声が、聞こえる。

「おー!ナマエ復活したか!」

誰だろう、たくさんの人たちが私の周りを囲んでいる。みんなの顔は不思議と見えない。けれど何だか懐かしいような、心が安らぐような…

「手厚い──の看病は受けれたかい?」

え、誰?名前が聞こえない。

「ナマエが熱出したって分かった瞬間の──の慌てっぷりったらよ!プククク」
「おい!笑うんじゃねェ!」
「ナマエが死ぬ死ぬってうるさかったよい」

今熱出してるの私じゃなくてエースくんなのに…ていうか熱出したら死ぬってそれこそエースくんみたいなこと言ってるな。そもそも騒がしいこの空間で私は一体何を喋っているんだろう。己の声は何も聞こえないし、この心の声が表に出てきている訳でもない。そもそも名前こそ同じだけれど夢の中の私は本当に私なのだろうか。

「仕方ねーだろ、心配だったんだから」

引き寄せられて肩を抱かれる。頭をそのまま撫でられて、否応なしに顔に熱が刺した。でも不思議と感じるのは既知感。あれ、この温もり…私、知ってる。

「な、ナマエ」

囁かれた名前は一等甘くて染みるように鼓膜を揺らした。



「────」

ぼんやりとした視界に微睡む思考。さっきまでのは夢だったということを理解するのに多少の時間を要した。いつの間にか眠っていたのか、伏せていた頭を起こせばこちらを窺う双眼の存在に気づく。あれ、私、何して…時間が経つにつれて霧が晴れていくように澱んでいた回路が拓かれていって、

「エースくん!」
「お、おう!?」

いの一番に飛び出たのは目の前の彼の名前だった。
びくりと肩を揺らした彼の額に手を当てる。反対の手で自分の額と熱を比べるがいまいちよく分からかったので近くに放っていた体温計に手を伸ばした。そういえば今何時!?壁に掛けてある時計に目をやれば、すでに夕刻を指していて一気に私を焦燥が襲う。やばい寝すぎた!

「エースくん大丈夫?具合はどう?」
「えっと…だ、いじょうぶ…」

しどろもどろになる彼から体温計の音がする。数字を確認すれば37度5分を表示していて、そこで漸くゆっくりと息を着いた。まだ熱はあるけどちゃんと下がってる。顔色もだいぶ良くなってるみたいだし、もうすぐ良くなるだろう。

「朝より熱下がってるよ」

ほら、と体温計を見せてあげれば、エースくん本人も安心したように息を着いた。あれだけ死ぬと連呼していただけ安心もひとしおだろう。

「ありがとな、ナマエちゃん」

ふにゃり、と普段の快活に笑う笑顔とは似ても似つかない笑顔に不意打ちを食らったのは言うまでもない。じわりと顔が火照ったのは気のせいだ。ほら、きっと私にも多少熱が移ったとかそんなやつに決まっている。
とりあえず晩ご飯の支度をしよう。何だかんだで高熱に魘されてた時も彼はしっかりご飯だけは食べていたし、その食い意地には感服すること他なかったが、回復力の強さはそのおかげでもあるのだろう。「どういたしまして」と彼のお礼にはおざなりに返答をして、キッチンに向かおうと立ち上がると玄関からガチャガチャと解錠の音が聞こえた。

「あ、サボさんかも」
「サボ?」
「うん。連絡したらお昼にも来てくれたんだけど、仕事終わったらまた来るって言ってたから」
「………」

え、なんでそんな顔してるの。
怪訝に眉を顰める彼を不思議に思っているうちに玄関は開かれて、私の予想通りその人物は部屋に入ってきた。

「エース!」

お昼と全く同じテンションで飛び込んできた彼を今度は冷静に出迎える。違いと言えば懐にある電話が鳴ってないことだろう。会社の人たちは大丈夫だっただろうか。

「大丈夫です、さっき測ったら熱も随分下がってました。ね、エースくん」
「本当かエース!」
「おう」
「よかった…ナマエさんありがとうこざいます。今度また改めてお礼を」
「ふふ、いいですよそんなの。それより今からお夕飯作ろうと思うんですけど、サボさんも一緒にいかがですか?」
「それならおれが作ります。ナマエさんはゆっくりしててください」

ジャケットを脱いでシャツを捲るサボさんがキッチンに向かう。それは申し訳ないと思い、私も後を追いかけようとすれば不意に後ろに重心が傾いた。え、と思った時には背後から腕が回ってきて肩を抱きすくめられていて。目の前にはキッチンに向かっていたはずのサボさんが目を見開いてこちらを振り返っている。
この状況、こんなことができるのは一人しかいない。

「っ、エースくん…!?」

回された腕を引っ張るが強固としてそれは動かない。むしろ先程より力が込められて、もう片方の腕がお腹の方に回ってくれば余計に身体が密着した。
背中越しの彼の身体は前より熱が下がったとはいえ未だに熱い。ついさっきまで寝たきりだった身体を急に起こしたせいか、少し呼吸を乱した彼の吐息が後ろから耳にかかった。その瞬間フラッシュバックするのは、先刻寝ぼけた様子のエースくんに抱き着かれた出来事。

『ナマエ』

その声はほんの少し頭の中を掠めただけなのに、即効性の毒のようにみるみるうちに私の思考を埋め尽くした。頭が茹でったように熱くなって、呼吸が浅くなる。バクバクと胸を叩く心音が煩い。サボさんが目の前にいる、という事実が余計にその羞恥を煽った。か細い声で彼の名前を何度も呼ぶのに一向に本人はその腕を緩めてくれなくて。なんで、どうして、混乱を極めた私はいよいよ訳が分からなくなって目元が滲む。
すると目の前にいたサボさんが、フッと小さく笑った。

「そんな警戒するなよ。分かってるだろ、おれはお前を応援してるって」

手を伸ばした先、エースくんの頭を軽く小突けば程なくして抱きすくめられていた腕の力が緩んだ。
サボさんは脱ぎ捨ててあったはずのジャケットをもう一度拾って、ついでに荷物も纏めて持つと部屋の出口に向かう。

「すみません、やっぱり今日はおれ帰ります」
「……えっ!?」
「怒られてしまったので。な、エース」

ピクリと回っている腕が跳ねる。サボさんは何も答えないエースくんを一瞥して困ったように笑うと訪ねてきた時とは打って変わってひどく静かに家を出ていってしまった。
見送りもできずにパタン、と玄関の扉が閉まる音だけを聞き届ければ、背後にいたエースくんはその場に力が抜けたように座り込んだ。

「…っ、クソ」
「……エースくん?」
「いつから?」
「え…」
「っだから!いつからサボと繋がってたんだよ!」

エースくんが言っている意味を噛み砕いて理解する。
そうか、彼は気づいたのか。私がサボさんから直接自分のことを頼まれていると言ったこと、間違えて私に電話をしたせいで連絡の取れていなかったはずのサボさんが眠っているうちに当たり前のようにここに来たこと。エースくんからすれば私とサボさんは自分がいるところで一度顔を合わせただけの関係なはずなのに、いつの間にか連絡を取り合える間柄になっていたことを。

「えっと…ごめん」
「……」
「実は私の会社の取引先にサボさんの会社がいるの。初めて会った日の後に気づいたんだけど…それで仕事で何回か会ってて」
「……んだよそれ…初耳だぞ…」

弱々しくエースくんが私の手を握る。顔を覗き込めばひどくバツの悪そうなそれと目が合った。

「サボのやつ、おれがナマエちゃんのこと好きなの知ってんのにって」
「うん」
「…一瞬、疑っちまった」
「…うん」
「クソ…まじでダセェ」

深く項垂れたエースくんの旋毛をじっと見つめる。覗く耳が真っ赤になっているのに気づいて、じわじわと顔が熱くなるのは仕方のないことだろう。だってその口ぶりじゃまるで…
そこではたと気づいた。サボさんの怒られる≠ニいう台詞の意味に。初めて二人で会った時にサボさんは言っていた。エースくんに怒られるから自分と会ったことは内緒にして欲しいと。そして先程怒られてしまったと出ていった。…それじゃ、それじゃつまり、

「…!」

私はてっきりサボさん…大事なお兄さんと二人で過ごす自分が怒られると思っていたのに。
実際にエースくんから怒られたというのはサボさんで…恐らくその理由は彼の嫉妬心からくるもの。サボさんはそれを見越していたのだ。
とんでもない曲解をしていた自分に驚くが、それよりも衝撃なのは彼がヤキモチを妬いていたという事実で。

「かわいい…」

それはもうぽろっと口をついて出てきてしまっていた。

「はっ…!?」
「ごめん…つい」
「〜〜ッ!笑うな!」

不服を訴える彼の姿も今の私には毛を逆立てた子猫の威嚇にしか見えなくてますます口角が上がってしまう。それは決して面白いとかそういうものから来ているわけでは無くて。
ああ、ほんと、毒されてるなあ。
長い間虚無感に打ちひしがれていた心の中が温かいもので満たされていく感覚がする。好かれてる。どうしようもない嫉妬を大事な兄弟にしてしまったくらいに。それが嬉しく感じてしまうなんて、私も大概だ。

「お腹空いたでしょ?ご飯作るから待ってて」
「うるせェ!」

ヤキモチをからかわれたという方向に受け取った模様のエースくんは完全にへそを曲げてしまったのか、乱暴に一言言い放ってそっぽを向いてしまった。それでも握られた手はそのままだから全然怖くない。
これは困ったな、と思いはしたが、ここはひとつお詫びも兼ねてご褒美を用意してみようか。

「エースくん、私まだ隠してたことがあって」

これがご褒美になるかは分からないけれど。
一方的に握られていた手を握り返す。分かりやすく彼の手が跳ねて、顔がこちらを向いた。

「怒らないで聞いて欲しいんだけどね」
「…?」
「サボさんとは何回か食事にも行ってるの。二人で」
「は……ハァアッ!?!?」

おーすごいリアクション。声を張り上げたためか咳き込む彼の背中をさする。

「ふざけんな、そんなん聞いてねェ…!」
「うん。だからね」
「ア!?」
「エースくんの風邪が治ったら一緒にご飯行きたいなって思って」

もちろん二人で。その言葉は忘れずに付け足した。
ポカン、と呆けた顔のエースくんを黙って見つめる。するとじわじわとその顔を赤らめていくものだから、これはもしかすると本当にご褒美として成立するかもしれない。最後の駄目押しだともう一度強く手を握ってこてんと首を傾げる。イメージはうちの会社のあの可愛い後輩社員。慣れないことをするものだから照れが入るのはご愛嬌だ。

「……ダメかな?」
「〜ッ!ぜってェ治す!つーか治った!」
「それは嘘でしょ」

あまりにも単純で素直な彼には笑うしかない。
ちなみにこの時は治ったと言い張るエースくんだったが、本当にみるみるうちに熱は下がっていき翌日には完璧に全快してみせたのでその回復力の高さに私は舌を巻くこととなる。


*****


「よく食べるねえ」
「んぁ?」

あの約束通り復活したエースくんと来たとある焼肉屋で、目の前に座る彼の食べっぷりに感嘆が漏れた。一応まだ病み上がりなはずなのに焼肉って、と思ったけれど彼に普通の人の常識は当てはまらないのだろう。お肉とお米を一気にかきこんでいる様がリスみたいで思わず笑ってしまう。
うーんやっぱりエースくんと来ると姉と弟という感じがするな、なんて思ったけれどそんなことを言ったらまた彼がへそを曲げてしまいそうなので口にしたお肉と一緒に飲み込んだ。
彼のおかげでみるみるうちにお肉が減っていくので、そろそろ追加で頼もうとメニュー表に目を通せばふいに目が留まったのはアルコールメニュー。

「ナマエちゃん飲むのか?」
「……いや…止めときます」

少し迷った。迷ったけれど目の前に座る彼の顔を見たら飲む気には到底なれなかった。否応なしにフラッシュバックするのは押し倒されたことやあの時の醜態で。いい大人が酔って他人の家で爆睡などあれはどう考えても目に余るものがある。エースくんにも十分すぎるお咎めを受けたし。別に一杯や二杯程度でべろべろになったりはしないが、しばらくは戒めとして受け取った方がいいに決まっている。

「まあ、おれとしては襲う口実ができそうだからいいけど」

ガッシャン。私の手からアルコールメニューを抜き取ったエースくんから涼しい顔で落とされた爆弾にトングが手から滑り落ちて騒がしい音を立てた。
してやったりとメニュー表の向こうから笑みを浮かべるエースくんに苦虫を噛み潰したような表情をすることとなるが、こればかりは言い返す言葉が無くて項垂れる他ない。なんか彼の意地悪さに拍車が掛かってる気がするのは思い違いなのだろうか。もしかして結構根に持たれてる?
気まずさに身を縮こませていると、店員さんが落としたトングを取り替えに来てくれたので、そのタイミングで追加のお肉をエースくんが頼んでいた。

「ナマエちゃん酒頼まねーの?」
「タノミマセン」
「じゃあおれが頼もっと」

生一つで、と大量のオーダーを頼んだ最後にいい笑顔を店員さんに振りまく。そんな彼を視界の端に追いやって私は最後の一枚のお肉を口の中に放り込んだ。




「なんで勝手に払ったんだよ」
「まあまあ」

お店を出てから、後ろでむくれる彼をいなしつつ夜道を歩いていく。お互いにお腹が満たされた頃合でエースくんがトイレに立った隙に私が会計を済ませたのだが、それを知った彼が大層機嫌を損ねてしまってそれ以来ずっとこの調子だ。

「お世話になってるしそのお礼だと思ってよ」
「世話になったのはおれだろ」
「でもそれより前にお世話になったのは私だよ」

ね?と後ろを振り返れば、着いてくる彼は未だに納得がいかないように眉間に皺を寄せて唸り声を上げる。その様子に律儀だなあと眉を下げるしかなくて、両手を顔の横まで上げて降参のポーズを取った。

「分かった分かった。じゃあ今度はエースくんにご馳走になろうかな」
「!」
「誘ってくれる?」
「……! おう!」

不機嫌そうな表情が打って変わってパッと光が灯ったように見せる笑顔が眩しい。
隣に駆け寄ってきたエースくんは嬉しそうに、へへ、と白い歯を見せた。その頬はほんのり赤みを帯びていて熱に浮かされたように瞳も蕩けていて、続いたナマエちゃん、と呼んでみせた声音も甘えたのそれで。

「もしかしてエースくん酔ってるの?」

それらに不覚にも多少どきりとさせられたが、この状態の彼には見覚えがあった。ハーゲンダッツを貰いに行った時…あの時もビールを飲んだエースくんは今の同じように柔らかく笑ってとろんと目尻を下げていたのだ。それこそ酔っ払った風に。今日も確かに三杯くらいはジョッキを空けていたからアルコールの影響だと片付けることはできるけれど。

「…そうだって言ったら、介抱してくれる?」
「……してもいいけど」
「じゃあ酔ってる」

含み笑いを深める表情から真意は分からない。だからつい頭を掠めたあの人の発言を口に出してしまったのだ。

「でもエースくんはザルだって聞いたんだけどな」

ピタッとエースくんの動きが止まる。
あ、これもしかして…。意地悪をするつもりは全く無かったのだが、それを図星と受け取った私は自然とにんまり笑っていた。

「ほら私とサボさんって、繋がってるから」
「〜〜〜サボォ!!」
「あはは!」

自分の兄からリークされているのを悟った彼についに堪えきれなくなって声を出して笑ってしまった。
そっか、わざとなのか。行き着いた答えから、性格に似合わず殊勝なことをしていた彼がいじらしくて表情が緩むのは仕方の無いことだろう。

「クッソォ…」

そんな私を見てエースくんは決まりの悪そうに首の後ろをかく。耳が赤いのはきっとアルコールのせいでは無いのだろう。

「あ、そういえば」
「?」
「エースくんのこと看病してる時にサボさんから「エースから告白されたんですよね?」って聞かれたんだけど」
「…!」
「その…サボさんにどのくらい私のこと話してるの?」

この質問は何か特別な意図があって聞いたものでは無かった。ただ、これからもサボさんとは仕事上顔を合わせることがそれなりにあるのでエースくんからどの程度私の話を聞いているのかを知っておきたかっただけで。
するとエースくんが立ち止まるので、それに私も釣られて立ち止まる。俯き加減の顔をそろりと覗き込めば、心做しか先程よりも顔が赤いような気がした。

「…エースくん?」
「〜ッ言わねェ!」
「え!?なんで!?」
「聞くな!」

急に早歩きで歩き始めた彼の後を追いかける。後ろから見たエースくんは月明かりの下でも分かるくらい首まで真っ赤に染めていて、私には訳が分からない。
そんなに照れるところなのかな…もしかして、

「なんか私のこと変に吹き込んでるの?」
「バッ…!違ェよ!」

じゃあなんで教えてくれないの、と口を尖らせても結局エースくんは教えてくれなかったので、後日サボさんに電話で尋ねてみることにした。

『はははっ』
「なんで笑ってるんですか」
『うーん…まあ男同士の会話なんてそんなモンですよ』
「……?」

なんかまたすごく楽しそうにしてるなとは思う。結局サボさんからの返答もしっくりこなくて私はますます訳が分からなくなるばかりだった。


*****


『どうしようサボ、ナマエちゃんのスーツ姿がエロくて困る』
『…思うのは自由だが襲うなよ』
『………』
『おい…まさか時すでに遅しってヤツなのか』
『だー!未遂!未遂です!!』


「……さすがにナマエさんの貞操が心配だとは言えねェしなァ」

いつか兄弟と交わした会話を思い浮かべながら切れた電話の先でサボがそう独りごちたことは、もちろんナマエの与り知るところではない。


← →

×