黒に近いような暗く深い色の海。空はグラデーションのように紺色が濃淡を描き、辺りは恐ろしい程に静かだった。

「エース」

甲板の隅、偉大な誇りを刻んだその背中に声をかける。呼ばれた名前の主は気配を少し揺らすとこちらを振り向いた。その顔は今私たちが浮かんでいる海のように静かに、落ち着いている。

「…本当に、行くつもりなの?」

ざあっと私たちの間を風が抜けた。温くて湿り気のある、肌に纏わりつくような風。

───ティーチが、サッチさんを殺した。
その事実は瞬く間に駆け巡り、私たちに多大な衝撃をもたらした。
仲間殺しは御法度。それは誰しもが知る白ひげ海賊団における鉄の掟。
悲愴、動揺、戦慄、嫌悪。様々な感情が仲間内で渦巻く中、エースはティーチを追うと激高した。マルコさんや周りの船員たちが止めても、そして掟を定めた船長自らが構わないと言っても彼は決して折れなかった。恩に着るべき親の顔に泥を塗ったあの男を許さないと、自分の隊の人間が犯したことの落とし前は隊長である自身がつけると。そう言い張った。

そして…その主張通り、この夜が明けると同時にエースはティーチを追いに行く。

「エース」

一歩、また一歩とゆっくり彼の元へ歩みを進める。目前まで近づくと彼の手を取った。その手はいつも温かく、そして優しい。

「…行かないで」

声は、震えていた。口の中はカラカラに乾いていて。
女である私が、戦闘員でもない私が、この台詞を口にするということがどれだけ身の程知らずなのかは分かっていた。私だって医療班とはいえど、この船に乗る海賊の女だ。自分の立場くらいはわきまえている。
これまで勝手に暴れて無茶して傷を作ってくるエースを叱ることは何度もあったが、今回はそれとは訳が違う。隊長としての責務、海賊としての誇り、なにより大切な仲間を殺された。自分たちが慕う父親を冒涜された。それを、私は止めようとしている。「お前ごときが口を出すな」そう怒鳴られたとしても何も言えない。
とても顔は見られなかった。俯いたまま、彼の手を掴んだ自身の手を見つめる。頑張って握りしめているはずなのに、笑ってしまいそうなくらい全く手には力が入らなかった。

「……ナマエ」

重い沈黙を置いて、静かにエースが声を落とす。呼ばれた名前にゆっくりと顔を上げた。怒りか、呆れか。どんな表情をしているのかと恐る恐る見上げたエースのそれは、意外にも何も変わらず静かなままだった。
彼は瞬きを一回。吸い込まれそうな漆黒の双眸が私を凛然と射抜く。

「それ、誰に頼まれた」
「──!」

思わず息が詰まった。

「マルコ……あァ、もしかしてデュースか。元スペードの奴らだろ」
「………」

帰ったらあいつら説教だな。そう呟いて困ったように首の後ろをかいたエースはため息をつく。私は何も言葉が出てこなかった。
エースの言ったことは、当たっていた。
止められるとは思っていない。だが万が一にでも揺らいでくれたら──≠アうしてエースの元へ向かう少し前、デュースくんたちは私にそう言った。こんな役回りをさせて本当に申し訳ないと心底苦しそうな顔をして私に頭まで下げながら。
だから、エースの言ったことは少しだけ%魔スっている。

「…私だよ」
「!」
「私が、そう思ってる」

決してデュースくんたちをかばおうと思って言った台詞では無かった。だってこれは、誰でもない私自身の意思。エースを止めようと…止めたいと思ったのは紛れもなく私だから。彼らはある種のきっかけにしか過ぎなくて、もし彼らが私に頼むような真似をせずとも間違いなく私は同じことをしていただろう。

「もう一度言う。エース、行かないで」

もう声は震えなかった。心臓が緊張と不安で暴れまわっている。でもそれを悟られまいと私も強くエースを見つめ返した。馬鹿なことを言っているのは百も承知。でも、それでも、私には私の思うことがある。ここで生きる女にも譲れないことはある。私たちは聖母ではないのだから、いつまでもただ微笑んで見守るだけなんてやってやるものか。

「……参ったな」

ただひたすらに無言でお互いの目を見つめ合う。そうしてしばらく経った後、へにゃりと眉を下げて微笑んだエースがそう零した。

「ナマエ」

一方的に握っていた手を柔く包み込むように握り返される。瞼を閉じたエースは大きく深呼吸をして、そしてもう一度ゆっくり私を見据えた。困ったように微笑んでいたはずの表情は、消えていた。

「お前の頼みでもそれは聞けねェ」
「……」
「これはけじめなんだ。ティーチは親父を愚弄した。あの恩知らずの馬鹿野郎は何としてもおれが始末をつけなきゃならねェ。だから、」

その先に続く言葉を優しいエースは言わなかった。

(……口出しするな、か)

だが私にはそれで十分だった。ゆるゆると視線が落ちる。分かっている。全部最初から、分かっている。デュースくんたちが私に言ったように、私も私にエースを止められるなんて思ってやしない。それでも、と無い奇跡に縋って動いたのは私自身だ。

「そう……分かった」

そうして結局、私に言えることはそれだけで。ああ、なんて無力なことか。心底吐き気がする。
困った笑みを顔に貼り付けてエースを見上げる。下手くそで目も当てられないような顔かもしれない。それでも笑っていたかった。そんな私にエースは辛そうに眉を寄せて「悪い」と言う。自分で決めたことのくせに。
謝るなら、行かないでよ。そう言えたのならどんなによかっただろう。

「帰ってきたら二人でゆっくりうまい飯でも食いに行こうぜ。欲しいモンも買ってやるよ。前言ってたろ?なんか珍しい石使ってるネックレスだっけ?」

努めて明るい声でエースは話す。私は首を横に振った。

「いらない」
「え…?」
「いらないから、」

ちゃんと帰ってきて。
エースが目を大きく見開くのが分かった。

「無傷で帰ってこいなんて言わない。怪我なら私が治す。…だから生きて、帰ってきて」

収まったと思っていた声の震えが戻ってくる。だめだ、笑え。ここで泣いたら全部台無しだ。そう自分に何度も言い聞かせながら、しっかりと彼の目を見据えて口元に弧を描く。息を飲んだ表情をしたエースは、逡巡したように瞳を少し揺らした。

「分かった」

徐に握っていないもう片方の手が伸びてくる。そして私の頬を撫でた。まるで見えない涙を拭うかのように。ふ、と小さくエースが息を零した。

「…おれの女は、強いな」
「ふふ、惚れ直した?」
「あァ。ただでさえ惚れ込んでるっつーのに」

冗談めいた私の台詞に瞳を細めてエースは微笑う。慈しみの色を強く滲ませたそれで優しく儚く。荒れ狂う嵐のような心中を無理矢理抑え込んで私も穏やかに微笑み返した。

(…強い、か)

そんな訳など無いのに。涙腺は今にも決壊しそうで、膝は崩れてしまいそうに震えている。少し気を緩めれば彼の足元に縋りついて蹲って、行かないでと泣き叫びそうだった。見え見えの虚勢を張る私はさぞ滑稽でみっともなくて。でも、自分の心に任せて彼に縋りつく方がきっとその何倍もみっともないと思うから。
これは、意地だ。見送ることしかできない女の最後の意地。譲れないと思ったことも結局は全部この男に譲ったのだから、せめてこの意地くらいは突き通してやりたい。ただその一心で自分を奮い立たせていた。


ふいにもう一度私たちの間を強めの風が吹き抜ける。それと同時に差し込むような光明が視界の端に映って、自然と私もエースもその光へと顔を向けた。

「───夜明けだ」

ずっとずっと遥か彼方の空が朱く輝く。空に映る紺色のグラデーションは更に明度を上げて広がり、暗い色を落としていた海はみるみるうちに美しいコバルトブルーへと色を変えた。まるで初めて世界が解き放たれたような、そんな夜明け。涙が出そうな程、美しかった。
手を繋いだまま、お互い何も言わずにその瞬間を見届ける。そして再びどちらからともなく見つめ合った。

「ナマエ」

優しく唄う様にエースは私を呼ぶ。朝焼けの明かりが彼を照らせばそのまま陽炎のようにゆらゆらと消えていってしまいそうだと思った。
実際にエースは行ってしまう。約束の時間はやって来た。私はこの手を離さなければいけない。

「エース」

行かないで。なぜだか私もずっと、胸騒ぎがしてる。この手を離したらもう、会えないんじゃないかって、考える自分がいる。ねえ、お願い。エース、

「…いってらっしゃい」

でももうそれらは終ぞ一つとして声になることは叶わなかった。
指を一本ずつ解くようにゆっくりと手を離す。そして、完全に手が離れた。
自由になったエースの両手は私の頬を包む。温かくて優しい、陽だまりのような手。その手に導かれ、見上げるように首の角度を上げれば額同士が触れた。

「ナマエ、愛してる」
「うん…私も、愛してる」

これ以上にない、シンプルでありのままの言葉だったと思う。降りてくる口づけに瞳を閉じて、そして次に開けた時にはもう、エースはいなかった。代わりに彼がいた名残として肌にちりつく炎の熱さと小さな火片が幻想的に舞っていた。
弾き出されるように甲板の端の手すりに身を乗り出すと、エースの乗るストライカーが速度を上げながら夜明けの方角に向かって海上を走っていた。どんどん小さくなっていくその背中を見届ける。エースは一度も振り向かなかった。それでもずっと見つめ続けた。微笑みながら、ただひたすらに無言で。
そして本当にその姿が水平線の彼方に消えていった瞬間、

「エース……ッ!」

私はその場に泣き崩れたのだ。


これが───私とエースの、最期の日。



*****


記憶を取り戻したその瞬間から私は40度近くの高熱に魘され続け、気づけば三が日最終日となっていた。我ながら散々な年始だと思う。一人暮らしであの熱にさらされ続けるのはかなり骨が折れたが、実家は実家で面倒になりそうなので帰らなくてよかった。ピピ、と通知音を鳴らす体温計の数字を確認すると37度を表示しており、ベッドの上で一人息をつく。明日は仕事始め。この調子だと無事に回復できそうだと胸を撫で下ろした。

夕方、散々汗をかいたおかげでべたついていた身体をシャワーで流した後、リビングのソファにどさりと座り込む。頭は未だにぼんやりとしていた。それは高熱による影響のせいか、それとも…取り戻した記憶のせいか。
まるで鮮明な夢を見たようだと今でも思う。まあ夢にしてはあまりにも視界も感覚も全てがリアルすぎるために、そうではないということは自分が一番よく分かっているけれど。遠い遠い…もういつかも分からないくらいに遠い昔、今思えばあの突拍子もなく驚きに満ちた世界で私もエースも生きていた。そして何の因果かそれぞれ取り巻く環境は変わりながらも、こうして私たちは再び出会って、あまつさえ恋人同士にもなっている。一番驚いたのはエースと同い年だったはずの私が6歳も年上になっていることだ。しかし、それを差し引いてでも、

(奇跡…だなんてあまり言いたくないけど)

この現状に思わずその言葉が頭の中を過ぎった。

でもここで浮かび上がる問題が幾つか。一つは今まで通りに私がエースに接することができるのか。少なくとも今顔を合わせてしまえば…泣かずにいられる自信は無い。
そしてもう一つ。エースもいつか記憶を取り戻す日が来るのか。当たり前に確かめたことはないけれど間違いなく今のエースには記憶が無い。このままずっと取り戻さずにいる…とは言い切れないだろう。現にこうして私が全て取り戻しているのがいい例だ。寧ろ、いつか取り戻す日が来ると思っていた方がいいのかも。だからいつかの将来、記憶を取り戻す日が来た時に。

エースは今の私を、一体どう思うのだろう。

(…もしかすると、)

ピリリリッ

「!」

漠然と胸中を薄暗い何かが覆った瞬間、そこに横槍を入れるようにして響いたのはスマホの着信音。
画面を覗いてみればなんと相手は現在進行形で私の頭の中を埋め尽くす張本人で、途端にスマホを持った私は一人で大慌てする羽目になった。どうしようどうしよう!言ったそばから一つの問題に直面してる!今の私は彼と顔を合わせてしまえば…いや声さえも聞いてしまえばどうなるのか本当に自分でも想像がつかない。万が一にでも堪らず泣き崩れたら…その後の妥当な言い訳が思いつかない。狼狽え続ける私の手中にあるスマホは依然として着信音を鳴らし続ける。このまま無視…でもそれはなぜだかとても気が引けた。
震える指先で通話ボタンをタップする。そして恐る恐るスマホを耳に当てがった。

「…もしも」
『ナマエちゃん!!!』
「ッうるさ…!?」

キーン!と耳を劈くような大声が食い気味に飛び出してくると反射的に腕を伸ばして耳からスマホを離した。目を白黒させながら再度それを耳元に持っていけば大きなため息が聞こえてくる。

『あーもう…!マジで繋がってよかった』
「…え…なにが?」
『なにが?じゃねーよ!何度も連絡したのにいつまで経っても返信どころか既読さえつかねェし!すげェ心配したんだぞ!』
「あ…あー…」

確かに…言われてみれば。大晦日の夜あたりからの自分の行動を思い返すと全然スマホを触っていないことに気づいた。というより、それどころじゃなかったというのが本音だけど。これは彼に限らずいろいろと連絡を放置してそうな予感がする。

「あの…ごめん。実は元旦から熱出しちゃって。ずっと魘されてたからそれどころじゃなかったというか…」

さすがに高熱の理由は言えない…というか言ったところでみたいな感じなのだが、熱に苦しんだのは本当だし。後で他の人からの連絡も確認しようと思いながら、不機嫌そうな声を上げるエースへ掛ける言葉を慎重に選ぶ。些かぎこちない私の返答の後、数拍の沈黙を置けば「はあッ!!?」とこれまたエースの大きな声が耳を突き抜けた。すごく頭がぐわんぐわんする。

「声が…大きい…」
『わ、悪ィ…んなことより熱って!』
「もう下がってるよ」

本当はまだ少し微熱だけど。余計な心配をかけたくなくてそれは伏せた。思いの外普通に会話できていることに内心安堵しながら、「だから大丈夫」と続く台詞を用意してここで適当に電話を終わらせようとした。しようとしたのだけれど、次に言われる突拍子もないエースの言葉に私の思考はフリーズすることになる。

『今からそっちに行く』
「……はっ?」
『すぐ向かうからな!』
「えっ、ちょっ」

それじゃ!と覆い被さるように言い捨てられてブツッと電話が切れた。……えっ、今あの人なんて言ってた?気のせいじゃなければ、今からここに…

「は…はあぁ!?」

雄叫びを上げた先のスマホは既にただの待受画面に戻っている。待って待って待って!ていうか私の意思は!?完全に気が動転した私は思わず切れたと分かっているはずのスマホにそう話しかけてしまった。わなわなとスマホを握る手が震える。マズい。これは非常にマズい展開になった気がする!

ピンポーン!

「ひぃ!?」

そして電話が切れてから一分も経たないうちに部屋に響いたインターホン。もちろん鳴らした相手は聞くまでもなくて。そりゃ隣の建物なのだから数十秒もあればたどり着くに決まっている。うちはオートロックのマンション。だからこのインターホンに応えなければ彼はここまでたどり着けないけれど、こんなあからさまな状況下で居留守を使う程私の肝は座っていない。本当にどうしよう!?意味もなく部屋をバタバタと行き来すればもう一度インターホンが鳴った。

「ああもうこの単細胞め…!」

分かっている。今までだって何度も私は同じことを思ってきた。彼は…エースはいつだって私の予想の数段飛ばしでやって来るんだってことを。たとえ記憶が無くともそれは今も昔も全然変わっていなくて、そしてそんなエースが好きな自分も笑っちゃいそうなくらい、昔と同じままなんだ。
もはやここまで来たらなるようになるしかなくて、もうどうにでもなれと投げやりにオートロックの解除ボタンを押す。すると数十秒後に今度は玄関のインターホンが鳴った。玄関に向かう間も緊張でドンドンと激しく鼓動が胸の内を叩く。扉の前で深呼吸をした後、ゆっくりと鍵を解錠してそれを開いた。

「ナマエちゃん」

ほんの少しだけ息を切らして心配そうな表情を浮かべる彼と、目が合った。
ああ…ああ、エースだ。エースがいる。

「……っ」

今顔を合わせてしまえば私はどうなるのか分からない。もしかしたら泣き崩れてしまうかも。だから、こんなに会うのを躊躇していたはずなのに。それなのに。

「…!? ナマエちゃん!?」
「ッ会いたかった…!」

自然と零れ落ちた言葉。思うよりも先に私の両腕はエースの首の後ろに回っていて、弾き出されるように私はエースに抱き着いていた。ほぼ不意打ちにも関わらず難なくそれを受け止めたエースは驚いたように私の名前を呼ぶ。きっと彼からしたら私の行動はすごく突然で不可解だろうという自覚はあった。それでも縋りつくように肩口に顔を埋めれば、戸惑いを滲ませながらでも抱きしめ返してくれるのだから、涙がこみ上げると同時に愛おしさが溢れてしょうがなかった。

「エース…くん」
「…?」
「誕生日おめでとう」

噛みしめるようにその台詞を口にした。年は越えた。そして目の前にエースがいる。あの世界では生きることができなかった21歳≠フエースが、ちゃんとここで生きている。戸惑いと衝撃、あの世界で感じてきた悲しみや苦しみ…記憶を取り戻した瞬間、もうとても言葉では言い表せないくらいたくさんのものに飲み込まれて私は溺れそうだった。だけどそれら全てを打ち消す唯一の事実に私は救われた。やっぱり、これを奇跡と言わずして何と言えばいいのだろう。腕の力を緩めて顔を見上げれば、ころりと一粒だけ涙が落ちる。

「生まれてきてくれて…ありがとう」

この世を生きていてくれて、ありがとう。手を添えた彼の頬、昔と同じように散らばる雀班をするりと親指でなぞった。エースは目を見開けば、たどたどしく「おう」と言う。そしてぎこちなく瞳を左右に泳がせた。

「ナマエちゃん…何かあった…?」
「……どうして?」
「いや、なんか……」

彼にしては珍しい歯切れの悪さに首を傾げる。その頬は心なしか赤いような気がして余計に疑問符が頭に浮かんだけれど、結局「やっぱなんでもねェ」と片づけられてしまって何も聞くことはできなかった。


*****


「本当に体調は大丈夫なのか?」
「大丈夫だって。それより早くしないと遅れるよ?」
「おれとしては休んでも」
「だめです」
「ハイ…」

あれから玄関でずっと話すのもと思って中に入るように言えば、エースがここに来たのはバイトに向かう前だったらしい。そしてもう時間的に出なければいけないようだった。曰く、もし私の体調が芳しくなければ休んで看病しようと思っていたのだとか。結局それは杞憂に終わったけれど最後の最後まで名残惜しそうに私の体調を気遣うから思わず笑ってしまう。

「ナマエちゃん」
「ん? ──!」

バイトに向かうことに消極的な背中を押してドアの外側まで出るよう促す。するとエースがふいにこちらを振り向いた。呼ばれた名前に自然と彼を見上げれば、覆い被さった影に反応する間もなく重なる唇。それは一瞬の出来事で、現状を飲み込めずぽかんとする私に眼前のエースがいたずらっ子のように笑った。

「この前のお返しな」
「…!」

この前の。多分それは、クリスマスの翌日に同じようにバイトに向かう彼に向かって私がしたキスのことで。分かりやすく赤くなった私の顔に満足したのか、エースは含み笑いを見せて踵を返した。

「じゃあ、いってきます!」

駆け足で去って行った背中を見送る。エレベーターを使わずに階段へと姿が消えれば開いた玄関のドアもそのままにその場にしゃがみ込んでしまった。

「はあー、もう…」

やっぱりかっこいいなあ。悔しいくらいに、かっこいい。
熱がぶり返したと思えそうなほど火照った顔は開けっ放しの玄関によってさらされる外の冷気がちょうどよく感じてしまう。かといって開けっ放しにする訳にもいかず、適当に手で顔をパタパタと扇ぎつつドアを閉めた。



部屋に戻って数日ぶりに中身を確認したスマホは、やっぱり年末年始のせいかいつもより連絡がたくさん溜まっていた。家族や友達、上司、同期、後輩、会社の取引先の人…ここまで溜まるともはや逆に放置したい気分になってくる。苦虫を噛み潰したような心地になりながらそれら一つ一つに返信をする途中、その中の一つであるエースのトーク画面を開いた。
兄弟たっての願いで帰省した彼からは、文章の合間に実家で過ごした様子の写真が送られていた。大きいバースデーケーキ、年末年始の特番を観るこたつに入ったエース以外の兄弟二人の後ろ姿、落書きされたルフィくんの寝顔等々…ありとあらゆる写真が何枚も。一枚ずつ開いてはついつい笑みが零れてしまう。
そして最後に送られていた写真は初詣に行った三人の姿。笑顔を浮かべる仲睦まじい三兄弟の様子に目を細める。そして、右端に写る金髪の彼に目がいった。
弟であるルフィくんはエースから聞いた話や手配書のおかげで名前と顔こそ知っていたものの、あの世界で会ったことは無い。だけど彼とは。


『おれは…エースの、兄弟です』

『あなた…!あなたもしかしてサボ≠ウんですか!?』


あの場≠ナ交わした会話が否応なしに蘇る。彼とはあれ以来会えなかったけれど、シルクハットに背負った鉄パイプ、そして何より綺麗な顔に大きく残る左目付近の傷痕が特に印象的だった。写真に写る今の彼にはそれが無いことに心のどこかで安堵する。
血よりももっと深いところで繋がっていたかつての兄弟。そうか、この人もエースと同い年だったはずなのに今では年上になってしまっているのか。そう思った時、ふと今のサボさんが言っていた台詞を思い出した。
私に連絡先を教えた時、彼は確か…

───おれは覚えている

「………!!」

ドクリと心臓が波打つ。あらぬ予感が頭を過った。
兄弟に対しての少し過保護気味な態度、それが…それがもし昔の出来事に起因するものだとしたら?覚えている。その発言がもし過去の記憶のことだとしたら?
エースは覚えていない。なら、他の人はどうか。他の人が記憶を取り戻している可能性。私が思い出している以上、可能性がゼロなんてことは…

(絶対に、有り得ない)

スマホに映るエースのトーク画面を閉じる。そして電話帳を起動させると選択するのはサボさんの番号。「意味が分かったら連絡が欲しい」彼はこの番号を渡した時、そうとも言っていた。息を大きく吐いてから、発信ボタンをタップする。
心臓はうるさい。頭はぼんやりとする。なのに、妙に思考ははっきりしているという矛盾。電話は3コールきっちりと鳴った後、繋がった。

『はい』
「あっ、サボさんですか?ナマエです。すみません年始早々に」
『いいえ、お気になさらず。お久しぶりですね』
「そうですね…あっ!あけましておめでとうございます」
『はは、あけましておめでとうございます』

電話の先の話し方は今思うと昔の時よりもほんのり柔らかい気がした。適当な年始の挨拶を交わせば「どうしました?」と彼は聞いてくる。膝の上に置いた手はひどく汗ばんでいた。

「あの…サボさんずっと前に言いましたよね。おれは覚えている≠チて」
『──! …ええ』
「その意味が分かった気がして、今日は連絡しました」
『………』
「自信は…すみません、あまりないです。そして今から私、すごく変なことを言うと思います。だから間違ってたら遠慮なく笑い飛ばしてください」

サボさんは何も言わなかった。流れる沈黙を無言の了承だと取って、口を開く。

「最初は、妙な夢を見たことから始まりました────…

これはきっと、聞く人のほとんどが何の世迷言だとせせら笑う内容だろう。突拍子もなく、現実味も全く無い、空想のような話。

喜びと悲しみに満ちた世界で生きた、私の話。


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