その日はバイトが遅番らしく、仕事終わりにエースくんが迎えに来るという約束をしている日だった。

「あンのハゲ上司…!」

そう、エースくんと約束をしている日。なのに私は恨み辛みを吐き出しながら会社の階段を駆け下りている。
退社時刻が迫ってきた頃になって急に例のハゲ課長が振ってきた仕事のせいで予定が狂いに狂った私はフルスピードで業務を終わらせるとオフィスを飛び出した。この世に法律と倫理観が無ければ私はあのハゲを刺していると一体何度思っただろう。記憶を遡ってみたがあまりの多さに秒で数えるのは止めた。
いつもならエレベーターで悠々自適に出入口まで向かうのだが、エレベーターを待つその時間さえ惜しい。時刻を確認すると約束の時間は過ぎてしまっている。一応アプリで連絡は入れたが既読はついていなかった。

早く、行かなきゃ。だって今日は、今日はすごく…!


「あ、ナマエちゃん」

少し息が上がった頃、やっとといった気持ちで会社を出れば近くにあるいつものベンチで彼は待っていた。ああよかったいた…!私の名前を呼ぶ声に安堵の気持ちで手を振って応える。

「───!」

だがその彼の隣、見慣れない人物がこちらを見ていることに気づいて反射的に立ち止まってしまった。誰、だろう…。そんな私の戸惑いを察知したのかエースくんはこちらに駆け寄ると少し申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせた。

「悪ィ、さっきそこで会ってさ。すぐ話終わるから」
「あ、ああ…友達?」
「おう。おーいデュース!」

エースくんの声に少し離れたところに立っていた彼が近づいて来る。空を写したような水色の髪、一風変わったハイセンスな眼鏡…?と思しきものを着けている男の子はデュースという名前のようだった。エースくんから聞くところによると、彼は高校からの同級生で同じ大学に通っているらしい。
これまでエースくんに関係する人でサボさん以外には会ったことがない。友達は初めてだなと緊張した面持ちで軽く会釈をする。すると私を見たデュースくんは、なんだろう…ひどく驚いたような、困惑したような、不思議な表情をしていた。

「……エース、もしかして」
「ああ、前話したろ」
「えっ」

話したって、なにを!?聞き捨てならない台詞に動揺する私を置いてデュースくんは「そうか」なんて納得した素振りを見せる。え、ちょっと待ってよ!
どうやらエースくんの言った通りすでに話は終わりが見えていたらしく、デュースくんは少し眉を下げて笑いながらエースくんの肩を叩いた。

「とにかく、いつでもいいから考えておいてくれ。みんなお前を祝いたがってるんだ」
「……そこまで言うなら分かった。また空いてる日連絡するわ」

どこか気恥ずかしそうな顔をしたエースくんの返答にデュースくんは満足そうに頷く。すると用件は終了したようで、それじゃあ、と彼はその場を後にしようと踵を返した。

「すみません、邪魔をしました」
「えっ!?いえ、そんな」
「エースを…よろしくお願いします」

優しくてどこか切実さを忍ばせた声色。
なんで、そんな顔をしているんだろう。そう思ってしまいそうなほどどこか物悲しく、それでいて安堵したような笑顔を彼は浮かべていた。

「は、い」

ぎこちなく頷く。そんな私にデュースくんは小さく会釈をするとすぐに立ち去ってしまった。…その様を見てどこか妙に胸騒ぎを覚えたのは、気のせいだろうか。
小さくなっていく背中を無言で見送る。すると手に温かいものが包み込む感覚がして、隣を見ればエースくんが瞳を細めて私を見下ろしていた。

「久しぶり」
「………うん」

顔がじわじわと熱くなる。師走に入ってからエースくんはとにかくバイトで忙しい。私も私で月末が近づくにつれて仕事納めでバタついており、エースくんと顔を合わせたのはその…あの日≠ヤりで。一応隣接した建物に住んでいるご近所さんだということを忘れてしまいそうなほど、絶妙に私たちはすれ違っていた。
連絡は頻繁に取っている。エースくんは久しぶりとは言ったが、あれから日にして一週間と経っていない。
それでも、

「会いたかった」
「…私も」

すごくすごく、私たちはこの日が待ち遠しかった。


時の流れというものは、途端に人を臆病にさせるものだと思う。

「どうぞ」
「お邪魔します」

会社から帰宅した後もエースくんのバイトの時間までまだ時間があった。なのでそれまで私の家にいることにして、一緒にマンションへ入る。鍵を解錠して開いた玄関のドア。それをくぐったその矢先、急に後ろから覆い被さるように抱きすくめられた。犯人は、分かりきっている。

「ちょっ…エースく」
「ナマエちゃん、キスしたい」

耳元で囁く低い掠れ声。まるで別の世界に連れて来られたんじゃないかってくらいに一瞬で空気が甘いものに変わった。あまりの温度差にぞくりとした何かが津波のように押し寄せる。遅れて聞こえてきた扉の閉まる音も、もうまともに耳には入らなかった。

「…っ」

恨めし気に見上げた先の彼の顔は意地悪に笑っていて。ああ、ずるい。すごく、ずるい。
本当はどこかでやっぱりあの日の出来事は都合の良すぎる夢だったんじゃないかって思っている部分が未だにあった。そんなことは無いと分かりきっていても、会えない日が経てば経つほど早く確証が欲しいと心は喘ぐ。早く、その手で触れて、その声で囁いて、その唇で塞いで欲しい。あの日の出来事は全て現実だったと誰でもない君が証明して欲しい。そんな私のひねくれた不安を彼は瞬く間に掠め取っていく。

「……聞かないで、よ」

自分でも笑ってしまう程簡単に熱にあてられて出てきた声は浮ついたものだった。だって、聞かなくても分かるでしょう。あの日から私には拒む理由なんて一つも無いんだってことを。
エースくんは目を眇める。瞳の奥には煮えたぎるような情欲が揺らめいていた。
熱い吐息を零した彼の身体がぐっとかがんでくれば徐々に近寄る気配の中、私はそれに身を委ねるように瞳を閉じた。



「っあ゙〜バイト行きたくねェ〜」

刻々と過ぎていく時間に頭を抱えるエースくんの腹の底から出てきたような声に思わず苦笑が漏れた。

「サボってずっとここにいたい」
「それはだめだよ」
「分かってマス…」

彼の勤める居酒屋は本当に人気店なために師走ともなれば連日満席だそう。もちろんそうなれば忙しさは極みに達するもので、大学一回生の頃からバイトとして勤める彼は貴重なベテラン組のためにどんどんシフトを入れられるらしく。詳しく聞いてみれば社会人の私も真っ青な連勤具合になっていた。確かにいっその事サボりたくなる気持ちも分かる。

「あ、ナマエちゃん!」
「わっ、びっくりした」
「そういえば今週末って空いてる?」
「…今週末?」

軟体動物のようにだらりとソファに預けていた身体が勢いよく起き上がったことに飛び跳ねる。今週末はもう仕事納めが終わってるから何も無いはず…。少し間を置いて首を縦に振るとパッと光が灯るようにエースくんは笑顔を零した。

「おれ!休み取ったんだ!」

曰く出てほしいとお願いされてもそこだけは突っぱねたそう。なんでそこまで…という疑問は目にしたカレンダーで解消された。
…なるほど。

「デート、しようぜ」


*****


「エース週末休み希望出してたってマジかよ!?」

バイト中のとある日、バイト仲間の一人が血相を変えてやって来たと思えば発した一言にエースは「おう」と簡潔に返事をした。

「なんでだよ!?」
「なんでってお前、おれがどんだけ働いてると思ってんだ!休みくらい欲しいわ!」
「バッカお前がいつ休み希望出したのか分かってんのか!?クリスマスじゃねーか!」

エースが休み希望を出した日…その日は12月25日。所謂世間でいうクリスマスだった。
そう、クリスマス。そんなことエースだって分かっている。むしろだからこそ休み希望を出したのだ。
クリスマスとかバレンタインとか、元来そういうのは割とどうでもいいと思っている。記念日でも無いのになんで浮き足立つ必要があるのかとすら思っていた。だが何の奇跡が起こったのかナマエと付き合えることになった瞬間、週末にその日が控えていることに気づいたエースはまたとないチャンスだと思った。世間一般には大切な人と過ごすとされている日。こんなに恋人同士が過ごすのにお誂え向きな日は無いだろう。
だから即刻エースは休み希望を出した。他の日が犠牲になろうとその日だけは休みを死守した。それがまさかこんなに騒がれるとは思っていなかったが。

「なんでだよエースゥ〜独り身の野郎共でバイト終わったら飲もうぜって約束したじゃねーかよ〜」

わーわー騒がしい男に面倒くせェなと内心独りごちる。そもそもエースはもう独り身じゃない。自分でも信じられないことに独り身では無いのだ。

「…ハッ! ま、まさかお前…!」

何かを察知したのか、男は小刻みに震えながら恐る恐る訪ねるような口ぶりになる。それにエースはフッと余裕めいた笑みを返して。

「まァ、そういうことだ」

どとのつまりエースは舞い上がっていた。
見切り発車で多忙を極めるバイトの休みをクリスマスに取ろうとするくらいには。


*****


本当に舞い上がってるな、と改めて思う。だがこれで舞い上がらずしてどうしろと。そうエースは誰に宛てるわけでもなく弁明したい気持ちになった。

「どれから観る?」

DVDディスクを複数手に持ったナマエが笑う。首をこてんと傾げて楽しそうにするその様子がなんとも、

「…かわいい」
「へっ?」

おっとつい心の内の声が出てきてしまった。咳払いを一つして気を取り直すと、エースは適当にその中から一枚のDVDを指さした。

待ちに待ったクリスマス当日。事前に二人で相談した時にゆっくり過ごしたいという意見が一致した結果、ナマエの家で映画を観ようということになった。少し早めの時間に待ち合わせして、クリスマスらしいちょっと豪華なオードブルやナマエが好きな駅前にある人気のケーキ屋さんに並んでケーキを買って、レンタルビデオ屋でお互いに観たい映画をいくつか借りて。クリスマスでいつもより人が多い街中を手を繋いで歩き回るその間だけでも、ああ休みをぶん取ってよかった、とエースは充分身に染みて感じていた。

そして家に着いてとうとう二人きりになれば、やっぱり、その、平たく言えば。

(───すげェ期待する!)

その一言に尽きた。

テーブルの上には買ってきたオードブルとケーキ、そしてグラスに注がれたシャンパンがプクプクと小さな気泡を作っていた。ちなみにこのシャンパンはナマエが用意したもので、多分結構高いやつ。気を遣わせたのではと申し訳ない心地になったエースに「私が飲みたかったし、ボーナスも手つかずだったからいいの!」と明るく笑った彼女はそれまた可愛くて。ナマエも楽しみにしてくれていたのだろうかとその時は悶えを抑えるのに必死だった。
薄い黄金色のそれをじっと眺める。その奥でプレイヤーにエースが選んだDVDをセットするナマエの姿が歪んで映っていた。


それは確かエースが元々好きな洋画で、ナマエが観たことが無いと言ったために借りたやつだった気がする。迫力のあるアクションと張り巡らされた伏線のあるストーリーがとても面白く、サボやルフィともよく一緒に観ていた。
テレビには車が爆風で吹き飛ぶシーンが流れる。…さっきのって物語のどの部分だっけ。きっとここが映画館や別の場所ならもっと冷静に映画の世界に入り込んで楽しむことができただろう。だが今のエースにはとても映画を楽しむなんて余裕は無く、ただひたすらに目の前の映像を視界に映すという作業にしか感じ取れなかった。
二人並んで座ったソファ。途中まで頑張ってはみたもののやっぱり集中できなくてこっそり隣に視線を動かす。そうすると真剣な表情で映画に見入るナマエの横顔があった。ドォン!と大きな爆発音に目を見開いて肩をびくつかせたり、コミカルなシーンでクスリと口元を緩めたり。ころころと色を変えるそれに、ああ…かわいいな、と思う。映画を観ているよりもよっぽど楽しくて満たされた。
ナマエはゆるいシルエットのセーターを着ており、髪はふわりと巻かれている。女性の化粧には疎くて詳しく分からないが華やかな印象のそれは仕事の時とまるで違う雰囲気を纏っていた。一度プライベートの姿で会った時もそうだったが、あれはたまたま遭遇したに過ぎなくて。でも今回は違う。わざわざ今日のために、自分と過ごすためにその恰好をしてくれたのだと思うとすごくたまらない気持ちになった。
触れても…いいだろうか。いや、触れたい。早く映画なんて終わってしまえ。いつの間にかそんなことをエースは考えていた。

しばらくして壮大な音楽と共にテレビにはエンドロールが流れる。夢中になっていたのか食い入るように観ていたナマエはほう、と軽く息を吐いてソファにもたれかかった。そして満足そうに笑って隣へ顔を向ける。
その隣では今か今かと獣が首を長くしてこの時を待っていたと知らずに。

「これ面白いね!」

ごめんナマエちゃん、おれ全然観てないんだ。だけど、終わるまで待っていただけでも褒めてほしい。
露程も思っていない謝罪を心の中で呟いて、エースは待ちわびたその唇に噛みついた。

ドサリ、二人の身体がソファに倒れる音がする。

「───!? ん、ンンっ!」

触れるような口づけもそこそこに舌を口内に捩じ込むとナマエが映画を観ながらちびちび飲んでいたせいかシャンパンの味がした。するとまるで一気に酔いが回ったかのように頭がぼんやりとする。シャンパンのせい…では無いことは明確だろう。
くぐもった声を上げるナマエの逃げ惑う舌を追いかけて絡めとれば、固くなっていたそれは次第に力が抜けていく。段々とされるがままになる様に加虐心を煽られて、じゅっと強く舌を吸い上げるとビクリとナマエの身体が震えた。

「ッ、は、あ……えーす、くん」

火照った顔、荒い呼吸と少し舌足らずの上擦った声。唇を離して見下ろせばそんなナマエが視界に飛び込んできてひどく眩暈がした。バクバクと心臓が波打つエースも息が荒い。本当に我ながら獣のようだ。このままじゃ、まずい。どうにかこの荒れ狂うような衝動を抑えないと。ぐるぐると高熱に浮かされるような頭の中ではそう思うのに、まるで思考と分断されたかのように全く己の身体は言うことを聞かなかった。

「ん、は…っ、…ッ、ひゃ、ぁ!」

ちゅ、ちゅ、とリップ音を鳴らしながら口、頬を伝って耳元にたどり着く。そして気まぐれに何となく、そこに吐息を吹き込んだ時。一際甲高いナマエの声が鼓膜を揺らした。
ぞくりと背筋が震える。腰が一気に重たくなった。そこから耳朶を食んだり、舌を這わせたり、また息を吹きかけたり。その度にナマエは堪えきれないとばかりに甘い声を上げた。

「あ、っ!や、待って…!えーす、んん!」
「は…かわい…」
「〜〜ッ!!」

止まれ、止まれ。そんな声がどんどんかき消されていく。もう自分ではどうしようもないとエースは感じていた。どうかいっその事殴って泣いて止めて欲しい。最低だと罵って欲しい。もう微かにも残っていないような理性がそう叫ぶ。とどまる事を知らない飢えと乾きの中、無責任にもどこか泣きそうな心地でエースがナマエの顔を覗けば────

「ッ…ふ、ぅ」

とろんと蕩けた顔。か細い声を漏らす小刻みに震える唇。ぐずぐずに溶けた瞳に確かに滲む甘い色。
ああ、

「…ナマエちゃん」
「ひ、ぁ」
「ナマエちゃん…───シたい」

もう、限界だ。
零れ落ちるように出てきた台詞はエースの心情そのままの生々しいものだった。
ナマエちゃん、ナマエちゃん、と所々に落とす唇の合間に呟けばそれに短く声を上げるナマエが身じろぐ。気配を察して再度顔を覗き込めば、ナマエは熱い吐息を零しながらふるふると小さく首を横に振っていた。

「…ッ、なんで…?」

自分でもどうかと思うほど女々しくて詰めるような声が出た。だって、どうして止めるんだ。そんな顔を、そんな声をしているくせに。どう考えたってだめな訳無いだろ。触りたい、感じたい、もっと深いところまで。細くて白い首筋に柔く吸い付くとまたナマエの口から艶やかな嬌声が上がった。これは自惚れなんかじゃない。ナマエだって、自分と同じ欲を抱いている。
彼女の着るニットの裾から手を滑り込ませて触れたのは自分と全く違う細くて薄い腰。なだらかな曲線を描くそれにエースの中で劣情が一層膨らむ。少し性急な手つきで下着の上から胸の膨らみに手をかければ、ナマエの手が明確にエースの肩を押した。

「だ、だめ、エースくん…!今日は本当に…ッ!」
「だからなんでだよ…!」

抱きたい。なのにナマエは許してくれない。あれほど欲に濡れた顔をしていても。エースだってもう必死だった。御しがたい欲望と最後の最後まで抗う理性に挟まれて今にも気が狂いそうだ。ひと思いに全部かなぐり捨てて襲うような真似ができたなら…でもそれは他の誰でもないエース自身が決して許さなかった。そんなことをして大切な人を傷つけるくらいなら死んだ方がマシだと、本気で思うから。
泣きそうにナマエの顔が歪む。泣きたいのは寧ろこちらだというのに。暴れる熱を堪えるため噛んだ下唇に血が滲んでもなお、止まってくれない己の手がとうとう下着の下をくぐろうとした時、

「〜ッ! ───生理なの!」

そう絞り出すようなナマエの声が、響いた。


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