私はある扉の前で立ち竦んでいた。
待て、落ち着け、決してやましい気持ちで行くわけでは無い。ドッドッドッと早くなる心拍数に緊張からゴクリと唾を飲む。ええい、もうなんとでもなれ!目を固く瞑って半ば勢い任せにドア横にあるインターホンを押した。
しばらくの間を置いてからガチャリという解錠の音で開く扉の先、その人物はへらりと笑っていた。

「いらっしゃい、ナマエちゃん」

さて、ここでなぜ私が彼…エースくんの家に行くことになったのか。その経緯を説明したいと思う。



『ハーゲンダッツいる?』

記録的な数字を何度も打ち立てた今年の猛暑は暦上晩夏に入った今でも容赦ない暑さを与えてくる。
そんな折、会社の昼休み中にスマホの通知を鳴らしたエースくんからのメッセージが事の始まりだった。

「…はい?」

脈略も何も無い状態で突然送られたその一文にトーク画面を凝視する。返信に戸惑っているとポコン、とトーク画面が更新された。追加で送られてきたのは一枚の写真で、愛らしい笑顔でピースをする彼の弟…ルフィくん。と、その隣にはおびただしい量のダンボール。ダンボールにはハーゲンダッツのお馴染みのロゴが書かれていた。

『サボが会社のビンゴ大会で当てたらしい』
『ハーゲンダッツ一年分』
『サボがナマエちゃんにもあげたらどうだって』

立て続けに送られるメッセージに目を滑らせる。うんまあとりあえず状況は理解した。にしてもハーゲンダッツ一年分が景品として出る会社のビンゴ大会ってどういう…まずそっちが気になるのですが。
それはさておき、どうしたものかと私は考えた。正直言って個人的にハーゲンダッツはかなり魅力的…だって滅多に自分で買わないし!たまに自分へのご褒美とかでしか口にすることの無いアイスに気持ちは揺らぐ。まあ景品当てた本人のサボさんが言ってくれてるみたいだしここはお言葉に甘えてもバチは当たらないのでは…。

『ありがたく頂戴します』

悩んだ末、その一文と一緒に頭を下げる猫のキャラクターのスタンプを送信した。すると秒で既読マークが付いたと思えば、OKのスタンプが送られてくる。早いな。

『じゃあ都合のいい時俺ん家取りに来て』

「ごほっ!?」

そこで私は食後のコーヒーを吹いた。それはもう盛大に。周りにいた社員がどうしたという目で私を見てくるのでティッシュで口元を拭いながら、周りには特に意味無くすみませんと言っておいた。ちなみにスーツは無事だった。危ない危ない。
私の見間違いなのかと思ってもう一度トーク画面を注視してみるも、文章に変化は無くて。いやだって、そんな展開になると思ってない。てっきり私はマンションの下で手渡ししてもらえるのかと…。
とは言っても一度受け取ると答えておきながらそれを反故にするのはさすがに気が引ける。散々そこからも悩みに悩んで、三日後の仕事終わりに取りに行く約束を取り付けた。



そしてその三日後が今現在である。

「外暑いだろうし上がっていいぜ」
「えっ!?いやそれはちょっと」

アイスを貰ってそのまますぐ退散する予定だった私は慌てて首を横に振る。だってそのつもりで仕事後に直接ここに来たし!そうじゃなくても中に入るのは!さすがに、まずいというか何というか!

「心配しなくてもお茶くらい出すぞ?」

あらお気遣いどうも…ってそうじゃない。そうじゃないんだエースくん。キョトン顔で首を傾げるなあざといから。

「そんな広くねーけど一応ちゃんと片づけてるし気にしなくていいって」

そう言って純度100%の笑顔を向けられてしまえばもう頷く他私には為す術が無かった。


男の人の家に上がるのは一体いつぶりだろう。時を遡るうちに考えることを放棄した私は座り場所に迷った結果、邪魔にならないような適当な位置で縮こまった。エースくんの部屋は想像してたよりシンプルで、なんかもっとこう、ごちゃごちゃしてるものだと勝手に想像していたために少し面食らう。
本当にここにきていいんだろうか…脳裏には私にとってエースくんの保護者同然であるサボさんの顔が浮かぶ。これ知られたら怒られたりして…なんて顔を青くしていると、キッチンからエースくんがひょっこりと顔を見せた。

「そうだ、ナマエちゃんケーキ食える?」
「…? うん好きだけど…」

ガチャガチャと物音がした後、こちらに来た彼の手にはコップとお皿の上に乗ったケーキがあった。

「これって…!」
「あ、やっぱ知ってんだ」

もしや駅前にある並んでも買えないという幻のチーズケーキでは!?エースくんの顔とケーキを交互に見る挙動不審な私に小さく笑って彼はテレビの向かいに座る。

「食べていいよ」
「えっ」
「ナマエちゃん来ると思って買ってきたやつだから」

…めっちゃイケメンじゃん。

「ううっ、このご恩は必ずやお返しします…」
「ぶはっ」

思わず合掌をすればエースくんは吹き出してゲラゲラ笑っていたけれど、まあ楽しそうなので良しとした。
彼はおもむろにテレビの電源を付ける。ちょうど放送していたのは人気女優が主演を務める恋愛ドラマだった。普段観ていないためよく知らないのだが、物語は佳境に入っているのか画面いっぱいに映った女優は美しい泣き顔で自分の想いを吐露している。かと思うと相手役の俳優に華麗なビンタを一発。おお…痛そう。
別に構わないのだけどこの人とこういったものを観るのは…観るなら普通にバラエティ番組とかそういうのを観たい。ケーキをつつきながらちらりと横目で彼の様子を確認すれば、特にこれといった表情もなく頭の後ろで手を組んで画面を眺めていた。なるほどこれ気まずくなってるの私だけか。
それからエンドロールの後、次回予告がダイジェストで流れた。あ、さっき映った俳優ちょっとサボさんに似てるかも。

ピリリリリッ

さっきの俳優サボさんに似てない?と話しかけようとした時、寸秒の差でエースくんのスマホの着信音が鼓膜を揺らして咄嗟に台詞を飲み込んだ。テーブルの上にあるそれを手に取った彼にどうぞ出てくださいと目で訴える。悪ィ、と一言断りを入れて彼はキッチンに消えていった。

「───ハァ!?」

うわっ、なんだびっくりした。
サボさん似の俳優が気になって名前をググっていると突然聞こえてきた大声に大袈裟に肩が跳ねる。

「そんなのおれは聞いてねェし行かねーよ。……はァ?知るかよ自業自得だろ。お前次同じことしたら燃やすからな」

な、なんかめっちゃ怒ってる。燃やすってなんて物騒な。
電話を終えたのか、不機嫌この上ないため息を吐いて彼は戻ってきた。眉間には深い皺が刻まれている。

「どしたの大丈夫…?」

ビクビクしながら聞けば煮え切らない返事と共にガシガシと頭をかき始めて、どかりと元の位置に腰掛けた。そして再度大きなため息。

「…なんか勝手に合コン組まれてた」
「……ほう」
「おれが参加する前提で女の子集めたから来てくれなきゃ困るって…知らねェよンなもん」

なるほどイケメンは大変だと同情した瞬間だ。あれ、これってサボさんにも同じこと思ったような。

「別に合コンくらい行ってきたらいいのに」
「バッ…行かねェよ!」
「どうして?」
「どうしてって…〜ッ、興味ねェし!」

ムスッとする彼の横顔を眺める。イライラしてるなあ、このケーキ分けてあげたら機嫌直るかな。もう食べ終わりそうだけど。
エースくんの見た目ならそれはそれは引っ張りだこになるのだろうと簡単に予想はつく。むしろ彼女がいないことに驚きなのに。
彼女つくらないの?と聞けば、彼は気まずそうに目を泳がせて膝を抱えるように座り直した。膝の上に顎を乗せて少し口元を尖らせる。

「仮につくってもサボとルフィに嫉妬して面倒になるのが目に見えてる」

なるほどこれは経験談か、と私の中の名探偵が言う。ルフィくんとは実際に会ったことないけど、兄弟仲かなり良さそうだもんなあ。サボさんもブラコン気味だし。最強セコムって感じ。
うんうん、と一人納得げに頷いていれば、エースくんは「それに…」と言葉を繋げる。バチリと音が鳴ったように目が合って射抜かれるような強い視線に思わずたじろぐ。下手に逸らすタイミングを逃してしまって、顔が良いな、と語彙力の欠けらも無い感想を心の中で零していれば「なんでもねェ」と逸らされてしまった。何なんだ一体。

「…ナマエちゃんは行かねェの、合コン」
「……え、私?」

私の話って需要ある?という意味を込めての台詞に「ん」と短く返された。

「行かないよ…私も興味無いし」
「でもこの前男と飲みに来てたじゃん」
「っぐ、あれは違うんだってば」

また微妙に懐かしい話題を引っ張り出されたことに居心地が悪くなる。前に来ていたあの二度目のお誘いの連絡は結局既読は付けたものの、返信せずに終わったままだ。申し訳ないと最初は思っていたものの、どちらにせよあの人とどうこうなるつもりは無いので割り切った。

「彼氏つくらねェの?」
「……そうだね」

彼氏。その呼称で呼ばれる人物が私にいたのはもうかなり昔の話だ。臭いものには蓋をするように、幾重にも鍵と鎖をかけて閉じ込めていた記憶が脳裏に過ぎる。何年もの期間が過ぎているというのに悔しくも相手の顔ははっきりと覚えていた。それは決して恋しいとかそんな理由では無くて、虚しさ悔しさ恨めしさがごちゃ混ぜになってドロドロと煮えたぎったそういうもの。

「恋愛ほど、不毛なものって無いでしょ」

人を愛する気持ちは美しい≠ニいつか歌った歌手がいた。美しくなんかあるものか。無償の愛だなんて反吐が出る。
思わずポロリと零れた本音が嫌に静寂の中で響いた気がして、すかさず、パン!と区切りを付けるように手を叩いた。

「はい、この話おしまい!」
「えっ…おい!」
「これ以上素面で話すのはちょっとね〜」
「よっしゃ待ってろビール取ってくる」
「飲まないよ!?」

意気揚々と立ち上がったエースくんが本当に冷蔵庫から缶ビールを取ってくるから「明日も仕事なんだってば!」「いいじゃねーか一本くらい!」なんて押し問答が始まる。ギャーギャーと年甲斐もない子供のような言い合いはいつの間にか晩ご飯をエースくんの家でご馳走になるかどうかに路線変更していて、結局ビールは飲まずともご飯はご馳走になってしまった。
ようやく家を出ようとした頃にはすっかり夜が更けていて頭を抱える。本当にこんな予定じゃ無かったのに。

「色々お世話になってごめんね、ありがとう」
「ん、いーよ別に」
「また今度お礼させて」
「いいって」

大量のハーゲンダッツが入ったビニール袋がガサリと音を立てる。玄関でパンプスを履いて振り返ると壁にもたれかかるエースくんの頬は少し赤かった。エースくんはビール飲んでたもんな。

「…別にこのまま泊まっていってもいいぜ」
「とっ!? 泊まらないよ、明日仕事だって言ったでしょ」
「仕事じゃなきゃ泊まってくれんの?」
「泊まりません!」

一瞬でお母さ…お兄さまであるサボさんの顔が頭の中を過ぎったのは言うまでもない。気の抜けたような笑い声を出すエースくんの目もとはとろんとしていた。くそ、酔っ払いめ!一本しか飲んでないくせに!

「じゃあね、おやすみ」
「おやすみ」

ひらひらとご機嫌に手を振る彼に笑いながら私も手を振り返して扉を閉めた。

「……ッ、あ〜〜」

閉まった扉の向こう、更に赤くした顔でその場に崩れるように彼が項垂れたことは、私には知る由もない。




「あれ、着信来てる」

自宅に帰って、カバンからスマホを取り出せば着信が一件入っていた。気づかなかった、いつの間にかサイレントモードにしてたのかな。画面ロックを解除して中身を確認してみれば、履歴には非通知設定の文字。

思わずぞわりと背筋が凍る感覚がする。

「…大丈夫、か」

たった一回の電話。タチの悪いいたずらであればもっと何度も頻繁にかけてくるだろう。特に気にすることも無くさっさとお風呂に入って寝ようとソファにスマホを放って脱衣所に向かった。──その直後に再度、画面が着信を知らせていたのは気づかずに。

きっとこれは、長い時間をかけて固く固く封じ込めていたものを軽い気持ちで緩めた罰なんだと思う。小さな傷がやがて化膿して大きな傷痕を残すように、忌々しい呪いは知らず知らずのうちに確かに私の身を冒していた。


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