「エース、ッ、エース…!!」

ボタボタと落ちる大粒の雫が手中にある新聞記事に染みを作っていく。火拳のエース死亡≠サう一面に書かれた紙面がぐしゃりと歪む。
何もできなかった。戦いに向けて私たち医療班は船を下ろされ、祈ることしかできなかった。自分があまりにも無力で、ちっぽけで。なんで、どうして、直面する現実に疑問を投げかけても何も返ってこなくてただ悲愴に苛まれる。

『ナマエ、愛してる』

太陽のように温かく微笑う彼はもういない。

「ああああああ!!!」

あの日、私は最愛の人を失った。


*****


部屋に鎮座していた段ボールの中身を全て片付けて、大きく息を吐く。本日快晴。いい春の陽気が新しい生活を出迎えてくれるようだ。
仕事の異動に伴い勤務地も前の住居から遠くなってしまうために思い切って引っ越してみたのだが、なかなかの好物件じゃないだろうか。風呂トイレ別で独立洗面台はもちろん、築浅・角部屋。なのになぜかこの部屋だけ少し家賃が安かったのが気になったけど、事故物件ではないことは確かなのでラッキーということにしておこう。
 片付けがひと段落すると、お腹が空いてきた気がして時計に目をやる。ちょうどお昼時でいい時間帯だ。ガスの開栓は午後からだから適当に買ってきて食べようかな。そう思って近くのコンビニを探すために地図アプリを立ち上げた。

コンビニに着いて、気まぐれに雑誌コーナーに向かえば、無意識に飛び込んできた某結婚雑誌に思わず顔が引きつった。私ももう26歳。世間一般でいう結婚適齢期というやつに差し掛かっている。両親は「いい人はいないのか」「孫の顔を早く見たい」と小言を漏らすようになったし、先月は同級生三人が結婚してご祝儀で財布が死にかけた。異動前の職場でも若い女性社員が寿退社をして、送別会で酔っ払った部長に「お前には予定無いのか」としつこく詰められた。今時そういうのセクハラで告発できるんだからなあのクソ部長。笑って済ませた私に感謝しろ。ていうかまだ26だし!まだ≠セし!!
雑誌をパラパラめくれば、美しいドレスを身にまとった女性が微笑んでいる。そんなに結婚って、いいものだろうか。ていうかまず彼氏が最後に出来たのいつだっけ…えーと…確かハタチ…?ダメだあれは黒歴史すぎる、やめやめ!勢いよく雑誌を閉じて元の場所に戻した。

コンビニ袋を下げて、スマホを片手に来た道を戻る。SNSを開けば速報ニュースで人気女優の結婚が報道されていた。くそ、このタイミングで当てつけかコノヤロウ。最近芸能界も結婚ラッシュだなあ、なんて呑気な独り言を零した時だった。

「っ!」

ドン、と勢いよく肩が誰かとぶつかる。
反動で思わずよろけて、道路側に転びそうになったところを力強く腕を掴まれた。

「す、すみません!ちゃんと前見てなくて…!」

ちょうど車が隣を通行したことに青ざめた。もし腕を掴んで貰えなかったら…。自分の不注意さに慌てて謝罪の言葉を口にしながら顔を上げる。

「いや、おれの方こそバイトで急いでて…すんません、大丈夫っすか?」

うわ背高っ。視線の先、相手はおそらく大学生くらいの若い男の子。
幾らか見上げた位置にあるそれを見た瞬間、ひゅ、と喉が音を立てて呼吸が止まった気がした。筋の通った高い鼻、少し重たそうな瞼と凛々しい眉。そして頬のそばかす。視界に現れた彼に私の心のどこか奥底で大きな荒波が襲ってくる感覚がして、バクバクと心臓が早鐘を打つ。

 ───ああ。ずっと、ずっと会いたかった。

自らの思考とは遠くかけ離れたところで誰かがそう言った気がした。

「…エッ」

心配そうにこちらを伺っていた彼の顔がギョッとする。

「あ、あの」

困惑の色を濃くする相手を前に我に返ると己の頬が濡れていることに気がついた。

「え……ええ!?」

ボロボロと涙腺が壊れたように溢れ出る涙に自分が一番驚いた。拭えども拭えども涙は止まることを知らずにどんどん零れ落ちていく。

「…! もしかして掴んだ腕痛かったっすか!?」
「い、いえ!そんなことないです!」
「じゃあ足捻ったとか!」
「いや違くて…あの…違くてですね!」

道端でワタワタと手をお互い忙しなくばたつかせながら会話する様子は非常に滑稽だ(しかも片方の女は号泣)。え、どうしようどうしよう!焦りからか多少顔を青くする目の前の男の子にひどい罪悪感を覚える。なにか理由をと回らない頭を必死で働かせど、支離滅裂なことしか出てこない。

「あ!バイト!バイトあるんですよね!?急いでるんですよね!」
「え、いやでも今そんな場合じゃ、」
「私は大丈夫なので!すみませんでした、バイト頑張ってください!では!」

捲し立てるように言って深々と一礼した後、彼の顔を伺うこともせずに脱兎の如くその場を後にした。猛ダッシュで自宅まで戻ってドアを閉めた直後、言葉にならない声を上げながらその場に崩れ落る。本当にとんだ醜態を晒してしまった。見ず知らずの人に。気づけば謎の涙は止まっていたが、今違う意味で泣きそう。

(それにしても…)

すごいイケメンだったな。最近の世代ってあんなイケメンが普通に出歩いてバイトしてる世界なのか。羨ましい。急に泣き出した不審極まりない女に対しても心配してくれるし…中身までイケメンだった。この十数年滅多にお目にかかれなかった好青年に感謝の意を込めて合掌する。
そこでふと考えた。もしかして…さっきの涙ってあまりにも恋愛から遠ざかりすぎた生活してるせいで急に現れたイケメンに感動して流れたやつだったりして。

「…って、いやいや、さすがにそれはちょっと」

……あり得るな。SNSで見るイケメンの画像ですら眩しくてたまらなく感じる私ならあり得そう。急にあんな至近距離に出てきたら感極まっちゃうかもしれない。

「きもちわる…」

アラサーに突入した干物女の怖さを心底実感した瞬間だった。



*****



陽もすっかり落ちた夜、お風呂後に冷えた缶ビールを火照った身体に一気に流し込む。

「はーっ、幸せ!」

湯上りのキャミソール姿のまま盛大にカーペットに寝転んだ。テレビを付ければこの前お笑いタイトルで優勝した芸人がネタを披露しているところだった。テレビから流れる笑い声とほぼ同じタイミングで私も笑いながらビールを煽る。番組にゲストとして出演していたイケメン俳優が映った時、ふと昼間の好青年を思い出した。
確かにかっこよかったけど、泣くのは本当無いよね…。遅ればせながら襲ってくる羞恥に一人いたたまれない気持ちになる。まあでももうきっと会うことも無いだろう。
本当にイケメンに感極まって流れた涙なのかは不明だし、それなら本当に気持ち悪いけど、なんだかんだで今が一番楽だし満足してるからこのままでも別にいいかなあ、なんてアルコールが回った脳は既に都合のいいことを考えていた。

流れていた番組が終わって天気予報に切り替わると、一面太陽のマークがついた予報と共に「明日も今日と同じく春の陽気に包まれた暖かい一日となるでしょう」と美しい女性の声が聞こえる。だからどうりでこんな暖かいのか、と一人で納得した。室内とはいえ夜でも全然肌寒くなく、現に未だ私はキャミソール一枚で、むしろちょっと風に当たりたい。お酒で熱くなった肌を冷まそうとベランダとは別にある窓に近づいた。
鼻歌混じりに鍵に手をかけて解錠する。窓があるというのも角部屋の特権で、この部屋を契約した理由の一つなんだよなあ、なんて上機嫌で勢いよく開いた瞬間。

「あ」

目の前に飛び込んできたのは上裸の男だった。
スマホを片手に数メートル程先にあるベランダの柵に肘をかけてこちらを向いている男の顔は見覚えがある。筋の通った高い鼻、少し重たそうな瞼と凛々しい眉。そして頬のそばかす。

───まさか、

「あれ、昼間のお姉さん?」
「〜っ、きゃーーーーーー!!!!!」

誰か夢だと言ってください!!!


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