「───私も、好きだよ」

空気を震わせたその言葉の直後、全ての時が止まったかのようだった。
心許ない街灯の明かりだけが頼りである深夜の住宅街は恐ろしく静かで。だがその中で一際大きく己の胸の下にある心臓はドクドクと鼓動を鳴らしていて、それは錯覚なのだと強く私に訴える。気恥しさ、不安、期待が一気に押し寄せて、できることなら彼から目を逸らしてしまいたかった。でもそうはしなかった。今は決して、逸らすべきではないと思ったから。
長い長い沈黙を置いてエースくんが、は、と短く息を吐く。すると魔法が解けたようにオニキスの瞳がゆらゆらと揺れた。

「エースくん」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」

手で覆われた口元。激しく右往左往する視線。狼狽、という言葉がここまでぴったりなことはそう無いだろう。終ぞまともに合わなかった視線はぎゅっと閉じた瞼に遮られて、口元を覆った手はやがて彼の顔全体を覆い隠してしまった。そして大きく肩が上下する深呼吸をひとつ。その息はひどく震えていた。

「疑ってる訳じゃ、ねェんだ」
「うん」
「ただ…ッ、あまりにもおれに都合が良過ぎるから…!」
「…うん」
「もう一度…言ってくれねェか…?」

繋いだ手は弱々しく、声音はまるで乞い願うようなもの。

───ああ、

「エースくん」

何度だって、言おう。

「好きだよ」

今まで彼が私に伝えてくれたそれ以上に。

伝わってほしい。受け取ってほしい。彼から与えられるあのキラキラしたものには程遠いかもしれないけれど、どうか、どうかこの気持ちを。視界は段々とぼやけて鼻の奥がツンとする。声はみっともなく掠れて滲んでいた。だけどそれでもよかった。恥ずかしいとかかっこ悪いとかそんなことどうだってよくて、今はただ目の前の彼に少しでも多く伝えたい。
言葉というのはなんて不自由なんだろうか。こんな時でも「好き」っていう音にしかできないだなんて。幾度となくその台詞を繰り返せど表現しきれない想いはとうとう涙となって零れ落ちた。

「エースくん…好きなの」
「…ッ!」

顔を覆い隠していた手が落ちる。その下にあった彼のそれが泣きそうに歪むのを一瞬見届けると、力強く腕を引かれた。身体が大きく傾く。途端に包み込んだ温もりは、真冬の寒空の下にいることを忘れてしまいそうなほど熱くて優しかった。

「……ッ、好きだ…!」

きつくきつく、苦しいくらいに抱き締められる。くぐもった声で発せられたそれが鼓膜を震わせればまた一粒涙が零れ落ちた。
ああ、こんなにもとめどなく溢れて止まないのに、やっぱり私たちにはこの言葉へ託すように想いを伝えることしか出来なくて。それが拙くてどうしようもないと思う。だが同時にその拙さが、愛おしくてたまらなかった。

「うん、私も好き…っ」

身を焦がすような熱にあてられてまるで火傷をしてしまいそうな…でもそれが狂おしい程に心地いい。人の心はあまりにも小さく不完全で、とてもこれほどの激情を留めておくことなんてできやしないと思った。

知らない。

こんなにも───燃えるような恋なんて、知らない。

彼の背中にゆっくりと手を回す。ダウンジャケットを手繰り寄せるように掴めばこれ以上距離の縮めようが無いのに一層身体を引き寄せられて、ただひたすらにお互いの熱を確かめ合った。



しばらくしてふと腕の力が緩む。顔を覗き込まれてかち合ったオニキスは未だにゆらゆらと不安定に揺らめいていた。街灯の明かりが差し込めば、鈍く光るそこに甘さを宿しているのが浮き彫りになる。
ゆっくり、怠慢な動きでするりと唇の淵をエースくんの指がなぞった。それが何を意味しているのかは…聞かずとも解る。一際大きく心音が波打った。覆う影の暗さが濃くなって徐々に近づく気配の中、私が無意識に見出したのはあの時≠フ事故のような出来事だ。

「───!」

ピタリ、とエースくんの動きが止まる。
彼の背中に回していたはずの私の両手。それはいつの間にか肩へ抑えるように置かれていた。まるでこれ以上近づかないでと言わんばかりに。

(……やって、しまった…!)

ぐるぐると迷宮の中を彷徨うような思考回路の中で一気に血の気が引く感覚に陥った。
私はなにをしているんだろう。どう考えても、今のはそういう雰囲気だった。これがもし恋愛ドラマや映画なら視聴者は興ざめだし、きっと二度と観てもらえない。監督にはメガホンを投げつけられている。
言い訳がましいのは百も承知だがエースくんの顔が近づいてきた瞬間、脳裏に過ぎったのは前に一度キスをされた時のこと。さっきと同じように唇に触れられて、そして気づけば重なり合っていたあの時。濁流のような衝撃に飲まれる中でそのまま溺れるかの如く交わされた出来事を恥ずかしくも私の頭は悉に覚えており、思い出した途端いとも簡単に理性と言う名の皮を被った羞恥心が私のなにもかもを薙ぎ払っていってしまった。

「…っ」

だがさっきも言った通り、結局これは言い訳に過ぎなくて。
これまでいくら色恋から遠ざかっていたからといって、本来どうするべきだったかくらいは私にも分かる。だからこそさっき自分が犯した失態の大きさがどれ程のものなのかを痛感していた。

「………ごめん」
「!」

言葉に迷っていると、闇に溶け込むように仄暗く落とされた謝罪。
反射的に見遣った先…私を見下ろす彼のその表情は、まるで罪を犯したかのようにひどく思い詰めたものだった。ひゅ、と喉が鳴る。

「っ、違うの…!」

これは、いけない。瞬間的にそう察した。

「その…嫌とか、そういうのじゃなくて…ほらここ外だし、びっくりしたというか…!」

多分エースくんは私の行動を違う意味で捉えている。それは恐らく私が考える中で一番最悪な形で、絶対に思ってほしくないこと。このまま有耶無耶にしたら確実に後悔すること。

「だから本当に嫌じゃない…!」

なんで、いつも私はこうなんだろう。
大事にしたいと思うのに。好きなのに。気持ちを伝えてもなお、私は彼を悲しませようとする。自分の保身に走ってばかりでちっとも前に進みやしない。
お願い、信じて。お願いだから。何度も首を横に振ってそんなことをうわ言のように呟いた。
もう逃げたくない。彼には誠実でありたい。本当に好きだから。
ぼろ、と大きな雫が地面に落ちる。彼の前では泣いてばかりだ。いい意味でも、悪い意味でも。

「…ナマエちゃん」

縋りつくように額を彼の胸に貼り付けていれば降ってきた声。ふわり、両頬に温かな手のひらが触れる。導かれるように顔を上げて視界に映った彼の表情は溶かしたチョコレートのように甘くて。だが何かを堪えている気な熱っぽく、とても扇情的なものだった。

「そんな言い方じゃおれは期待しちまう」
「……」
「…外じゃなかったら、いいのか?」

ああ、なんだろう…すごく、くらくらする。
その問いに、私は一体どんな顔でどんな風に答えたのか。

「───」

完全に熱に浮かされた私にはもう分からなかった。けれどエースくんは私の返答に息を飲むと私の手を引っ掴む。

そのまま連れられるように、小走りになりそうなスピードでその場を後にした。


*****


少し乱暴に開かれたドアの中に連れ込まれたと思えば、すぐに閉まったそれに背中を預ける体勢になる。寸秒置かずしてガチャンという音が背後で鳴った。
…こんな気持ちでエースくんの家に入るだなんて、一体誰が予想出来ただろう。
私に覆い被さるように目の前に立つエースくんは何も喋らない。お互い無言のままの空間で、鼓動を刻む音だけがいやに耳についた。もしかすると彼にも聞こえてしまっているんじゃないかっていうくらいにそれは激しく暴れまわっている。

「ナマエちゃん」

低く、そして甘く響く声。それに加えて鼻が触れ合う程の至近距離で見つめられると全身の血が沸騰したかのように熱くてたまらない。先程まで不安定に揺らめていていたはずのオニキスは猛々しくギラついていて。
崖から飛び降りるような、深い海の底に身を委ねるような。その時私が手放してしまったものに名前をつけるとしたら、それはたぶん──理性
力が抜けた手から、ドサリと音を立ててカバンがその場に落ちる。
それが合図だったかのように、私たちはどちらからともなく顔を引き寄せ合った。



「ん、…ぁ」
「…は、」

あつい、暑い、熱い。本当に、溶けてしまいそう。
私たちの荒い息遣いの音と、合間合間に鳴るリップ音だけが暗闇の中で木霊する。微かな呼吸すら掠め取ってしまう強引な口づけを交わしたと思えば悪戯に啄むだけのいじらしいものになったり、エースくんから与えられるそれに私は終始翻弄されっぱなしで恥ずかしいことこの上ない。震える手で彼のダウンジャケットを握りしめる。すると応えるように下唇に吸い付かれて、くらりと眩暈がした。
頭の中はとっくの前にキャパオーバーを起こしていて。快感の渦に巻き込まれたまま帰ってこれない私に更に追い打ちをかけるように、エースくんの舌が、私の唇を舐めた。

「…!」

ぬるりとした生温くて柔らかい感触。驚く間もなく、頭を掻き抱くように支えられると口唇の隙間からそれが割り込んでくる。

「ふ、…ぁ、っ」

舌を絡み取られると、くちゅり、と唾液が混じる音がした。上顎を舐められ、舌を吸われる。優しくて、濃くて、甘い。そんなキス。
こんなにキスって気持ちいいものだったっけ…?靄のかかった頭の中でそんなことを思えば、されるがままだった舌を無意識に求めるように動かしてしまった。それにより一層、彼は口づけを深くしてくるから嬉しいのと気持ちがいいのと恥ずかしいのとがぐちゃぐちゃで訳が分からなくなる。ぞくぞくとしたものが背筋を駆け抜ければ、まるで背骨を抜かれたように力が入らなくなってしまって。もう私はぴったりとドアとエースくんの身体に挟まれているために漸く立てているような状態だった。

いつの間にか私の腰を支えていたはずのエースくんのもう片方の手はコートもスーツのジャケットも潜り抜けてシャツの上を滑っていた。
決して素肌に触れている訳では無い。それなのに彼の掌が熱くて、ひどく意識してしまう。
腰をなぞって脇腹から伝うようにそれは徐々に上ってくる。とうとう胸の膨らみのすぐ下までやってくればふるりと甘い痺れに腰が震えた。

あ…だめだ。おかしく、なっちゃう。

「あ、…っ、ん、!」

恥ずかしいのに。
声が、抑えられない。

「ッえーす、くん…!」

なんてはしたなく媚びた声。まるで強請っているみたいじゃないか、と頭の中で嘲る余裕なんてもう無かった。
口唇を離したエースくんは耳元で一等熱い吐息を零す。そして、

────ドゴッ!!

(……え?)

ドゴ?
何かを激しく打ちつけるような…明らかにこの場にはそぐわない物騒な音が響いた。
ずるずると私に覆いかぶさっていた大きな影が下に落ちていく。乱れた呼吸もそのままに、それを目で追うとエースくんが額を押えて蹲っていた。

「…え、エース…くん?」
「〜〜〜ッ!」
「エースくん!?」

目の前の状況を理解するのに比例してのぼせ上っていた頭がどんどん冷めていく。エースくんの肩は小刻みに震えていて、堪えるような呻き声を上げていた。私の思い違いでなければさっきの鈍い衝撃音は彼がドアに向かって頭突きをしたために生じたもの。

「ちょっと大丈夫!?」

なんでまたそんな自虐行為を!
彼の痛がり様と衝撃音の大きさから余程の勢いがついていたのが容易に想像できた。ど、ドア凹んでたり…さすがにそれはなかったか。恐る恐る振り返った背後のドアを見て息をつく。いや全然息をついてる場合ではないんだけど。慌てて目線を合わせるように私もしゃがみ込んで顔を覗き込めば、それはそれは苦痛に顔を歪めるエースくんが目に入った。目尻には若干涙も浮かんでいる。額に当てた手をどけてやるとそこはもちろん真っ赤で見るからに痛そうで。本当にどうしてこんなことを…。戸惑い気味にそんなニュアンスのことを呟けば、彼は気まずそうに口元をまごつかせた。

「…こうでもしねェと…止まんねェと思った」
「…え?」
「〜〜ッだから!襲っちまうとこだったんだよ!」

おそう…襲う。エースくんが、襲う。誰を?…こんなあからさまな状況下でそんなことを聞かなければいけない程、私も子供ではない。
冷めたと思った火照りがじわじわと戻ってくる。思わず黙りこくってしまった私にエースくんは殊更気まずそうにしてまたその顔を埋めてしまった。

「……おれには、前科があるだろ」
「……」
「あん時だってナマエちゃんのこと泣かして怖がらせて…すげェ反省したんだ。もうあんなことしたくねェ…」

優しく、したい。そう弱りきった声でエースくんは言った。
エースくんの言う前科≠ヘ十中八九私の考えているものと同じだろう。純粋に驚いた。そこまで彼があの時のことを思い詰めていたなんて。確かに私はあの時泣いていたし驚きはしたけれど、彼の考える怖いとかそんなことは…一切思っていないのに。

「…ふふっ」

優しくしたい、かあ。もう充分すぎるくらい優しくされてるのになあ。
小さく笑い声を零す私にエースくんが呆然とした表情で顔を上げる。そのおでこは未だに真っ赤だからそれが不思議と余計に笑いを誘ってしまって私は肩を震わせた。

「な、に笑ってんだよ…」
「ご、ごめん……ふはっ」
「〜ッ、おい!」

私はね、もう理性なんてとっくに飛んでたしこのまま襲われてもいいって思ってたんだよ。
そう言ってしまいたかったけど、それだとここまでして自分を止めてくれたエースくんの意思を蔑ろにする気がして口にはしなかった。私たちには時間がある。これから、たくさん時間があるのだ。

「エースくん」

なんて、幸せなんだろう。

「大好き」

するりと落ちてきた台詞にエースくんは数拍置いてから、またまた顔を埋めてしまう。耳まで赤く染めて「それはズルくねェ?」とぼやきながら。
それにまた一頻り私は笑うのだけれど、家に入って随分と経つのに未だにお互い玄関で靴すら脱いでない状況にその後気づいて、今度は二人で笑い合うことになった。



「わあ、すごい赤くなってる…これ痛いでしょ」
「めちゃくちゃ痛ェ」

君が自分でやったんだけどね…。あまりの素直な即答ぶりに苦笑を漏らす。
中に入れてもらってからというものの、まずは何よりエースくんの額の冷却が最優先だった。氷で冷やそうと思って冷凍庫を開けるとまさかの氷が一つも無いという状況(冬だから作ってなかったらしい)に出くわし、悩んだ末に見出した手段は彼が熱で寝込んだ日に私が持ってきた冷却シートを貼ること。正直これで事足りるのか不安しかないが無いよりはマシだろう。
手で触れればそこは熱を持って非常に熱くなっている。冷却シートを貼ってあげれば気持ちよさそうにエースくんは目を細めた。

「とりあえず貼っておくけど、あまりにひどかったらコンビニに氷買いにいくからね?最悪明日病院とかで、わ!」

向かい合わせのまま引かれた腕に言葉が途中で途切れる。ぎゅうっと包み込む圧迫感。抱き締められる…というより抱き着かれた。その犯人である彼は擦り寄るように首筋に顔を埋めてくるから、なんだろう。…こんなこと言ったらきっと怒っちゃうだろうけど、少し子供みたいで可愛くて。これが母性本能ってやつなのかな、と漠然と思いながら背中に手を回す。

「…ナマエちゃん」
「…なに?」
「……きす、したい」

とろりと甘い、色があるとしたらそれはピンク色のような。
…前言撤回。こんな子供がいたらたまったものじゃない。言い淀む私に「だめか…?」なんて不安そうに顔を覗き込んでくるものだから、本当にずるいというか何というか。

「………そんなこと、聞かなくてもいいのに」

拒む理由も無ければ、拒むつもりも毛頭ないのだから。
きっと今の私の顔は彼のおでこのことを言えないくらいすごく真っ赤で、情けないものだと思う。エースくんはそんな私を見て嬉しそうに、そしてちょっとだけ泣きそうに笑った。

「なァ、ナマエちゃん…愛される覚悟、できた?」
「──! …うん」
「一生、大事にする」
「うん…」

まるでプロポーズみたい。
そう揶揄うのは…また今度にしよう。
指を絡めるように手を繋いでからお互いに小さく笑い合う。そうしてゆっくり、唇を重ねた。



「…エースくん」
「……」
「寝ちゃった…?」

肩に乗る彼の顔、そこから規則正しい呼吸音が聞こえる。キスを何度か繰り返した後、エースくんは電池が切れたかのように夢の世界に旅立ってしまった。繁忙期のせいでバイトの休みがほとんど無いって言ってたもんな。ひどく疲れていたのだろうと察しがついた。
仕方ないと思う反面、抱き締められたままの状態にさてどうしたものかと思案する。抜け出そうと試みたものの、形状記憶かと思うくらいのホールド力を前に早々に諦めた。もういっか。いっそのことこのままで。私も眠くなってきたらエースくんごと倒れちゃおう。

「エースくん」

小さく名前を呼ぶ。もちろん返答は無い。すやすやと寝息を立てるそれにクスリと笑みが零れた。
まだまだたくさん、彼には思うことがある。困らせてごめん。悩ませてごめん。待たせて、ごめん。…これらを言っちゃうと謝るなって怒られてしまうんだろうな。

だから…そうだな。もしちゃんと伝えるとしたら。


「エースくん、─────…


*****


眼前にはひたすらに続く大きな大きな海。

知らない船上にいる。見覚えのない景色。
それなのに、ああまたか、とエースは思った。
また、この夢を見ている。周りに見える一面の海、知らない船、そして自分の隣には…

(───)

やはり彼女≠ェいた。
ナマエと生き写しのようにそっくりな彼女はいつものように美しい笑みをその顔に浮かべている。今回もやはり自分の声を含めて周りの音は何も聞こえない。
彼女は微笑みながら「エース」とその口を動かして殊更幸せそうに笑う。こちらが泣いてしまいそうなくらいに美しく儚げに。もう何回も、そんな夢を見ている。

───だが今回は少し違った。

(……!)

ころり、彼女の頬に涙が伝う。
一粒、また一粒と宝石を落とすかのように美しく微笑みながら彼女は泣いていた。
エースは焦った。どうした、なんで泣いているんだ。そう聞きたいのに声にはならない。涙を拭ってやりたいのに己の腕は上がらない。ああもう!思い通りにならない自分の身体がひどくもどかしくてたまらない。この夢の中でこんなことを思うのは初めてな気がする。

エース

彼女の口が再度そう動く。途端に風が吹いた。風が吹き付ける感覚は無い。だが絹のような美しい髪を靡かせる彼女の姿は一層綺麗で。このままその身体が花びらに変わって舞い散ってしまうんじゃないか…そんなことを錯覚するほど息を飲む光景だった。
眩しそうに彼女は瞳を細めるとまたそこから涙が零れ落ちる。柔く微笑む口がやがてゆっくりと動いた。


────ありがとう


確かに彼女はそう、言っていた気がした。


← →

×