「お疲れさまです」
まばらに人が残るオフィスの中を適当に声を掛けながら抜けていく。「おーお疲れー」とパソコンから顔を出してくれる主任、「私も帰りたい…」と残業により若干涙目の同期や、片手だけを上げる係長など各々の反応を見ながらエレベーターに乗り込んだ。
『着いた。下で待ってる』
エレベーター内で一人、スマホ画面に表示されたメッセージアプリの通知に苦笑いを零した。
「エースくん、お待たせ」
出入口の自動ドアを潜って少し先、隅の方にあるベンチで彼は待っていた。ここまで辿り着いた私の台詞に、おれも今来たところ、と彼が笑って返すまでのやり取りが定例となっている。
私の仕事終わりにエースくんが家まで送るようになってから一週間と少し。あの元彼との事件が終わった後もこうして彼は私を送り続けている。
「もう私一人で帰るのに」
「ダメだ、休みが終わるまでは送る。何が起こるか分かんねェ」
「何も起こらないと思うけどなあ」
少なくともアイツはもう現れないだろう。年下の男に殴られ、それよりも支配下にずっと置いていたつもりの女に牙を向かれた。五年という月日を経ても未だに自分の影響が色濃く残っていると思っていたのはおめでたい頭をしているが、実際近しい傷を私に残していたのは事実で。だからこそそんな相手に歯向かわれたアイツのプライドはガタガタに決まっている。良くも悪くも状況をどうにかしてやろうという胆力は無い人間だ。逆恨みもきっと無い。
前よりも随分と清々しい笑顔を浮かべる私に隣の彼が下唇を突き出していじけていたのには気づかないフリをしておいた。
「なァ、ナマエちゃん」
少し固い声音でぽつりと呼ばれた名前。あ、来た。心の中でそう呟いた。
元彼の事件が終わってから、もうすぐそこでお互いの家に着こうとする時に必ず彼は私を呼び止める。冷静に、タイミングを間違えないように。そう何度も念仏のように内心唱えて、彼の方へ顔を向けた。
「…おれ、ナマエちゃんのこと、」
「あっ!UFO!」
「えっ、ドコ!?」
私の指さした先を追いかけるように彼が勢いよく背中を向ける。その瞬間猛ダッシュでその場から逃げ出した。
「…見当たんねェけど、って居ねええええ!」
あいつまた逃げやがったなァァァ!!!というエースくんの雄叫びを身を潜めたマンションの影で盗み聞きをして息を吐いた。
ここ数日、こんなことばかりを繰り返している。
惚れてるよ
コイツに惚れてんのか、と元彼にけしかけるように聞かれたときにそう答えた彼。最初は売り言葉に買い言葉のような咄嗟に出てきたものかと思っていた。警察官に聞かれた時だって空気に合わせて彼氏だと率先して言ってしまうような人だ。きっとそうだろうと。
だけどそんな私の考えとは裏腹に分かりやすくエースくんの目は訴えていた。目は口ほどに物を言う、とはよく言ったものだと思う。あの日から明らかに彼が私に向けるそれは変わっている。私を好きだと、想っていると何よりも雄弁に語っていた。
───そんなことがあっていいわけがない!
これが私の一番最初に出てきた感想だ。彼はカッコよくて優しくて男女問わず引っ張りだこの人気者、かたや私はしがない会社員。そもそも大前提として年の差がある!6歳の!年の差なんて関係ねェやい、というご意見はあるだろう。しかし私は気にする。この際気にさせていただく。
無理に決まっている。何がどうなって彼が私を好んでいるのかは不明だが、もし万が一にでも付き合ってみても、飽きられて捨てられるのがいいオチだ。いや彼はそんな飽きて捨てるとか非道なこと…だめだ甘えるな。
だからつい逃げてしまうのだ。家に着く直前、きっと彼は私に想いを告げようとしている。そのためにわざわざ今でも私を家まで送り届けているんだろう。ていうかUFOなんかで騙されるエースくん大丈夫かな…お姉さんそれが心配。まあそういうところが可愛いと…
「違う違う違う!」
辿り着いた自宅の玄関で頭を抱えた。
毒されている。色んな意味で毒されている!
「これ…傍から見たらとんでもなく贅沢な悩みなんだろうなあ」
試しに付き合えばいいじゃない、堅物だなぁ。
そんなことできてたらこんなに苦労してないのよ!
なんて私の中の悪魔と天使がせせら笑っているようだった。
*****
「ナマエせーんぱいッ」
翌日の会社のお昼休み、語尾にハートが着く勢いで私に近づいてきたのは一人の後輩社員だった。
今年新卒で入社してきたという彼女はとても可愛い。それに加えて勤勉で、まあ少し自分に甘いところもあるけれど…充分よく頑張っているだろう。うちの部署じゃそれはもうアイドルさながらの扱いをうけている。私も素直で可愛い子だと思っているし、世渡り上手だな、という印象だ。
そんな彼女に折り入って話があるのだと、休憩室から人気のない資料室へ連れてこられた。え、なに、怖い。
「先輩、私実は昨日見ちゃったんですけど!」
そう言って楽しそうにスマホの画像を向けられる。一瞬で顔が真っ青になった。
そこには私とエースくんが並んで歩いている写真で、「これって彼氏さんですか?」なんて無邪気に聞いてくるものだから私は絶句する他なかった。なんと言えば…なんと言えば!
「え、えと…ち、がうかな」
「じゃあ弟さんとか!?」
「いやえっと………いとこ?」
疑問形で答えるのは奇妙極まりなかったが、彼女はそれを気にせずに「そうなんですかぁ!」なんて嬉しそうにはしゃいでみせた。わあ、とても可愛い。周りにお花が見える。
「すっごいイケメンと歩いてたからビックリしちゃって!」
「あ、そうなんだ…」
とりあえず彼のこともあるので写真を消してほしいとやんわり伝えればあっさりと彼女は消してくれた。よかったもしや悪用とかされるのかと…ドラマの見すぎかな。
「いとこさんお幾つなんですか?」
「ハタチ、って言ってたかな」
「へえ〜!仲いいんですねえ!」
キャッキャと話す彼女に若干押され気味になる。うーん多分これはまだ何かある気がする。なんとなく想像はつくんだけど…。そんな私の思考を読み取るかのように、彼女は顔の前で手を合わせて、きゅるん、と効果音が付きそうな上目遣いでこう言った。
「あの、それでお願いなんですけど」
仕事終わりの帰り道、この日も変わりなく隣を歩く彼の横顔をこっそりと見つめる。
昼休みの彼女のお願いというのは、私の想像通りだった。
『彼がよかったらでいいんです!連絡先知りたくて!』
それか自分の連絡先を教えておいて欲しい、と電話番号とメッセージアプリのIDが書かれたメモ用紙を押し付けられた。彼女の積極性と行動力に完敗した私は、とりあえず本人に聞いてみる、という当たり障りのない捨て台詞を吐いてその場を逃げ切ったのだが。
(うーんどうしよう)
正直なにも手が思い浮かばない。
そもそもどう話を切り出せばいいのだろう。無理矢理メモを押し付けたら変質者だし、「職場にすごい可愛い子がいてね、その子がエースくんのこと気になってるみたいで」…そんなこと言える?エースくん私のこと好きなのに?あっ、いや、あの、決して自惚れとかでは無いんだけど!無いんだけど多分その可能性が高いっていうか、ってこれ誰に弁明してるのかな!?
「ナマエちゃん」
「うわあ!はいっ!」
意識がてんで違う方向に向いていて呼ばれた名前に思わず飛び上がる。
……あ、また、
「あのさ、」
「ちょ、ちょっと待った!」
手のひらを彼に突き出して待ったをかけた。スーツのポケットの中には彼女から渡された連絡先のメモが入っている。連絡先を教えていいか聞くか、これを彼に渡さなくちゃいけない。私は頼まれたんだ。あの子はとても可愛い。小柄な身体と綺麗なサラサラした髪とぱっちりした大きな瞳、うるうるの唇。中身だって素直でいい子で、エースくんとお似合いだ。年の差だって私なんかと比べれば全然許容範囲。だから、きっとエースくんも気に入る。
ああ、でもなんでだろう。やっぱり、
(嫌、だなあ…!)
突き出していた手が下がっていく。ぱしり、と手首を掴まれた。
「話さないなら、おれが話していい?」
「う、あ、あの」
「もう分かってると思うけど、おれは」
「〜ッ、あ!流れ星!」
「えっ、ドコ!?」
エースくんの目が逸れた瞬間、手を振り払って逃げる。やっぱりこんなので騙されちゃうの私は心配だよエースくん。そう思いながらこの手を使うのを止めない私も私なんだろうけど。
「…って、そう何度も何度も引っかかってたまるかァ!」
「…!? ひぃ!」
後ろから全速力で追いかけてくる気配がする。
まずい!そうは思っても、完全に運動には適してないスーツにパンプス姿の私と、筋肉の付き方からして日頃から身体を鍛えてる男子大学生、加えて元々のコンパスの長さの違いを考えてもこの鬼ごっこの結末は誰が考えたって分かりきっていた。
背後からニュッと手が伸びてきたと思えば、あっという間に絡め取られるように後ろから抱き締められる。
「捕まえた」
耳もとでそう彼が囁く。息が上がってしょうがない私とは対照的に悔しくも彼の息は何一つ乱れていなかった。
身体を反転させられて顔を覗き込まれてしまえばいよいよ私は追い込まれる。かち合ったエースくんの瞳は確かにじんわりと熱を燻らせていて。待って、本当に待ってほしい、だって、だってそんな、
「ナマエちゃん、聞いてくれ」
言わないで、お願い、私、分からないの、
「おれは」
どんな顔したらいいのか、分からない…!
「ナマエちゃんが好きだ」
落とされた核弾頭が私に直撃して爆ぜる。そんな、気分だった。
「〜〜ッ!」
声にならない声をあげて膝から力が抜ける。もう逃げられない。その場にしゃがみ込んでしまった私を追いかけて彼もしゃがみ込んだ。
「……エースくん分かってるの?私の年齢」
縮こまるように頭を埋めて話す声はくぐもっていて弱々しい。
「え?サボと大体同じくらいだろ?にじゅう…三か四くらい?」
「………」
分かってないじゃん!若く見てくれてるのはありがたいけれど!そういえば私の歳に関してはあんまりちゃんと話したこと無かったな、と振り返っても後の祭りなわけで。ここは普通に年齢言うよりもダメージを受けそうな言い方を使ってやる。
「エースくんが小学校に入学した時、私は中学生になってるよ」
「……マジで!?ナマエちゃん若いな!全然見えねェ!」
「えっ本当!?ありがとう!〜って違う!!!」
勢いよく立ち上がる私をエースくんが「何か悪いこと言ったか?」とでも言いたげな顔で見上げてくる。いや、いいことなんだけど、女性にはそういうこと言わなきゃだめだよ。そうなんだけど……だめだ、色々ツッコミが足りない。考えることを放棄したがる頭を何とか働かせようと額を押さえて息を吐く。
「…ナマエちゃん、好きだ」
立ち上がった彼が、空いてる私の手を握って再度そう言った。
「歳とかどうでもいいし、言っとくけど冗談でもねェぞ」と息を詰める私に更に追い討ちをかけてくるからタチが悪い。冗談だったらどれだけいいか。そうじゃないのを分かってるからこんなに困っているのに。
「……なん、で」
やっとの事で絞り出した声は情けないくらいに震えていた。もうなんだか、泣きそうだ。
「なんで、私なの…エースくんには、もっとたくさん選べる女の子がいるでしょう」
とどのつまり私の言いたいことはそれで。
エースくんにはたくさん選択肢があるのだ。選ぶ権利がごまんとある。手を挙げれば多くの女の子が寄ってくる魅力が充分にあるのに。うちの可愛い後輩でさえ選択肢に入れることができてしまう、それは誰でも手に入れられる権利じゃないんだよ。なのによりによって年上の、しかもあんなゴミクズ男に消費された汚い女をわざわざ選ぶ必要なんて、これっぽっちも無いのに。
あまりにも可哀想だ。こんなのを好きになってしまって。これを言ってしまえばきっと彼はひどく怒るだろう。分かってはいるけれど、どうしても私は、
「…例えば、たまに気が抜けたようにふにゃっと笑ってる顔とか」
「…え?」
「あと、年上だからってお姉さんぶってるのにどこかドジしたり、それを指摘したときにいじける顔。しっかりしてるように見えて意外と押しに弱いところ」
「な、なに」
ぐっ、と手を握る力が強くなる。突然饒舌に話し始めた彼の意図が分からず私は狼狽えた。
「自分のことは穏便に済ませようとするくせに、おれのことを言われたらすげェ怒って啖呵切ったり…あの股間にヒール振り下ろすのはさすがに見てるこっちも青ざめたな」
「あの、」
「自分だって辛いくせに謝ってばかりでちっとも弱ってるとこなんて見せやしねェ。ようやく泣いたと思っても全然声上げて泣こうとしねェし」
「!」
「でもおれの前で顔真っ赤にして恥ずかしがる顔はすげェ可愛い」
「ちょ、ちょっと待って」
「なんだよ。ナマエちゃんがなんで私なの≠チて聞くからおれがナマエちゃんの好きなところを言ってるんだろ」
そんなこと聞いてない!いや、聞いたけど!聞いたけどそういう意味じゃない!
どんな羞恥プレイだとすぐそこまで来てた涙も引っ込んで顔から火が吹きそうになった。そこにも間髪入れずに「今も可愛い」なんて吹き込んでくるものだからいよいよこの人は私をどうしたいのか問いただしたくなる。
「ちなみにスーツ姿はずっとエロいと思ってた」
「……はあっ!?」
「仕方ねーだろ!思う分には自由だ!」
な、なんと潔い開き直り…!スーツ姿って、私君の前じゃ大体スーツ着てた記憶しか無いんだけどな!?
「…まだ言って欲しいなら、いくらでも言ってやるけど」
「もう結構です…」
これ以上は勘弁してください。私のHPが耐えられない。エースくん側にもさすがに羞恥があったのか、彼の頬は真っ赤だった。諸刃の剣かよ。おかげでお互い赤い顔で道端に立ち尽くすというカオスな状況になってしまっている。
無言の状態が数拍続いた後、エースくんが笑いを堪えるように肩を震わせ始めた。
「っく、ふふ、」
「…なに」
「いや、悪ィ、面白くてよ。告るにしてももっといい雰囲気で、っつーの?カッコよくするつもりだったのに何故かこんなことになっちまって…」
敵わねェなァ、と頭をかく。でもその顔はすっきりしていて。ああ、私が身勝手に逃げ回ったせいで随分と我慢させていたのかもしれないと思った。
「まァ実を言うと別に今すぐ返事が欲しいワケじゃねェんだ」
「え…そうなの?」
「OKしてくれんなら大歓迎だけど」
「……」
「おれのことをちったァ意識してもらえんなら今はそれでいい」
だから。
握られていた手が一度解けたと思うと、指が絡まった。所謂恋人繋ぎと呼ばれるそれに収まりかけた顔の熱が再発する。それを確認した彼は、悪戯が成功した子供のように無邪気に笑って…しかし携えた瞳はこれでもかと私に向かって好意を称えていた。
「これからガンガンアピールしていくからよろしくな、ナマエちゃん」
ああ、もう、だからそんな顔をしないで欲しい。
私の贅沢すぎる悩みは収まるどころか加速していってしまうことをここで悟りながら、ひっそりと白旗を上げることしか出来なかった。