身体が重い、頭と節々が痛い。息が、苦しい。

「マルコ、ナマエは大丈夫なのか!?」
「ただの風邪だよい、心配ねェ」
「ナマエー!死ぬなー!」
「エースうっさい!」

突然張り上げた声に喉が悲鳴を上げて咳が出る。
それにもエースはオロオロして慌てふためくものだからこめかみがひくついた。しっかりしろよ二番隊隊長。

「ただの風邪だってマルコさんも言ってるでしょ、こんなんじゃ別に死な…」

焼き切れそうな喉を酷使して話すうちに視界が霞んでいく。あれ、これもしかして結構やばいかもしれない…?エースの慌てる声とマルコさんの呼ぶ声がどんどん遠くなる。 ああ、元はと言えば医療班としてみんなの健康を預かる身でありながら私が風邪なんて引くから…。そう傍らで思いながらブラックアウトしていく視界に身を任せて私は意識を手放した。



「──ん…」

ふわりと浮上した意識、視界には見慣れた医療室の天井が映っている。
あれからどうなったのか記憶が無いが、身体の怠さは相変わらずなものの頭痛は随分と良くなっている。おおよそマルコさんが治療を施してくれたのだろう。そのことにホッと息をつけば、右手を包む体温に気づいた。目線をそちらに移すとそこにいたのは、

「…エース」

私の手をしっかり握って彼がベッドに突っ伏していた。肩は規則正しく上下しているのでどうやら眠っているらしい。周りを見渡してもマルコさんの姿は無かった。意識を飛ばす前、ナマエ死ぬなー!と血相を変えて言ってきた彼の顔を思い出してクスリ、と笑みが零れる。普段全く体調を崩さない彼は加減が分からないらしく、それが殊更おかしくて笑いが止まらなかった。実際あの後すぐに意識を飛ばしてしまったからきっと余計に心配をさせてしまっただろう。後で謝らなくては。

「好き、だなぁ」

普段はすぐに無茶して怪我してくるエースを心配して叱るのが私なのに。風邪くらいでまさかあんなに大慌てになるとは思わず、不謹慎ながらも嬉しく思ってしまった自分もいて。じわじわと無性に愛しさが込み上げてきてたまらずこっそりと口に出すと、後に遅れて襲ってきた照れのせいで熱とは関係無しに顔が熱くなった。ああ、もう一度寝てしまおうと目を閉じた時、

「ナマエ」

甘く蕩けるような声。鼓膜を揺らしたそれに思わず目を見開けば、眼前にはエースの顔。掠めるように触れた唇の感触に呆然とすれば、こちらを見るエースの顔は意地悪く笑っていて。

「おれも、好き」

それでいてとても幸せそうに、嬉しそうに言うものだから、その時の私は怒る気にもなれなかったのだ。


*****


秋も深まってきたのかすっかり肌寒くなった頃。それは朝の出勤前に掛かってきた一本の電話から始まった。

「もしもし、エースくん?」
『……………ッ、サ…ボ』

画面に表示されたエース≠フ文字に、こんな早くからどうしたのかと不思議に思いながら電話に出てみると、呼ばれた自分とは異なる名前に疑問符を浮かべる。最初は寝ぼけて間違えて掛けたのかと思ったのだが、その後に聞こえてきた苦しそうな呻き声と荒い呼吸音に心臓が嫌な音を立てた。

「エースくん?エースくん聞こえる!?」
『………ハ、ァ…ッ』

まともに返ってこない返答にいよいよ顔が青ざめる。自宅を飛び出して向かうのは隣の彼のアパートで、扉の前に来てすぐに何度か大きくノックをした。

「エースくん!ここにいるの!?」

呼びかけてみても一向に開く気配は無い。インターホンを鳴らしても応答なし。どうしたものかとドアノブを回した時に、施錠がされていなかったのか扉が開いた。不用心だと咎めたい気もしなくは無いがこの際どうでもいい。勝手に入ることを心の中で謝罪しつつ、お邪魔しますと声を掛けながら室内に入った。
何度か入ったことのある彼の家。迷うことなく部屋へと繋がる扉を開けば飛び込んできた光景に心底驚いた。

「エースくん!」

ベッドの上、彼の身体は上半身が投げ出されてぐったりとしていた。手からは先ほどまで私と繋がっていたであろうスマホが転がり落ちている。
慌てて彼に駆け寄れば荒い呼吸を繰り返していいて、何とかして上半身を起こそうと彼に触れた瞬間にすぐその異変に気づいた。

「! すごい熱…!」

燃えるように熱い身体は、確かにその身に異常事態が起こっていることを知らせていた。



「むしろ取って欲しかった」と電話口から穏やかな口調で話す自社の部長に、ありがとうございます、とお礼を言って電話を切る。
さすがにあんな状態のエースくんを放っておく訳にも行かず、突然で申し訳ないと思いながら有休を取ろうと電話をすれば咎められるどころか取ることを勧められるほど寛容な対応をされたことに感謝しながら安堵のため息を吐いた。

「エースくん」

依然として荒い呼吸を繰り返す彼の元へ戻って声をかけるが特に反応は無い。インフルの季節にはまだ早いからきっとただの風邪なのだろうけど…。部屋をぐるりと見渡す。脱ぎ散らかされた洋服、机の上には大学関係と思しき書類の数々…この前の飲み直した日はほとんど寝ていたため記憶が乏しいが(というかそれどころじゃなかった)、ハーゲンダッツを貰った時にお邪魔した時に比べれば多少乱雑な印象を受ける。やはりあの時はちゃんと気を遣って片づけていてくれたのかと、彼のいじらしさに少し笑みが零れた。

「……っ、う」
「!」

微かな呻き声が聞こえて彼の顔を覗き込む。細く開かれた瞳に私が映ると、力なく彼は笑った。

「あれ…ナマエちゃん…?」
「エースくん大丈夫…じゃないか」
「……へへ、おれ、死ぬのかな…ナマエちゃんの幻覚まで、見える、ようになった…」

こりゃだめだすごく弱気になってる。

「サボは…?」
「エースくんがサボさんと間違えて私に電話してきたんだよ」
「…………まじか」

ゆっくりと言い聞かせるように伝えれば、熱に浮かされて鈍くなった思考でも届いたのか、しばらくして彼は眉を寄せるのを隠すように手の甲で目元を覆ってしまった。

「ごめん…ナマエちゃん仕事は」
「有休取ったから大丈夫。元々取れって言われてたから気にしなくていいよ」

じわりと滲む額の汗をハンカチで拭ってあげる。すると手が外れて、居心地の悪そうな目をした彼と視線が絡んだ。

「わ、ちょっと起き上がらなくていいから」
「おれなら、大丈夫…だ」
「大丈夫じゃないでしょ、こんな熱出して」
「だけどナマエちゃんに迷惑なんて、かけらんねェよ」

迷惑?弱々しく吐かれたその言葉に少しカチンときた。いや、理不尽なのは分かってる。だけれど私だって元彼の件をはじめとして散々エースくんにお世話になってるのだ。迷惑をかけている度合いでいったら悲しいことに完全に私の方が上回っている。なのにいざ自分が迷惑をかける側になったらそんなに拒否をするのか。非常に納得がいかない。私には病人の世話もさせてもらえないと?

「……ふざけるな」
「…え?」
「ふざけるなって言ってんの。そんなフラフラの状態で一人でどうするつもり?私はそんなに頼りないわけ?」
「あ、あの」
「言っとくけどこっちはサボさんからも直々に君のことを頼まれてるの!」
「え、さ…サボ?」
「分かったら大人しく看病されなさい!」

万が一のことがあった時頼れる大人が少しでも多くいれば<Tボさんが言っていたその万が一≠ェ今じゃないのか。突然脈略も無く出てきたサボさんの名前に目を白黒させる彼も無視して強引に布団に寝かせた。

「エースくんちなみに体温計はどこ?」
「……体温計?」
「え」
「え」

さあ看病を始めようとした時、彼の家には体温計や冷却シートはおろか解熱剤すらも置いていないことを知り、自宅に引き返すはめになるのはこのあとすぐの話。


*****


ガチャッ、バンッ!!!

「エース!」
「うわびっくりした!」

お昼過ぎ、玄関からけたたましい扉の開く音が聞こえたと思えば部屋に飛び込んできたのは彼のお兄さんであるサボさんだった。彼の看病を半ば無理矢理ではあるものの請け負うことになった時にちゃんと連絡しておくべきだと私から電話はしておいたのだが。

「エースは!?」
「大丈夫ですよ、ぐっすり寝てます」

ベッドに横になっている彼は心地よさそうな顔で眠っている。それを見たサボさんは心底安心したようにその場に崩れ落ちた。

「熱は高いですけど食欲もそれなりにありますし、心配無いと思います」
「はああ、よかった…ありがとうございます」

よくよく聞けばエースくんは生まれてこの方一度も風邪をひいたことが無いそう。なにそれ羨ましいと思ったが弟であるルフィくんも同じらしく、どうやらかなり丈夫に育ってきたらしい。どうりで体温計や解熱剤などが家に無かったり、39度という体温計の数字を見た瞬間に「ナマエちゃんおれ死ぬ…!」と半泣きで言ってきたりするものだ。熱で魘されながら「死ぬ」と何度もうわ言のように呟いてもいたし、サボさんがこんなに大慌てするのにも納得する。電話した瞬間のサボさんの仰天ぶりといったら明らかに普段の冷静さを欠いていて、こうして部屋に飛び込んでくるのがいい例だろう。
あれ、そういえばなんでこの人ここにいるの。

「サボさん仕事はどうされたんですか」
「ああ、ちょっと抜けてきました」
「え!?」
「大丈夫ですよこれくらい」

いやめっちゃ電話鳴ってるけど…。あまりにも自信満々に言うのでつっこんでいいのか分からない。彼の懐から鳴っているであろう着信音が心なしか会社の人たちの叫びに聞こえてくる。愛すべき弟の危機の前にはそれも耳に入っていないのか、サボさんはそれらをフルシカトしていた。メンタルすごい。

「本当にナマエさんがいてくれて助かりました」
「いえそんな、元々はサボさんに助けを求めてたみたいですし」

サボさんに電話をかける予定だったのが間違えて私に電話をかけてしまったのが事の始まりだということを伝える。サボさんには助けを求めるくせにいざ私が駆けつければフラフラの身体で迷惑はかけられないと言い放ったことまでを話せばサボさんはくすくすと笑った。

「あいつはカッコつけですからね。あなたの事を好いていますし」
「ははは………え?」

今聞き捨てならない発言があったような。

「エースから告白されたんですよね?」
「なっ、な、な!?」

なぜそれを!?思わぬ衝撃とその直後に襲ってくるのは焦燥で、サーッと顔が青ざめる。待って、決してお宅の大事な弟さんを誑かしたとかそういうのはなくて…!どうしよう私このまま殺される!?言い訳をするにも話せば話すほど己の身を追い込む気がしてただ首を横に振ることしかできない。そんな私の心情を察したのか、サボさんは納得した素振りを見せて「大丈夫ですよ」と笑った。

「おれはエースを応援しているので」
「お、うえん…?」
「エースとナマエさんにはぜひ上手くいってほしいと思っています」

是非、上手く…噛み砕くように意味を理解すればカッと顔が熱くなる。えっ、じゃあ、この人は弟を守る砦じゃなくてむしろ、

「グルか!?」
「あっははは!」

お腹を抱えて笑う彼を前に頭を抱える。あまりの衝撃に今度は私が熱を出しそうだ。
そうかだから私がエースくんの家に行ったと知った時も妙に上機嫌になってたのか…楽しませてもらったって言ってたもんな。点と点が線になるように辻褄が合っていく。一頻り笑ったあとサボさんは満足したのかえらく清々しい顔をして立ち上がった。

「とりあえず無事そうで安心しました。エースのことはナマエさんにお任せします。おれは一旦戻らないと行けないので、また仕事が終わったら様子見に来ますね」
「あ、はい」

それは早急に戻ってあげた方がいいと思う。電話はさっきから切れてはすぐに掛かるの繰り返しで、鳴り続ける着信音からきっと会社の人たちは必死でサボさんを探しているのであろう。
しかし玄関へ向かう当の本人は漸く電話に出たと思えば「今から戻る」と簡潔に伝えてすぐに切ってしまい、私は心の底から会社の人たちに同情した。


再び静かになった部屋の中、渦中の人物はすやすやと寝ていることに安堵する。サボさんの電話はほぼ常に鳴ってたし、病人がいるにも関わらず割と騒いでしまっていたことに今更気づいたけれど、起きてないならよかった。

(にしても、)

「おれはエースを応援しているので」つい先程そう言ったサボさんの綺麗な笑顔が脳裏に浮かぶ。まさか彼がエースくん側だったとは。言い方が悪いのは百も承知だが一番の障害物だと思っていた。この部屋に初めて入った時も後ろめたさから頭の中を過ぎったのはサボさんの顔だったのに咎められるどころか応援されているなんて…あの人も彼と私の年齢差は気にしないのだろうか。

(あれ…?)

そこで私はふと気がついた。ちょっと待って、もしかしてこれって…知らないうちに外堀、埋められてない?

「んん…」
「……」

その事実に気がつくと途端に気持ちよさそうに眠る彼の顔が恨めしくなった。くそ、人の気も知らないで。ほんの出来心で、えいっ、と寝息を立てる形のいい鼻を摘んでやる。するとフガッ!という間抜けな声の後にうっすらと彼は目を開いた。あ、やばい、病人を起こしてしまった。

「ごめん、エースくん起こしちゃったね」

ムクリと身体を起こした彼に声をかけるが、不思議と返答は無くて。首を傾げていると、虚ろな目が私を捉える。それにフッと小さく彼は微笑ってベッドから身を乗り出したと思えば、そのまま私は彼に抱き締められた。

「───!?」

何が起こった。一瞬で頭の中は大パニック。力加減も忘れて彼の腕を叩いたが一向に腕は解けない。待って、なに、なんなの!?もしや怒らせた!?次は襲うと宣言された少し前の出来事が蘇って冷や汗が出てくる。そんな私の混乱も他所に擦り寄るように耳元で彼が吐息を零せば、それはじんわりと熱を帯びていて大袈裟に肩が跳ねた。

「…ナマエ」

囁かれたのは、初めて呼び捨てで呼ばれた名前。それは焦げついたカラメルのような、甘くて艶めかしい、劣情を孕んだ声だった。途端に背筋に甘い痺れが走って力が抜ける。心臓が有り得ないほど煩くて呼吸が苦しい。
いつもの彼と違う。これは、誰だ。

「え、エースく、」

少し距離を取ったかと思えば、虚ろな目のままどんどん彼の顔が近づいてきた。
───まさか、
考えたくもない可能性が頭を過ぎる。待って待って待って!反射的にキツく目を閉じれば、

「〜〜〜ッ!……………あれ?」

いつまで経っても思っていた感触は来なくて、ゆっくり目を開く。するとちょうど同じタイミングで彼の頭が私の肩にぽすん、と乗っかった。

「…エースくん?」
「………ぐぅ」

え………もしかして、これ、寝てる?

「〜ッ、嘘でしょ……!」

私の……緊張を返せ!ばか!!!


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