ぴったりと密着した身体は尋常では無いほど熱い。断続的に合わされる口唇に徐々に頭は酸欠でぼうっとする。ちゅ、と控えめなリップ音が響いた後、酸素欲しさに無意識下で口を開けば鼻にかかった甘ったるい吐息が自分から出てきたことに羞恥で死んでしまいそうだと思った。
そこからするりと滑り込んできた生温かいソレ。ソレが何なのか理解するよりも早く、口内を侵すことを是としないと言わんばかりに容赦無くその侵入物に歯を立てていた。
ガリッとあまりよろしくない音と共に肉が裂ける感触。飛び退くように距離を取ったエースくんの熱に浮かされた瞳が徐々に意思を取り戻す様を見つめれば、目の淵に溜まっていた涙が零れ落ちた。

「…ナマエちゃ、」

我に返ったような震えた声で呼ばれると今度はこちらが混乱を極める番になる。
何度も吸われた唇、そして先程の反射的に歯を立てたアレがエースくんの舌だったということをちぐはぐな思考回路の中なんとか導き出せば、とてもその場に居座り続けることなど出来なかった。

「〜〜ッ!!」

いっそ清々しい程までに壊された私たちの最後の境界線。その事実を目の前に私は逃げ出したのだ。


*****


ガチャリと解錠の音がして開いた扉の先は外に比べれば断然暖かかった。

「入って」
「えっ」

ここまで腕を掴んだままだったエースくんの顔を見上げる。途中から猛烈な勢いで降り始めた雪によって白くなっている肩や髪の毛を適当に払ってやれば戸惑いが滲む背中を無理矢理その先に押し込んだ。
エースくんが居心地を悪そうにする気持ちはまあ分かる。連れてきたこの場所は私のマンションなのだから。

お邪魔します、と律儀に小さな声で言う彼をリビングに引っ張り込んでソファに座らせれば即座に寝室から取ってきた毛布を躊躇なく頭から被せた。

「うぉ!?」
「それ使ってて。飲み物用意してくるから」
「……ハイ」

大人しく従順に従うのはきっと私の顔が能面のようだからという自覚はあった。毛布を手繰り寄せて自分の身体を包む様子を見届けてからキッチンに向かう。ケトルに水を入れてセットすればそこで漸く少しだけ落ち着けたように肩から力が抜けた気がした。
能面のような表情になるのも無理もないだろう。呆れ驚き…ほんの僅かな歓喜。それらが混じりに混じって現在私の脳内はパンク寸前だ。



クライアントからの要請により修正作業に追われてしまい仕事が終わりそうにない、と同期に泣きつかれたのは退勤時間ギリギリのことだった。出来ればもっと早く言って欲しかったとそれにため息をつくことになるが、困り果てた様子の同期を無下にすることも出来ずに手伝う旨を伝える。それに私にとっては忙しい方が好都合だった。
エースくんからはあの一件から何度か連絡が来ているがまともに見ていない。見ないようにしている、と言った方が正しいだろうか。

きっと今、エースくんに会ってしまえば私は冷静でいられない。

そんな確信があった。私は未だにあの時の熱を引きずっていて、その証拠に唇を指先で触れるというなんとも笑えない癖が彼と会わないうちに出来ていた。それは頻度こそ高くないものの無意識に行われていて、ハッとなった時必ず思い出す。あの時触れた温もりや感触、求められるようにあてられたエースくんの熱の高さ。まるで、つい先程起こったかのように鮮明に。然すればこの身体は主人の言うことを聞かずに勝手に熱を燻らせる。
あの瞬間、衝撃さえとてつもないものだったが嫌悪感は無かった。むしろきっと私は、

(悦んで、た…?)

明確な答えは私にも分からない。でもそうだとすれば、なんと現金で浅ましいことか。
彼の想いを受け入れる勇気なんてこれっぽっちも無いくせに。そんな自分が死ぬほど嫌になった。



あれから数時間の残業を終えて同期から涙ながらのお礼を受けつつパソコンの電源を落とす。とは言ってもまだ多少片付けが残っていたので最後まで手伝おうとしたが、すぐに終わるから一人で大丈夫だと言い張られたためお言葉に甘えて一足先にオフィスを後にした。エレベーターに乗り込んだその中で今日一日すっかり存在を忘れていたスマホのロック画面を開けば、

「……えっ!?」

一番上に出てきた通知欄に思わず声が飛び出た。
『仕事終わりに迎えに行く』と書かれたメッセージアプリの通知。相手はエースくんで、あまりの衝撃に未読を貫いていたことも忘れてトーク画面を開いてしまった。ああやってしまった!でもそれより!トーク画面の一番下、送信時間をすぐに確認すれば時刻は今日の夕方。

「嘘でしょ…!」

今日は残業のせいでいつもよりかなり退勤時間が遅れている。事前に気づいていればこんな状況とはいえそれくらいは伝えたのに。そう思ってももう遅い。

(でも…さすがに帰ってるか)

画面上部の現在時刻を確認して、これだけ遅ければ諦めて帰っているだろうと息をついた。
エレベーターを降りて、会社の自動ドアを潜ればビュオ!と顔に吹き付けた肌を刺すような風に思わず顔を顰める。雪が降っていることに気づいて、そういえば今日はかなり寒いって朝ニュースで言ってたな、と思い直した。吐き出す息は真っ白になっており、なるほどこれは確かに寒い。この寒さなら彼も帰っているに違いないとマフラーをきつく結び直して帰路に着こうとした時、近くにあるベンチに人影が見えた。

…まさかと思った。そんなことがある訳ないと。だがゆっくりと近づくにつれ、それは私の知っている人物によく似ていて。

「───エース、くん?」

名前を口にした瞬間、弾けるように上げられた顔。

「ナマエちゃ、」
「な、んで…!なんでここにいるの!」

ほとんど反射的に彼の言葉も遮ってそんなことを口走っていた。慌てて駆け寄れば、その顔色は見たことないくらいに白くて血の気が無くて。思わず手で頬に触れてみれば氷かと思う程の冷たさに目を見開く。擦り寄るように彼が身じろぐと共に手を握られたが、その彼の手も血が通ってないんじゃないかと思うくらいに冷えていた。

「エースくん一体いつから…!」

本当にいつから。極寒の中、こんなに冷えるまで待っていたというのか。

「へへ、ごめん…でも会いたかったから」

ただ、彼はそう微笑う。色の失くした顔でいつもよりずっと弱々しく。言いたいことはたくさんあった。何を考えている、とか身体を壊したらどうする、とか。でもそれらを口にしてもきっと彼は「会いたかったから」と同じように微笑うのだろう。分かっている。いつだってこっちの予想の数段飛ばしで彼はやって来る。私の家の窓を叩いた時からそうだった。ちょっとのことで踏みとどまってしまう私なんてお構いなしと言わんばかりに。
分かっている。そんな彼だからこそ私はこんなにも惹かれていることも。


*****


ジンジャーの独特の香りとレモンの爽やかな香りが辺りで溶け合って飽和する。湯気の立ち上がるマグカップにとろみのある黄金色の液体を足すと、毛布に包まったエースくんにそれを手渡した。

「味は保証出来ないけど」

冷えにとてもいいのだと私も同期から教わったばかりで数回しか作ったことのないハニージンジャーレモンティー。味に自信はあまり無いけれど、彼の身体の冷え具合を見ればそんなことも言ってられなくて。ここに来た時エースくんは戸惑っていた様子だったが、私だってわざわざ家に連れて来るのは気が引けた。こんな、自分で自分の首を絞めるような真似。彼の隣、出来るだけ距離を置いてソファの端に腰掛けた。

「ナマエちゃん、ありがとな」

うまいよ、と柔く微笑むエースくんにどんな顔をすればいいのか分からない。目を合わせないように正面を向いて俯くが、能面のように貼り付けていた表情も限界がきているのを感じてやっぱり顔を合わせるべきじゃなかったと後悔した。

「…それ、飲んだらもう帰って」

思った以上に声が揺れる。急かすような口調と声音になったのは申し訳ないと心の片隅で思うがそれよりもとにかく今は逃げ道が欲しかった。
どうか、少しでも早く。取り繕ったものが全て剥がれ落ちてしまう前に。
すると不意に手に触れた人肌に大袈裟に肩が跳ねた。それは外で感じたものより温もりがあったが、私が知っているものに比べたら未だにずっと冷たい。

「ごめん」

静まった水面に一滴の雫を落とすような、そんな呟きだった。触れていただけのものにゆっくり指が絡んでくると堪らず引こうとした手は込められた力に引き止められる。それに反射的に顔を上げたことを私は心底後悔した。思い詰めたように眉根を寄せるエースくんのその瞳の奥、確かに潜んだとろりと蕩けるような甘さと熱量。それを認めた瞬間脳髄に痺れが走るようだった。ああ、これ以上はよくない。私の本能がそう囁く。

「今日は、帰って」
「ナマエちゃん…」
「お願いだから…!」

ふるりと口元が震える。懇願じみた言葉はひどく潤んでいた。

「…好きだ」
「っ…や、だ」
「好き、ナマエちゃん、好きなんだ」
「〜〜ッ」

それでも彼はどうしても逃げ場をくれなくて。あまつさえ着実に私を追い詰めてくる。あまりにもひどい。
頭の中はとっくに許容量を超えていて、鼻の奥がツンとする。処理しきれない情緒が涙となって溢れ出る予感がした。
もう、やめて、

「これ以上泣きたくないの…!」

ベリベリと貼り付けていた能面が剥がれ落ちる。蹲るように深く深く項垂れて膝に額を擦り付けた。
誰かを想えば想う程失うのが怖い、取られるのが怖い、裏切られるのが怖い。だからもう二度と人を好きにならないと誓った。誰かを愛せば人は強くなると世は言うけれど、そんなの嘘だ。私は強くなんてなれない。むしろずっといつか来る別れに怯え続けて、心を掻きむしられて、どんどん弱くなるばかり。
だって今がそうじゃないか。こんなにも簡単に乱されて、私の頬は涙で濡れていて。彼に出会うまでそんなことは無かった。なんと滑稽で、みっともないことか。

「泣けばいい」
「…!」
「ナマエちゃんいつもそうだ。もっとちゃんと泣いてくれ、我慢なんかすんな。じゃないと、」

おれも、苦しい。
絞り出すような声だった。

「…ッ」

どうして。蹲ったまま、息を詰めて何度もかぶりを振る。
もう、二度と、人を好きにならない。そう誓った。それなのに、それなのに。
こんな私の何もかもを覆した彼はとても私が傍にいていいような人間じゃなくて。情に厚く、自分にも他人にもいつだって真っ直ぐである彼は心も身体も廃れた私にはあまりにも眩い。
好いている。愛おしいと思う。何度も告げられる「好きだ」という台詞にただ一言「私も」と返せたのならどれだけ幸せだろう。でも、それが出来ない。エースくんの傍にいてしまえば、きっとこれから何度も私の中に巣食うあの男の幻影が顔を出す。その度にあんな人間と付き合っていた過去の自分に死にたくなって、引け目を感じて、そうして彼の周りにいる女の子に不安を覚える。それがずっと続くのだ。そんなのとても、耐えられない。

「私じゃ…っ、駄目なの」
「…なんで」
「わた、しは」
「汚い≠チて、また言うつもりか」

核心を突かれて呼吸が止まった。
肩を掴まれると深く前に倒していた上半身を起こされる。そして向かいあったエースくんの顔は今にも泣きそうなほど悲痛に歪められていた。

「誰かに…そう言われたのか?あの野郎か?」

哀しみを堪えるような声。それに怠慢な動きで首を横に振った。

「じゃあなんで…っ」
「……嫌いなの」

そう、ずっと嫌いだった。何も知らずに純情に付け込まれていいようにされた馬鹿な自分が。適当に与えられた一時の仮初の愛に溺れて盲目になっていた憐れな自分が。そして、未だにこうして何年前もの出来事に縛り付けられて動けずにいる臆病な自分が。
綺麗なエースくんを前にすると殊更に思うのだ。こんな醜くて、汚い、

「私は私がいちばん、」
「それでもおれは好きだ」

嫌いだ。いっそのこと消えてしまいたいと思うくらい。そんな声をかき消したのは他でもない目の前の彼だった。

「確かにおれはあの男といた時のナマエちゃんを知らねェ。でも今ここにいるナマエちゃんだからおれは好きになったんだ」

頬に両手を添えられて目線を合わされる。凛然とした眼差しが私を射抜いていた。

「その過去も全部ひっくるめて今のナマエちゃんなんだろ?」
「───、」
「なんも難しいことなんてねェ。好きだよ、全部」

優しく濡れた両頬を拭うように滑る指はいつの間にか私の知っている体温を取り戻していて。決してそんなことがあるわけないと分かっているのに、その温もりに触れられた所から溶けていってしまいそうだと思ってしまった。

「だから自分のことそんなに言うなよ」
「えーす、くん」
「好きだ。これからもずっと、一生」

そうしてこれ以上に無いって程の愛しさを携えた瞳を細めて優しく唄うように囁く。それが鼓膜を揺らしてじんわりと水で紙が滲んでいくかのように心へと染み渡れば、ひゅ、と喉が音を鳴らした。
ぼろぼろと雫がソファへと零れ落ちる。
もう嗚咽を殺すことさえもできなかった。

「そ、んなことっ、なん、で、言い切れるの」
「じゃあ逆にいつか好きじゃなくなるって言い切れんのか」
「っそれは、」
「自分が汚いから、って言ったら怒るぞ」

被せるように放たれた言葉は本気のそれだった。少しだけピリつく空気と視線に思わず閉口する。それに、ふ、と吐息を零して、

「ただ、おれがそう思うからだよ」

エースくんは微笑んだ。燦々と降りしきる真夏の太陽のようなそれじゃなく、春の麗らかさを纏った陽だまりのように穏やかに。一生だなんて、そんなのは途方もない夢物語だと、馬鹿馬鹿しいときっと以前の私ならせせら笑っていただろう。それなのに彼が言うなら、エースくんが言ってくれるのなら。本当にそうなんじゃないかって、突拍子もない希望を抱いてしまえそうになるからやっぱり彼は不思議で。
ずっとずっと雁字搦めに私を縛り付けたまま根を張っていた闇が焼き尽くされて、随分と久しぶりに日向の下へ出てこれた気持ちになった。眩しさに目を細めると、太陽はまたゆったりと嫋やかに微笑む。

「それでもまだ不安だったりあの男が頭ん中過ぎるなら、そんなモンおれが絶対に忘れさせてやるって誓う」
「…、」
「今すぐじゃなくてもいい。でも頑張るからさ。いつか、おれのところに来てくれると嬉しい」
「…ッ、う…ん…!」

気づけば自然と、でも確かな意思を持って絞り出すように私は頷いていた。エースくんはそれに瞳を細めて眩しい笑顔を零す。

「あと、一つだけ覚悟しておいて欲しいんだ」
「……かく、ご」

思わずオウム返しに呟いた私にそうだとエースくんは頷いた。

「おれのところに来てくれたら、もう腹いっぱい!勘弁してくれ!ってくらい大事にする。でもおれ結構嫉妬深ェし、一度手に入れたモンは死んでも離さねェ。嫌だと泣きつかれても絶対にな」

だから。
コツン、と額同士が合わされる。眼前いっぱいにある彼の笑顔は少し悪戯っ子のように無邪気で。でも空気を震わせた声色は一等、甘かった。

「うんと愛される覚悟、しといて」

ああ、本当になんと、もったいないのだろう。
世間一般にはそんなことを覚悟だなんて言わないだろうに。キラキラと輝く宝石のように美しくて、尊くて、温かな彼の気持ち。いつまでも闇に囚われて後ろを振り返ってばかりいた私にはどうしてももったいなくて。
泣いてばかりでもはや嗚咽しか返せない私にエースくんはまたクスリと笑みを零して優しく身体を引き寄せた。

「ナマエちゃん泣き虫だなあ」
「っえ゙ーすぐんが、泣かせた…!」
「はは、そうだな」

こんなにも感情を露わに泣きじゃくったのはそれこそいつぶりだろう。酷い声だし、本当、恥ずかしくてみっともない。なのに私の頭や背中を撫でるエースくんはどうにも嬉しそうにするものだから、そんな羞恥も小さく萎んで消え失せてしまった。
時折子供をあやすようにぽんぽんと叩かれる。そうされるともういいのかなって、彼ならどんな私も好きだって言ってくれるかなって蟠った力が抜けていって擦り寄るように彼に身体を預けた。ピクリと少しだけ跳ねた掌は一瞬逡巡すると、ぎゅうっと私の身体を包み込む。その圧迫感と近くなった体温が心地よくて、そっと瞳を閉じた。

「好きだ、ナマエちゃん」
「…うん」

ここで「私も」と返せればいいのだけれど、それはまだもう少しだけ。
でもきっとそう遠くない未来に、たくさんの幸せに満ちた気持ちで言えるんだろうって、そんな予感がしてる。


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