒に強いエースは毎度しこたま飲むのだ。だからいくらなんでも一杯目で酔うなんてことは考えられない。

「……ンだよ、なんか文句あんのか」
「いやァ……ああほらデュース、新しいドリンクできたぞ。悪ィがちと手が滑っちまった。アルコールがキツかったら作り直すから言ってくれ」
「いや、ちょうど今キツい酒が飲みたかったところなんで助かります」

ドギマギしながら受け取った酒を流し込めば言われた通りの高いアルコール度数のせいかカッと喉が焼けるような感覚がする。その刺激が今のデュースにはなんだかありがたくてちびちびそれを口に含んだ。
今世じゃ高校からの付き合いだが、デュースが知る限りでもそれなりにエースは彼女をつくっていた。根明でいつでも輪の中心にいて人を引き寄せる魅力があるのは今も変わっておらず、加えて見目もガタイもいい。端的に言えばエースは非常によくモテた。付き合いたいと手を挙げる女は尽きなかったのでいつもその中から顔が可愛くて乳がデカい子を適当に見繕っている感じだったと思う。まあいつも長続きはしてなかったけれど。だがそういうところは案外ドライなエースは別れても特に悲しむわけでも落ち込むわけでもなく至ってフラットで、最近彼女を理由に付き合いを断ることが無くなったことに気づいたデュースと「お前彼女は?」「え、とっくの前に別れたけど」みたいな会話をすることも度々あった。思えば告白するのも別れを切り出すのもいつだって女の方からだった気がする。そのエースが必死だったと頭をかき、しかも誰にも取られたくないとまで言い切るなんて。どこか憂うような表情で心の奥の奥を吐露するような声音で。

「サッチ、おれももう一杯くれ」
「へいへい」

空いたグラスを受け取ったサッチが手際よく新しいドリンクを用意する。手のひら大の氷の塊をアイスピックで砕くサッチを眺めている最中にテーブルの上のエースのスマホ画面が光った。おそらく連絡アプリの通知なのだろう、徐にスマホを手に取ったエースは画面をしばらく眺めて―――

「───」

フッと息をこぼすだけの、言外に愛おしいと伝えるような穏やかで優しい笑顔だった。先程の会話の後じゃそれが誰からの連絡なのかは一目瞭然で、一部始終を見た二人が堪らず再びこっそり顔を見合わせたのは無理もない。

(お前、今の…)

エースのあの表情には実は見覚えがある。この場にいる人物全員が海の上で暮らしてた頃の話だ。

あの頃のエースもそれなりに女遊びを嗜んでいたと思う。海賊は一般的に金と酒と女に目がない生き物なので陸に上がれば酒を浴びるほど飲んで女を買い、湯水の如く金を使う奴はごまんといた。女遊びは海賊の甲斐性≠ネんて訳のわからないことをドヤ顔でほざく輩もいたりしてデュースは白い目で話を聞いていたものだ。スペードに所属していた奴らは幸いにも性的なことにはライトな人間ばかりで、エースもどちらかというと色気より食い気という感じだった。とはいえ、ハタチ前後の血気盛んな若造が海の上での閉鎖的な生活を続けていれば当然溜まるものはある。なので決して派手に遊び散らかすわけではないものの、適度にエースも女を買っては夜を過ごす日もあった。
それにエースの見目と身体つきは女受けがいい。通常ならばコンプレックスになり得る雀班の頬も整った顔にはチャーミングに映ったし、惜しげもなく晒される鍛え上げられた肉体は同性でも羨望の眼差しが向けられる。加えて大海賊時代の荒波の中でも頭角を表す実力の高さ。その首に億の懸賞金がかけられる頃にはエースが夜の街に出歩けば一度は抱かれてみたいと言わんばかりに目の色を変えた女が群がるように寄ってくるのでその現金さを目の当たりにして「女って怖ェな」とデュースは人並みの感想を抱いた。エースは気が乗ればその女の中から適当に顔が可愛くて乳のデカい子を選んで引き連れていたので、そう考えると今も昔も行動原理はあまり変わっていないのかもしれない。

そんな感じで年相応の男らしく、海賊らしく遊んでいたエースなのだが、白ひげに正式入団してからのある日、突然それを辞めた。酒を飲みまくってぐでんぐでんになりながら仲間と夜の街を闊歩することはあっても群がる女に一切目を向けなくなったのだ。なんとなーくは想像がついたもののマルコに聞いてみれば、ナマエが海賊は女にだらしないから恋愛対象外≠ニいう話をつい最近していたからきっとそれだと言う。もちろん付き合う前…どころか脈アリですらない時だ。なんとも健気だとデュースは大いに笑い転げた。その後、あの二人には一波乱も二波乱もあって大変面白かったのだが…まあここでは割愛しておこう。

兎にも角にもナマエだ。そう、エースがあんな表情を見せる時はいつだってナマエが絡んでいた時。過ぎる影に思わず胸がざわついた。
そこそこ前世で縁があった人物とは出会ってきたものの未だに彼女には会っていない。一体どこにいるのか、そもそもこの世に存在しているのか。もし、この世に生きてくれているのならば、

(元気に、暮らしているだろうか)

最後の方はずっと泣かせてばかりだったなと思う。笑って過した日々もあるはずなのに、必ず思い出すのは泣き崩れた姿だ。
デュースの中にはずっと傷が残っている。いつまで経っても消えないじくじくと膿んだ傷が。あの日から、デュースも自分で大きな十字架を背負ってしまっていることにきっと誰も、本人さえ気づけていない。

「そうか…彼女、か…」

サッチがしっとりとした声音で呟く。実はサッチにも昔の記憶があるのをデュースは知っている。自分が世を去った後の顛末は他の記憶を持つ人物たちから聞いたと言っていた。その顔は笑みを浮かべているのにどこか懐かしそうで仄かに物悲しい。おそらくデュースと同じ人物を彼もまた思い浮かべているのだろうと思った。サッチや他の隊長など昔から白ひげに所属してた人たちは彼女のことを自分たちの娘のように特に大事に扱っていたから。

「じゃあ計画してたパーティーは一層派手にしねェとだな!エース誕生日&恋愛成就おめでとう!なんつって!」
「なんだそれ!つーかまだその話してたのかよ!おれは普通に飲めたらいいつったろ」
「つれないこと言うなよ〜マルコたちも来てくれるんだ、大人に甘えてありがたく祝われとけ」
「大人っつーかオッサンだろ」
「うっせ、クソガキ」

ははは、と隣で起こる笑い声を聞き流しながらデュースは濃いアルコールの入ったグラスに視線を落とす。無色透明なそれの中に入る氷の塊をじっと眺めてはひっそりと息を吐いた。
果たして彼女以外にエースからあんな表情を引き出せる相手がいるのか?確かに今の彼には前世の記憶が無いけれど。

(ああ、やっぱり)

この男の隣にいる(ひと)は彼女であってほしい。己の胸中に巣食う言いようのない違和感をかき消すように、再びデュースは濃い酒を勢いよく流し込んだ。



―――そうなんじゃないかって少しは思っていた。いや、そうであって欲しいと切に願っていたんだ。

「おーい、デュース!」

エースが自分の名前を呼ぶ。その隣でこちらを見る女性。ああ…絶対にそうだ、間違いない。
ナマエだ。ナマエが、いる。呼ばれる名前にゆっくりと足を進めた先、そこに立っている幾分か低い位置にある顔を見下ろした。スーツを着る彼女は単純な年齢の差かデュースが記憶している姿より少し大人びているように見える。それにほんの少し痩せただろうか。ああそれでも、全然、変わっていない。エースのことをずっと側で支えていたあの頃のナマエと全然変わらない。

「……エース、もしかして」
「ああ、前話したろ」

堪らず溢れ落ちそうな言葉はたくさんあった。だがこちらを見ておずおずと会釈をしたり戸惑いを隠せていないナマエの様子に彼女もまた記憶が無いのだとすぐに感づいたデュースは必死に口を噤んだ。
それからは昂る感情を抑えるのに必死だった気がする。とりあえずどうかエースのことを今後も頼むとお願いしてそそくさとその場を後にしてしまった。一言くらいエースをからかってやろうかと思ったのに二人が一緒にいるところを見るだけで涙腺が刺激されるものだからそれさえ叶わずに。

ナマエの姿を認めた瞬間、パチ、とピースが噛み合って胸につっかえていた妙な違和感が驚くくらいに消えた。そうだよな、エース。お前があんな表情を浮かべる相手なんて、やっぱり彼女しかいないんだ。たとえ果てしない時を超えても世界が変わっても全ての記憶が消えていても。だっておれたちは知っている。憶えている。ナマエに出会って惹かれて変わっていくお前の姿をずっと、見てきたことを。
エースたちと別れてゆっくりと一人で歩いていた足が止まる。押さえた口から出る息は震え、視界は滲んでしょうがなかった。

「……ッよかった…!」

よかった。本当に、よかった。
なあエース、ナマエ。みんな、願ってたんだぞ。お前たち二人は一緒に幸せになるべきだって。そう言ったら二人ともきっと訳がわからないという顔をするんだろうけどな。


*****


全く人遣いの荒い。大学からの帰り、スマホ画面を眺めながらデュースは苦笑を浮かべた。表示されているのはサッチとのトーク画面。その一番下には「ナマエをどうにかして店に連れてこい」といった趣旨の文章がたくさんの!マークとともに居座っていた。

あれから年を越して、みんなの都合が合った時にサッチの店でエースの誕生日パーティーを開いた。マルコやイゾウなど白ひげ海賊団の隊長を務めていた面々がエースを祝うために参加したのだが、終盤いつも以上に飲まされた主役がソファ席で眠りこけている間、こっそりデュースがエースの年上彼女が実はナマエであることを皆に知らせた。
その時の反応といったらそれはもう当然、阿鼻叫喚の嵐で。どういうことだと皆が胸ぐらを掴んでブンブン揺さぶってくるものだからそれまで結構飲んでいたのも相まって酔いが急速に回ったデュースは吐くし散々だったのだ。今でもしばらく酒はいいと思っている。

「連れて来いつったってどーすんだよ…」

ナマエには記憶が無いというのに。記憶があったのならならひっそりと連れ出すのもこと容易かっただろうがそれが無いとなると難易度は究極に跳ね上がる。当然あの時一度きりしか会っていないデュースが連絡先なんて知る由もない。

(…でもまあ)

このまま、思い出さなくていいと思うけど。
エースが海軍に捕まってからのナマエはこちらが息が詰まりそうなくらい悲壮に満ちて、いつも自分を責めていた。泣いて、ばかりだった。それと違って今のナマエはきっと幸せだ。記憶の無いはずの二人が一緒にいる。とてつもない奇跡が起こった。今更、わざわざあれだけの辛い過去を思い出す必要なんてない。覚えているのはおれたちだけでいい。
膝をついて泣き叫ぶナマエの夢は未だに見る。決して忘れてくれるなと、現在の二人の姿に安心を得たその程度でお前の行いが贖われると思うなと。

(いつからだろう)

夢を見る度に、まるであの頃の彼女から責められているようだと思い始めたのは。

しばらく画面とにらめっこしながら考えを巡らせてさてどうしたものかと頭をかく。しかし大した妙案も思い浮かばず覗き込んでいたスマホ画面からふいに視線を上げたその瞬間、思わず息を止めた。
遠く向こう正面からこちらに向かって歩いてくる一人の女性。先日と同じくスーツを身に纏う彼女もまたスマホに画面に目を落としていた。少しずつ縮まる距離、激しくなる鼓動、視線が逸らせず無意識にデュースが足を止めた時、彼女が顔を上げた。バチリと音を立ててぶつかった視線、長いまつ毛に縁取られた瞳が大きく見開かれるその様がひどくスローモーションに映った。

「…ッデュースくん!」

途端に彼女が駆けてくる。己の名を呼びながら。
───果たしてこれはたった一度軽く顔を合わせただけの彼氏の友達≠ノ会った時の反応か?きっと、いや間違いなく違う。まさか、そんな、

「……ナマエ、」

震えた声で、あの頃のように呼び捨ての名を呼ぶ。彼女は瞳をゆるりと細めてゆっくり頷いた。

「…久しぶり、デュースくん」

記憶が、戻っている。そう思ったが矢先、口を突いて出るようにデュースは言葉を吐き出していた。

「ごめん………ッ!!!」

何を言うよりも先にこの台詞が飛び出たのはきっとエゴからくるものだ。

「おれが、あの時お前にエースを止めてくれなんてさえ頼まなければ…!おれのせいでお前は、ッ!」

記憶を取り戻してから一度たりとも思い返さなかったことなんてない。あの日背負った十字架は今も全く変わらず居座り続け、そして夢を見る度に重みは増した。塵が積もり重なるように罪悪感と後悔がデュースを蝕んだ。知らず知らずのうちにそこに限界はきていてナマエが記憶を取り戻したと分かった瞬間、やっと重圧から逃れられる気がした。思い出さなくてもいいと言いながら、どこかでこの張り裂けそうな叫びをぶつけさせて欲しいと願っていたんだ。だからこれはただのエゴ。なんとも傲慢で独りよがりなことか。

「…デュースくん」

胸を掻きむしるような苦しみに喘ぐ中、落ち着いた声音が耳を掠める。そしてひたすらに赦しを乞うデュースの手を優しく取った。白く細い、温かな手。ふるふると首を横に振るナマエの姿が目に入った。

「大丈夫、大丈夫だから。ずっと…悩ませてたんだね。ごめん。本当に、会えてよかった」

ありがとう。そう言って手を握りしめて嫋やかに微笑う。その昔、辛くて悲しくて苦しいことは山程あった。けれどそれらを補って余るほどの幸せな日々は確かにそこにあって。ああそうだ…ナマエはその中でこうやって笑ってた。悲痛な声と涙に埋め尽くされていた記憶が、泣き顔しか思い出せなかった記憶がやっと拓かれる。
美しい一粒の雫がナマエの頬を伝う。それを目にしたデュースもまた、同じものを流しながら強く強くその手を握り返した。


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