あれから二階に戻った私は係長と主任に捕まったものの、主任の酔っ払いぶりに危険を感じたためすぐさま同期の元に避難。そしてその後を過ごすうちに忘年会は終わりの時間となった。

「主任ー、起きてくださいってば〜」

簡単な部長のお言葉に続く一本締めの後、二次会だ何だと言いながら社員たちがぞろぞろと出ていく。ほとんど人が居なくなった空間、やっと家に帰れると私もその場を後にしようとした時、隅の方で後輩ちゃんとその他彼女の同期たち複数人が固まっているのが目に入った。何事かと様子を見てみると主任がテーブルに頭を突っ伏している。

「どしたの大丈夫?」
「あ、ナマエ先輩。聞いてくださいよ、主任酔っ払っちゃって全然起きてくれないんです」

「もう飲めませんよ係長〜」なんてふにゃふにゃ言いながら呑気に眠る人物に思わず額を押さえた。確かに結構酔っ払ってたから不安だったけどこんなになってるとは…やっぱりあの時同期のところに避難せずに付き合ってあげた方がよかったかもしれない。まあそう思っても時すでに遅しなのだが。新人なために目上の人間に対してあまり強くも言えず困り果てた様子の彼女たちを見ていると気の毒で仕方がなかった。

「あー、主任は私が面倒見るからみんな行っていいよ」
「えっ!? でも、」
「二次会あるんでしょ?私は行かないし大丈夫だから」

戸惑う彼女たちに、ほら行った行った!と有無を言わさず退場を促す。すみませんという謝罪の言葉と、ありがとうございますという感謝の言葉を各々口にしながら出ていく後ろ姿を見送って息をついた。あの子たちも新卒で入社して今回が初めての忘年会だからこの役回りはあまりにも可哀想だしな。しょうがない、と自分に言い聞かせて主任の肩を強く揺すった。

「主任、起きてください」
「……んぁ?あれ…みんなは?」
「とっくの前に二次会に行きました」
「おお…そうか、じゃあ俺も…」
「そんな状態で行けるわけないでしょうが…タクシー呼びますから今日は大人しく帰って下さい」

立ち上がろうとしてふらつく主任を何とか支えつつ、二人分の荷物を手にする。みんなが帰ってる中私たちだけずっとここに居座るのはお店に迷惑だしとにかく外に出ないと。そう思って主任の腕を持つと、酔っ払いは体重をこちらに掛けてきて私も一緒にふらついた。ああああもう男女の体格差考えろよこいつ!

「ナマエ〜、おれはナマエがここに異動してきてほんっと〜に助かってるんだぞ〜」
「ああそうですかありがとうございます」
「あの課長の相手が出来るのはナマエくらいだって係長とも話をしててだな〜」
「ソレハドウモ!」

どうにかしてくれこの酔っ払いを!もう絶対高級プリンの詰め合わせ奢らせてやる!駅近の百貨店にあるやつ!そう心に決めて意気込んだのはよかったが、何せこの人酒臭いし重いしでまずこの状況を打開できる気がしない。
階段で一階まで降りなきゃいけないのにそんなこととても出来そうになくて早速心が折れそうだと思っていれば、現れた人物に「あっ」と声が出た。

「まだいたのかナマエちゃ…って大丈夫か!」
「た、助けて…」

重くて死にそう。驚いた顔をしたエースくんは手際よく私から主任を受け取ると腕を肩に回した。どこまで連れて行けばいいのか聞かれたので、タクシーを呼ぶから店の玄関までと返す。

「ごめんねエースくん…」
「いいって、つーかこういう時は危ねェから呼んでくれ」

主任の荷物を持って後ろをついていきながらタクシーを呼ぶ。その間エースくんは「オニーサン飲みすぎだぞ、大丈夫か〜?」と適当に声を掛けながら主任を運んでいた。すごい、酔っ払いの扱いに慣れている。さすが居酒屋店員とでも言うのだろうか。

「ナマエ〜」
「おれはナマエちゃんじゃねェっすよ〜」
「お…?もしや君はナマエのいとこくん…?」
「ああ、いとこ…ね。そうしとこーか」
「君のいとこはな〜優秀なんだぞ〜!何せあの気難しい課長の手網を引ける希少な人物で…」
「主任!」

あああなんか勝手に話し始めたし!そんな話してもエースくん困るだけでしょうが!と思うものの、へぇ〜と相槌を打つエースくんは思ったより楽しそうでそれを見ていると不躾に会話に介入も出来ない。そんな彼の対応に主任はますます気分の良くなったご様子で饒舌ぶりに拍車がかかった。

「にしてもナマエにこんなイケメンのいとこがいるなんてなあ〜」
「はは、あざっす」
「サボさんと知り合いだって聞いた時も驚いたけど、今回もまー驚いた」

サボさん。するりと出てきた名前にそれまでにこやかだったエースくんが一瞬固まる。後ろを歩いていた私は荷物を手から滑らせた。

「ちょっと主任!」
「ヘェ…オニーサンその話詳しく聞きてェな」

あー!最悪だ!!
エースくんの声音がやんわり低くなったような気がしたのは思い違いと信じたい。
驚き慌てる私には目もくれず、主任はそれは嬉しそうにサボさんのことを話し始めた。取引先に金髪イケメンのエリート社員が現れたこと、その社員(=サボさん)は他の女性社員たちの真ん前で私を食事に誘っていたこと、そこから私とサボさんの関係をみんな怪しんでいること。実は付き合ってるんじゃないかという噂が出ているという実にいらないことまで。というか九割いらないことしか言ってない!

「君もいとこなら何か言ってやってくれよ、素直になれって。あんなにサボさんといい感じなのに」
「主任酔いすぎですよ!タクシー来ますから大人しくしてください!」
「俺はナマエのことを思ってだなあ」

まじでしばくぞコノヤロウ!この台詞をなんとか堪えた自分を本当に褒め称えたい。
それからもだもだしつつなんとか無事店の外まで出たが、忘年会が盛んなこの時期はタクシーも引っ張りだこらしくまだ到着はしていなかった。その間も主任は何も聞いていないのにサボさん(+私)のことについて楽しそうに語っており、話を聞くエースくんは恐ろしいほどの笑顔。方や私は全く生きた心地がしないために顔面蒼白という有様。ああもうお願いだから早く来て!

「…あ、タクシー!タクシー来ましたよ!」

私にとって地獄とも思える数分間を過ごしたのち、心の底から待ちわびたタクシーがやってくれば即座に座席に荷物を放り入れて主任も無理矢理突っ込んだ。酔っぱらいは語り尽くしたことに満足したのかニコニコと笑っており、非常に気に食わない。

「世話になったな〜、また来週!」

その来週を無事に過ごせると思うなよ。バタンと閉まったドアにそう心の中で吐き捨てる。げんなりした気持ちになりながらあとはタクシーの運転手に全てを任せて走り出した車を見送った。

「……」
「……」

そうして一気に訪れるのはこの静寂。ここの周りだけ重力が二倍になったと錯覚しそうなほど重苦しく感じるのは、私だけなのだろうか。

「…サボといい感じ、ね」
「!」

極めて平坦に囁かれた台詞に、弾かれたように顔ごとエースくんの方を見遣った。彼の横顔は怒っている風でも悲しんでいる風でもない、凪いだ水面のようにただただ静かな表情をしていて。それが逆に少しだけ、怖い。

「…エースくん、」

声が震える。呼んでも彼は振り向いてくれなかった。指先が嘘のように冷たいのは外の寒さのせいか、それとも。

「あの、違うの…確かにサボさんとはよく話すけど」

無意識に、まるで縋るように、冷たくなった指先は彼の服の裾を掴んでいた。どうしよう。怒らせて、しまっただろうか。心音は不安を煽るようにドクドクと脈打つ。

「私とサボさんの仲がいいのはエースくんの話をしてるからで…!」

これは決して嘘ではない。サボさんと会話をする内容は業務上のことか、それを除けばほぼ全てエースくんに関係することだ。それを勝手に曲解して騒ぎ立てているのは周りの人間で。人のせいにしている、と言ったらそれまでだろう。確かにそうかもしれない…だからそのことは言えなかった。実際に勘繰られるような距離を取っていたこちらにも非はある。でも、それでも。
馬鹿みたいに必死だと心のどこかで別の私が笑っていた。だって仕方がないじゃない。自分でも驚くほど、私は彼に嫌われるのが怖くてたまらない。
名前を呼んでも絡まなかった視線がどこか辛くて、もう顔は見れなかった。代わりに彼の服の裾を掴んだ自分の手を虚ろに見つめる。エースくんからの返答を待つこの間がひどく重苦しく息が詰まりそうで、力の抜けていく手が掴んだ服の裾から離れようとした時、大きな手が覆い被さった。

「ごめん、からかいすぎた」

彼の声は優しいものだった。ゆっくりと視線を上げれば、こちらを向いて少し申し訳なさそうに眉を下げながらエースくんは微笑っていた。

「最初から疑ってねェし、怒ってもねェよ。まあ…かなり面白くねェなとは思ったけど」
「……」
「だから…そんな泣きそうな顔しないでくれ」

もう一度「ごめん」という言葉が落ちてきて、彼のもう片方の手が私の頬を撫でる。果たして自分が今どんな顔をしているのかはよく分からなかった。だけど心臓の冷える思いをして、怖くなって、不安に駆られたのは事実だからきっとエースくんが言う通りの顔をしていたのだろう。
上手く二の句が継げずにいる私にエースくんは小さく呻き声を上げながら頭をかいた。

「…っあー…あのさ、おれもうバイト上がる時間なんだけど」
「…?」
「その…一緒に帰り、ません?」

…なんで敬語?パチパチと瞬きを繰り返すと目を逸らされる。その表情は少し前とは打って変わってきまりが悪そうにしているから、ああきっと私があまりにも必死だったから責任を感じたのかな、と何となく察することができた。

「…ふふっ」

相変わらず優しいなあ。嫌われた訳じゃなくてよかった。そんなに私は必死に見えたのかな。そんな思いが入り混じってなんだかもうよく分からない。ただ一つ確実に言えるのは、胸の中に鎮座していた大きな不安はめっきり消え去ってしまったということ。
エースくんはすごいな、やっぱり、好きだな。
小さく笑う私に不思議そうな顔をする彼の手は未だに私の手を握っている。それが目に入ればあとはもうほとんど無意識だった。今思うと仕返しの意味もこもっていたのかもしれない。一方的に掴まれるような形だった手を解いて…そしてもう一度、こちらから指を絡めるように繋ぎ直した。

「…待ってるから、早く戻ってきてね?」

首を傾げて彼を見上げる。そうすれば呆けた様子のその顔が数秒の間を置いて、じわじわと赤く染まっていくものだから。それが嬉しくてたまらなくて。

「こ、の………あー!くそっ!」

すぐ戻る!悪態をつきながらそう吐き捨てるように言って立ち去る背中を今度は明確に笑い声をあげて見送った。


*****


「隙あり」
「わ!?」

ぴと、とうなじに触れた冷たいなにかに飛び跳ねる。勢いよく後ろを振り返れば悪戯に成功したことに満足したのか子供のように無邪気に笑うエースくんがいた。多分さっき触れたのは彼の指なんだろう。
先刻の「すぐ戻る」という宣言通り、あれから五分と経っていない。私服に着替えた彼から出てくる息はほんの少し上がっている。

「…急がなくてもよかったのに」

急がせた張本人が言う台詞では無いのかもしれないが思わずそう呟くと、だって、と非難がましい声音で彼は口を尖らせた。

「どっかの誰かさんが可愛くおねだりしてくるから急ぐだろ、普通」

どっかの誰かさん、の部分を強調するように言われてぐっと喉が詰まる。完全に自分が蒔いた種なのだが、改めて襲ってきた羞恥に視線を逸らすとエースくんはしてやったりという顔で笑った。ううう本当に自業自得なんだけど!いたたまれない!

「さ、帰ろーぜ」

そんな私を見て得意げに鼻を鳴らしたエースくんは上機嫌に歩き始める。流れるような動作で私の手を取りながら。

「…! エース、くん」
「…嫌なら放すけど」

前を見据えたまま言うその横顔は少し赤い。ああ、ほんとうにずるい。そう思わずにはいられなかった。
そうやって簡単そうに甘い言葉も仕草もやってのけると思えばふいに不安を滲ませたり、照れを見せつけてくる。想像よりずっと強かで殊勝な彼はきっと分かっているんだろう。私はそんなエースくんにひどく弱くて、これっぽっちも嫌だと思っていないことを。
そして同時に私も分かっている。この握られた手を握り返せば、

「───」

彼が甘い色を宿した瞳で微笑んでくれることを。
そんな私も、ずるい。

(…いや、)

確実に何倍も質が悪いだろう。
このままじゃ…いけない。繋がれた手を眺めながらそう思った。好きだと言葉にして、表情で訴えて、たまに距離を近づけて。だが彼は決して私に答えを強要したり催促することは無い。
甘えているな、と思う。
逃げて逃げて捕まって、それでもまだ逃げようとした結果一度ぐちゃぐちゃに跡形もなく壊された私たちの曖昧な関係性。もうどうにも出来ないと思ったけれど、なんとか修復されればそれは以前よりもずっとずっと甘さを帯びたものになった。きっと前と同じように捕まれば私はもう逃げられる自信が無いって思うくらい。

いつかおれのところに来てくれると嬉しい

それでも彼はその台詞だけを残して、ただ手を広げて待つ選択をしてくれた。
本当に、甘えている。私はもうその広げられた手のすぐ目の前に立っているのに。あと一歩なのだ。一歩…いや半歩でも踏み出せば。

私たちは、変わる。



飲食店が建ち並んだ大通りの繁華街から徐々にぽつぽつと広い間隔で置かれた街灯の明かりが灯るだけの通りに移る。辺りがアパートやマンションばかりになれば夜中であるこの時間帯はひどく静かだった。
とりとめのない会話を交わす私たちからは白い息が零れる。空気は凍てつくように冷たくて、鼻が少し痛くなりそうなほど。
そんな中でも握られた右手だけが、熱くて。

「ナマエちゃん」

気づけばもうお互いの家はすぐそこまで来ていた。
呼ばれた名前に隣の顔を見上げる。

(あ…)

目が合った瞬間、この後の台詞を悟った。
そう、彼はふとした拍子に告げてくる。二人きりになった時、他愛もない会話をしている時。今日はいつ言うんだろう。そんなことをどこか心の奥底で考えていた…というのが本音だったりする。
これまで何度も何度も同じものを向けられた。蕩けるように甘くて、それでいて奥には滾るような熱を宿した瞳。

「好きだ」

…そういえば初めて告白された時もここだったな、と頭の片隅で考えた。
どんな顔をすればいいのか分からなくて、なんで私なのって思うことしか出来なくて。彼ならたくさん相手を選べるはずなのにって思っていた。
それは…今でも正直考える。
だけどもし今本当に私以外の他の誰かを選んでしまうようなことがあれば、私はとても耐えられないだろう。笑って見送るなんて、絶対に出来ない。触れるのも、熱の篭った瞳を向けるのも、その言葉を告げるのも、私だけであって欲しい。これからの先もずっと。
私はその未来を望んでいる。

───怖い?

(いいや、)

そうじゃないように、他の誰でもないエースくんがしてくれた。

またいつか元彼の幻影をふと見ることがあるかもしれない。同い年くらいの女の子と一緒にいる彼を前にして馬鹿みたいに不安に駆られる時がくるかもしれない。だけどその度に彼は太陽のような温もりで全てを拭い去ってくれるだろう。
今ならそう確信できる。

「…うん」

口を噤んで、下を向く。顔が熱い。
いつも通りの愛想のない答え方だけれど、きっと彼はまた満ち足りたように微笑んでくれているんだろう。
でも、もうそれはやめにしようと思った。
「君もいとこなら何か言ってやってくれよ、素直になれって。あんなにサボさんといい感じなのに」そう主任がエースくんに言っていたのをふと思い出す。

(…素直、か)

確かにそうかもしれない。いい加減、素直になるべきだ。でもそれは主任が言う人のためでは無い。目の前にいるただ一人愛しいと思う彼のため。

俯いていた目線を上げる。やっぱりエースくんは優しい顔をして微笑っていた。僅かに口を開けば白く染まった息だけが靄のように空中を舞う。声を出すという行為がここまで難しいと思ったことは無いかもしれない。
ああ、彼は一体今までどういう気持ちでこの言葉を口にしていたんだろう。

繋いだ右手に力を込める。するとピクリと手が跳ねて、彼の口元がきゅっと微かに締まった。それを目にすれば温かい何かが胸の中に溢れて、不思議と肩の力が抜けた気がして。
自然と表情が緩むと、その言葉はすんなりと声になった。


「───私も、好きだよ」



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