隣のアパートに住んでいる男の子・エースくんとひょんなことからご近所付き合い(?)が始まってしばらく経った頃。まあ初対面の時から何となくは感づいていたのだ。挨拶はしっかりしてくれるし(これは人として当たり前なのかも知れないけれど)、いつも物怖じせずにちゃんと目を見て話してくれる。
エースくんは、

「よ、ナマエちゃん」

コミュ力がはちゃめちゃに高かった。



「…今日はどうしたの?」
「いや? 特になんもねェんだけど」

窓を開けた先で手を振っていた彼はいたずらっ子のような笑顔でベランダの柵にもたれかかる。仲よくしてくれよ、と言われたあの日から夜になると時折こうやって前触れもなくエースくんは私を呼び出すようになった。もちろんあの日よろしく自分の家のベランダから物干し竿で私の部屋の窓をつついて。なぜ夜限定なのかというと白昼堂々と他人の家の窓を叩くのはさすがに不審すぎると思ったらしい(それを聞いて自覚があったのかと吹き出したら拗ねられた)。聞くところによるとエースくんは近所の大学に通うハタチの大学生で、年齢を聞いた時に思わず眩暈がしたのは記憶に新しい。ちなみに彼女もいないそうだ。意外だ。すっごく意外だ。
呼び出す頻度はまちまちで週に何回かあることがあれば、一度も無いこともある。話すことだっていつも決まっている訳じゃなくて、大体どうでもいいような雑談ばかり。エースくんの気まぐれというやつだろう。だから私も忙しければ呼ばれても出ないし、それについて何かを言われることも無かった。

「バイトは?」
「今日は休み」

それでもエースくんと話すのは退屈しないどころか結構楽しくて、出来るだけ呼ばれれば出ようと思っている自分がいる。この歳でちゃん付けで呼ばれるのはむず痒いし、最初の方こそ他人行儀な対応を取っていたけれど、余りにも根気強く話しかけてくるものだから今ではすっかり絆されてしまっていた。
数メートルの距離を隔てたそれぞれ別の建物を介する妙な会話。しばらくいつもの他愛のない会話をしている途中、ふいにスマホの着信音がそれを遮った。

「…っと電話掛かってきたごめん」
「いいよ、今日はもうやめとく?」
「いや、すぐ終わる」

そう言って電話を始めたエースくんをぼんやりと眺める。時々くしゃりと笑いながら話す様は既に何度か見かけた光景だ。詳しい交友関係は知らないけれど、エースくんはとても人気者みたいで、スマホの通知音がよく鳴っているのを聞く。確かにこれだけ顔に加えて性格まで良ければみんな放っておかないよね。
そうこうしないうちに電話は宣言通りあっという間に終わった。

「大丈夫だったの?」
「うん、明日バイト代わって欲しいって」
「あら大変」
「ナマエちゃんは?明日土曜だし出かけねェの」
「明日?あー……一応」

明日…明日。煮え切らない返答にエースくんが首を傾げるのが視界に映る。
こうなるのにはちゃんと理由というものがあり、遠い目をして思い出すのは先週の会社でのやり取りだ。



『ナマエさんさえよければでいいんですけど』

そう言って控えめに笑うのは別部署の同年代の男性社員だった。
先週、休憩室でコーヒーを入れている最中に呼ばれたと思えば想定外の食事のお誘いだったことに面食らうのは無理もない。人当たりもよくて誠実そうな雰囲気の彼は気難しいうちの部署のおばさん社員にも人気だ。赴任してそこまで時間が経ってない私とはほとんど会話したこと無いはずなのだけれど…。嬉しい気持ちよりも驚きと不思議さが圧倒的に胸中を埋め尽くしたその場では一旦答えを保留にした。のだが、どこから話を聞きつけたのか別の女同期に「チャンスを無駄にする気か」とすごい勢いで詰められてしまって、根負けした結果OKを出してしまったのだ。チャンスというのは言わずもがな恋愛の…すなわち結婚のことで。別に急いでないしいいんだけどなあなんて思うのは独身の負け惜しみというやつなのだろうか。
とりあえず翌週の土曜日ということで話が落ち着いたのだが、正直全く乗り気じゃない。だって怖いじゃん何話せばいいの。悪い人ではないと思うけど…会話が詰まった時に訪れる沈黙が怖い。

「? なんかあんの?」
「社会人にはいろいろとね…」
「ふうん」

全然分かんねェ、と言いたげな顔に思わず笑ってしまう。徐ろにエースくんはスマホの時間を確認すると「もうこんな時間か」と申し訳なさそうに頭をかいた。つられて私も時間を確認すれば、時刻は23時を過ぎようとしていた。

「悪ィ、こんな遅くまで。なんか分かんねえけどナマエちゃんって話しやすいんだよな」
「ふふ、私もエースくんと話すの楽しいから大丈夫だよ」

明日はエースくんとだったらいいのに。そんなことをぼんやりと考えてしまう。ああでも実際にエースくんと二人でご飯となると緊張しちゃうな…周りからは姉弟に見えるか。弟に美味しいもの食べさせてあげる姉みたいな。

「……」
「エースくん?」
「あ、いや…ぼーっとしてた」

彼にしては珍しいぼんやりとした声音の返答に、眠いのかな?と一人結論づけながらその日はお開きとなった。
この時彼にバイト先を詳しく聞かなかったことに後悔してしまうことも知らずに。



*****



「今日はありがとうございます」
「いえ、こちらこそ誘っていただいて…」

よくある社交辞令ような定型文の会話。とある居酒屋の中にある個室の一部屋で向かいに座った彼が緩く微笑う。
駅で待ち合わせの後、連れてこられたここは大衆向けの居酒屋で、ざわざわと活気溢れる騒がしさが私たちを取り囲んでいた。

「ここは騒がしいですけと、とても美味しいと評判なんですよ。予約もなかなか取れないくらいで」
「そうなんですか…」
「こういうところ苦手ですか?」
「いえ!むしろこっちの方が安心するというか」

高級フレンチとかだったらどうしようかと思った。とは口が裂けても言えなかった。万が一も考えてキレイめの服装で恥ずかしくないように気をつけてたけど…今となっては微妙に気合いが入っているみたいで恥ずかしい。もう少しラフな格好にしておけばよかったかも、なんて自身のブラウスを見ながら独りごちた。

「あの…今日はどうして私と?」
「ああ、怖いですよね。特に話したことも無いのに」
「そういうわけじゃないんですけど…」
「綺麗な人だな、と思って。ナマエさんうちの部署じゃ人気なんですよ」
「…はい!?え、あの、目大丈夫ですか…?」
「あははは!僕は至って正常です」

カーッと顔が熱くなるのを感じる。どうしよう褒められなさ過ぎて変な返答してしまった。可笑しそうに笑う彼に違う意味でも顔が熱くなってパタパタと手で軽く顔を煽いだ。熱い、早く冷たいビール飲みたい。平常心平常心と己に言い聞かせながら頼んだドリンクを待っていると、ガラリと個室の扉が開いた。

「お待たせしました、生ビー、!」
「…えっ」

思わず声が出てしまったことは許してほしい。扉の先には待ち望んでいたビールと、それを持ったエースくんにそっくりな男の子がいた。
…待って?そんなことある?もしかして双子とか?瞬く間に脳内で緊急会議が開催される。あ、そういえば昨日エースくん何か言ってたような。
「明日バイト代わってほしいって」記憶の中にいる彼がそう言って笑う。じゃあつまりここって、もしかしなくてもエースくんのバイト先…ってこと?

「ナマエさんの知り合い?」
「はっ、イイエ!」

──どんな確率だよ!
そう内心盛大なツッコミをした直後、振られた言葉に反射的に返せば、あ、と思った。しまった、つい勢いで否定してしまった!エースくんの方をチラ見すれば、彼は恐ろしいほどに真顔で。ま、真顔怖い!

「すみません、ついでに注文もいいですか」
「ああ、どうぞ」
「ナマエさん何か食べたいものありますか?」
「な、なんでも、お任せシマス」

オーダ中まともにエースくんの方を見れずに視線を泳がせる。手汗がすごくてずっとおしぼりを握りしめていた。別にこの人とはやましい関係じゃないし、そもそもエースくんに対して焦る必要なんてないと思いながらも、なんかこう…いたたまれない!
注文が終わってエースくんが部屋を出ていってからはもう完全に上の空だった。目の前の彼の話には適当に相槌を打ったり愛想笑いを浮かべたりするもののビールの味はしないし、料理も何食べてるか分からない。意識は遠く彼方へ飛んで行ったまま帰ってこなかった。



「…そろそろ、出ましょうか」

あれから数時間経過して頃合いの時間になった頃、腕時計を確認した彼がそう言った。

「そうですね…あの、その前にちょっとお手洗いいいですか」
「ええ、どうぞ」

引き戸を引いて個室から出る。店内を軽く見渡してみると恐らく満席なようで、本当に人気店なのだと感心した。あまり味わう余裕は無かったけれど確かに料理は美味しかったし、クオリティの割に値段も良心的だった。今度友達誘ってゆっくり来ようかな…またエースくんに会うことになりそうだけど。
さっきは思わず否定してしまったけれど、冷静に今考えてみてもエースくんのことをなんと言えばいいのか分からない。友達…ではないし、本当の本当にただの知り合い…ご近所さんというのが妥当で無難なのかな。
ううーん、なんて変な呻き声をあげながら眉間を押さえる。意外と酔いが回ったかも。というかトイレどこだろう、このお店結構広いな。
店内を半ば彷徨い歩いている状態になっていると廊下の角で誰かと鉢合わせた。反射的に顔を上げればそこには、

「エー、スくん」
「あ…」
「ちょうど良かった、お手洗い行きたいんだけど…どこかな?」
「……」
「…?」

ナマエちゃん、といつもニコニコ人当たりのいい笑顔を見せる彼はいなくて、謎の沈黙に首を傾げる。

「エース!大将がキッチンのヘルプ来いってよ!」

突然、エースくんの背後からひょこっと現れた人影に肩が跳ねた。バイト仲間であろう男の子の両手は忙しさを現すように料理が乗ったお盆とビールジョッキで埋まっている。男の子は私を見るなりバツの悪そうな表情を浮かべた。

「おっと悪い、知り合いか?」
「え、っと」
「───いや」

それは今まで聞いていたものより低く、そしてよく通る声だった。ゆっくり顔を見遣ると、彼と目が合う。それは感情の抜け落ちたような無機質なもので、初めて見る冷たい表情だった。

「知らねェ」

トイレならあっちですよ。平坦な声でそう残して彼は私の横をすり抜ける。

(…え)

なに、今の。動揺から数拍の間を置いて弾かれたように振り返っても彼はいなかった。


その日から、エースくんが私の部屋の窓を叩くことは無くなった。


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