あれから一週間経ったが特にこれといった動きは無かった。警察とエースくんの勧めで非通知拒否をしたのもあるのかもしれない。一度だけ掛かってきた通常番号からも掛かってくることは無かった。


『ごめん、少し遅れる』

退勤後、会社を出てもエースくんの姿が見当たらなくて探しているとそんな連絡が来た。もし自分が迎えに遅れることがあれば社内で待つように彼からは事前にきつく言われている。親切で送ってもらっている以上、ここで彼のいいつけを破るわけには行かない。了解、と画面のキーボードをタップして送信ボタンを押そうとした時、

「ナマエ」

気配なく横からした声。ヒュ、と喉が音を立てた。

「……ッ!!」

身体がすぐに非常事態を察知して建物の中に戻ろうと踵を返す。でもそれは叶わなかった。
強い力で腕を引っ張られて、腰を抱えられる。無理矢理合わされた視界には今この世で一番見たくない顔。よりによって、エースくんが遅れる日に。警察は警備を強化すると行ったけどそういう風な人が居る気配はしない。会社の人も通らない。全ての運が私を嘲笑っているようだった。

「まァそんなに逃げるなよ、悲しくなるだろ?」

何とか抜け出そうとしても男女の力の差は残酷でビクともしない。余裕そうに言われた台詞に顔を鋭く睨み上げた。五年もの月日を空けてわざわざ私に近寄った経緯は分からないけど、これだけははっきりしている。コイツはまた玩具≠欲していると。

「離せ…!」
「ああ…初めて見るけどそういう顔もそそるな。泣かせたくなる」
「……!」

低く唸っても、相手の目を眇める含み笑いが深くなるだけ。むしろ恍惚に呟かれた台詞と共に下唇をなぞられて、耐え難い悪寒が駆け巡った。近づいてくる顔に脳内が警鐘を鳴らす。止めろ、来るな!


「───てめェ何してんだよ」

突然襲った大きな力に身体の重心が傾く。反射的に閉じた目をゆっくり上げると、私は彼…エースくんの腕の中にいた。

「大丈夫か、ナマエちゃん」

そう言う彼の息は荒い。恐らく走ってきたのだろう。きついくらいに肩を抱かれて私は何度も頷いた。目だけで射殺してしまえそうな視線をエースくんは男に向ける。尋常じゃないくらいに怒っているのは明白だった。

「お前がストーカーだな」
「何だ…男連れか」

エースくんの姿を認識した男はエースくんの睨みも意に介さないといった感じでニヤリと口元を歪めた。

「にしても、随分とオトコの趣味が変わったんじゃねェのか?なァ、ナマエ」

まじまじと蛇が這うような視線でエースくんを足の先から頭の先まで見つめれば、年下のガキじゃねェか、と鼻で笑う。

「彼氏じゃねェんだろ?いないって言ってたもんな?」
「………ええ、そうね」
「だよなァ!そんなガキじゃお前満足しないだろ?俺のところ来いって、また可愛がってやるから」
「行くわけ無いでしょ、寝言は寝て言ってくれる?」
「そんな恐いカオすんなよ。昔はあんなに俺の下でとろとろにヨガってたじゃねェか。俺のことが好きだ好きだって鬱陶しいくらいに言ってたのに」

もう何年前の話をしている。今じゃくつくつと笑うその卑しい顔に反吐が出そうだ。「テメェ…!」と地を這うような声を発したエースくんが今にも殴りかからんと身体を乗り出すのを掴んで制止をかけた。挑発に乗ってはだめだと彼の目を見据えて首を横に振れば、眉間に深い皺を刻んで拳をきつく握りしめる。それは怒りからか、ひどく震えていた。大丈夫、私は大丈夫だから、そんなことを言われるのはもう慣れてるから。だから君がそんなに怒らなくていいんだよ。

「…アンタなんで私の勤務先がここって知ってんの」
「あァ、そう言えばそうか」

なにより私にはコイツと話す義務があるのだ。鋭い目線をそのままに最優先事項を問えば、くくっ、と喉を鳴らす。「俺のツレが教えてくれたんだ」そう一言男は言った。

「偶然だったよ。ツレの勤務先にお前が異動してきた。若い女が何人か来たって言ってて興味本位で名前を聞いたらお前がいるから驚いたさ。前から彼女が欲しいってそいつが言ってたもんでナマエって奴を知ってるぞ、って紹介してやったんだ。ちょっと褒めたら着いてくるチョロい女だからって」

結局上手くいかなかったみてェだけど、と男は続ける。

「アイツ職場じゃあえらく猫被ってるらしいのになァ?面白そうだから俺も昔の玩具にちょっかい出してみようかと思ったのさ」

一頻り話した後に可笑しそうにまた男は笑った。
同じ勤務先、ツレ、紹介…パズルのピースがはまっていく感覚がする。まさかと思った。私が知る限りの彼は目の前のコイツとつるむ様な雰囲気は微塵も感じない。だけどコイツが言うのが本当なら、現にここに来ている事実を加味するならば、

「ふざけるな…!」

前にエースくんのバイト先で食事をした同僚の男の顔が浮かんだ。誠実そうで控えめに笑うあの男はグルだったのか。その分厚い仮面の下で、私のことをチョロい女だと、そう思っていたというのか。あの男に私の連絡先は教えている。それがコイツに渡ったのだろう。全ての歯車が噛み合った気がした。
ふざけるなふざけるなふざけるな!馬鹿にするにも程がある、どこまでコイツは私を…!

「おいガキ、お前はコイツとヤッてねェのか」
「…ア゙ァ?」
「おいおいマジかよ。じゃあセンパイとして助言してやるよ、コイツはセックスの時───」

ドゴッ!
そんな鈍い音がした。あ、と思った時にはアイツは倒れていて、口の端は切れて血が出ていた。

「エースくん…!」
「それ以上その汚ねェ口開くんじゃねェ!殺すぞ!」

瞬時に状況を理解して、もう一度振りかざした拳を急いで後ろから抱きしめる形で止める。

「エースくん!いいから、それ以上は!」
「止めんな!こうでもしなきゃコイツは分かんねェよ!絶対許さねェ!」

アイツの顔はこんな時でもその卑しい笑みを崩さない。それが余計にエースくんの怒りを煽るのをきっとわかっているのだろう。
こんな暴力沙汰、警察なんて来たら…!その前に会社の人が通ったら終わりだ。私はまだ会社を辞めればいい。でも彼は学生で、こんなことが学校に露呈してしまえば退学だって有り得る。お願い、やめて、お願いだから。掠れる声で、震える手で必死に何度も言ったけれど興奮状態のエースくんには届かない。このままじゃ冗談抜きで殺すまではいかずとも半殺しにしかねない。私の声も虚しくよろめいて立ち上がる男の胸ぐらをエースくんは掴んだ。どうしよう、どうしたら…!

「…なんだァ、お前もしかして、コイツに惚れてんのか」

口もとの血を拭いながら男はそう言う。
その瞬間、フッと纏っていた彼の怒気がなりを潜めて胸ぐらを掴んでいた手が離れた。

「は…? 何言ってんの、そんな訳」
「あァ、惚れてるよ」

…いま、なんて、
呆気に取られてゆっくりと彼を見上げる。エースくんは一瞬私に目配せして真っ直ぐと男を見据えて言った。

「惚れてる。それがお前に関係あんのか」

そんな馬鹿なことがあるわけない。あまりにも信じ難い発言に力が抜ける。一連の流れを見た男はそれはそれは愉快だと言わんばかりに高笑いを始めた。

「おいよかったなナマエ、このガキお前のこと好きなんだとよ!」
「……、」
「可哀想だな、お前がどんな女かも知らないで!俺に調教された玩具なのに!馬鹿な野郎だ!」

───プツン。
表現するならばそれが一番端的なものだったと思う。私の中で何かが切れたのを皮切りに、さっきまでの震えや焦りが嘘のように引いていって思考が澄み渡る。そして代わりに沸き立つのは純粋な怒り、それだけだった。

「おい喋んなっつってんだろーが、」
「ねえ」

青筋を立てるエースくんを制して前に出る。自分でも驚くほどドスの効いた声だった。脳裏に過ぎるのはいつかエースくんと偶々見た恋愛ドラマのワンシーン。あの女優のように、綺麗な顔をしたままなんて私には難しい話だけれど…ヘラヘラとし続けるその顔を一瞥して胸ぐらを掴むと自分の元に引き寄せる。そして一発、できる限りの力でその頬を引っぱたいた。

「……ッテメェ!」

一瞬呆けた顔をして尻もちを着いた男が声を荒らげる。相手からしたら下僕同然だった女からの突然の反旗だ、逆上するのも無理はない。でももう私はコイツの玩具なんてとっくの昔に辞めているのだ。いい加減気づけよこのクソ野郎。座り込んだままの男の股の間、間髪入れずにそこを目掛けて足を振り下ろした。生憎こちらはピンヒール、やることは一つだろう。ガンッ!と音を立ててピンヒールが落ちた先は急所と目の鼻の先の地面で、サーッと分かりやすく男の顔が青ざめた。こんな節操なしのブツなどこの世に必要無いのだろうけど。この靴は高いしお気に入りだからこんなことで履けなくなるのはあまりにも勿体ない。
真っ青な顔に嘲笑を送れば、カバンから財布を取り出してありったけの札束をその男の顔面向けて投げつけた。

「あげる」
「…っ」
「いつも私とセックスした後にせびってたもんね。わざわざ今回来たのもこれが目的じゃないの?」
「……」
「別に私のことをどう言おうが構わない。そんな奴と関係持った私の責任だから。──でもね」

怒りで目の前が真っ赤に染まるというのはこういうことなのかとどこかで冷静な私が言っていた。

「エースくんのことを罵るのは許さない」

まるで自分の事のように怒ってくれた優しい彼を、そんな彼を巻き込んで手を出させた罪は計り知れないほど重い。その怒りは目の前の男とそして、他でもない私自身にも向いていた。

「それは手切れ金。分かったら二度と私たちの前に現れないで。そうじゃなきゃ、私が、お前を殺す」

もう男は何も言わなかった。貼り付いていたムカつく笑顔も剥がれて落ちている。これ以上こちらから何も言うことは無いため、無言だったのを了承と取って背後で呆然と立ち尽くしていたエースくんの手を引いてその場を後にした。


*****


「ナマエちゃん、さっきの金、」
「いいの」
「だけど、ッ!」
「いい。どうせすぐ給料日だから」

出来るだけ誰も居ないところに。そう思いながらしばらく歩き続け、人気の少ない道に出てから漸く息をついた。
掴んでいた彼の手を離す。生まれて初めて人を殴った右手は情けなくも震えていた。

「…なんかごめんね!散々巻き込んじゃって」

出来るだけ明るい声で振り返って困ったような笑顔を貼り付けた。大丈夫、ちゃんと笑えてる。
彼のきつく握ったままの拳を手に取る。解けたそれは余程強い力で握りしめ続けていたのだろう、掌に爪がくい込んで血が滲んでいた。

「殴らせて、ごめん。これ手当しなきゃね」
「……痛くねェよ、こんなモン…ッ」

彼の声は震えていた。俯いたその表情は読み取れない。けれど唯一見えた口もとは悔しそうに歪んでいた。

「…そうだ!今度何か美味しいものでも食べに行こっか!私がご馳走してあげるよ」
「……」
「何がいい?お肉とかお寿司とかでもいいし、あとはそうだなあ、」
「ナマエちゃん」

合った瞳の先…ひどく悲痛に苦しんだそれ。ひくり、笑顔が引き攣った。

「…私なら大丈夫だよ、むしろビンタできてスッキリできたくら」
「そんな訳ねェだろ…!」

先程何度も聞いたビリビリするような怒鳴り声じゃない。絞り出すように出された声に息を飲む。
大丈夫、大丈夫だ。エースくんを巻き込んだことは心が苦しいけれど、私自身はこんなこと慣れている。アイツと関わってからあんな思い幾らでもしてきた。今更何が起こったって、何とも思わない。
……だから、こんなに胸が締め付けられるのもきっと気のせいに決まっている。

「…笑ってくれていいのに」
「…は、」
「アイツが私に言ったことは事実だったんだから」

あんなどうしようもない男でも、その当時の私は確かにアイツを愛していた。好きだ好きだって馬鹿の一つ覚えみたいに言っていた。それがどれだけ忘れたいことでも、人生の汚点だと思っていても変わらない。だからエースくんはそんなに苦しそうにしなくていい、いっそのこと、

「馬鹿な女だって笑って、!」

手を引かれる。ふわり、と包み込んだのは太陽のような温かさ。抱き締められてる、と理解するまでにそうかからなかった。

「笑わねェよ」

少し苦しいくらいに抱き締められて、頭を撫でられた。それが心地よくて、手がこれ程にないくらい優しくて。
泣くな、泣くな泣くな。あんな男のことで二度と泣いてたまるものか。そう思っていた。
なのに、

「……っ、ふ、」

頬が濡れる。ずっと凍えきっていた心の奥底が熱でどんどん溶かされるような、そんな感覚がする。
震える手で掴んだ彼の背中。洋服が皺になってしまうことも忘れて思いきり握りしめれば、呼応するように私を抱き締める力が強くなった。
涙腺はもう完全に壊れていてとめどなく溢れ出す。それを止める術が分からない私をずっとずっと彼は抱きとめていてくれた。


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