「ねえ、エース」

潮風に旗がはためく。天気は晴れ。モビー・ディック号は雲一つない青空の下、静かな航路を辿っていた。
甲板の隅で三角座りをする私。その隣で気持ちよさそうに寝転がるエースに声をかければ、気の抜けた返事と共に顔に被せてあった帽子が少しずらされた。

「気になってたんだけど、それってスペルミス?」
「あ?」
「ほら、そこの」

私が指さす先には彼の左腕。自身の名前が彫られた刺青…そこには本来含まれないはずのSのスペルが入っていた。身体に一生残るものなのにミスなんて、とは思ってはいるもののSの文字の上から×マークを重ねているため余計に気になってしまう。
エースは身体を起こして胡座をかくように座りなおすと、右手でなぞるようにそこに触れる。その横顔はとても穏やかだった。

「これは…兄弟のマークだ」
「えっ、エース兄弟いたんだ!」
「あァ、いるぜ。弟と…そうだな、こいつ≠ヘどっちなんだろうな」

ゆったりと笑う顔は愛おしそうで楽しそうで、そしてどこか切ない。柔らかく彼を照らす陽の光がより一層その微笑みを引き立てていて、私は目を細める。この船に来たばかりの頃はあんなにも殺伐とした雰囲気を連れていたのに…そんな彼が見せる表情に思わず見蕩れてしまった。話を聞きたいとせがめばエースは困ったように笑う。ある日盃を交わして兄弟となったこと、三人で海賊になる夢を抱いて傷だらけで駆け回ったこと、ぽつりぽつりとそう多くはなくとも彼はその兄弟たちの話をしてくれた。

「じゃあ今はみんな海賊なの?」
「弟はきっともう少しで海に出る」
「その人は?」
「……そうだな」

───あ。
少しだけ切なさが濃く滲んだ声音。言葉の裏にあるその答えに息が詰まった。この世界は美しくて自由なようで、ひどく残酷だ。郷愁が漂う表情も、わざわざ自分の名の中に兄弟を記すスペルがある刺青も、全てその事実を物語っていた。
この船を出てしまえば私には身を寄せる人がいない。この船に乗る人たちだけが私の全てだった。だから兄弟≠ニいう響きがとても羨ましくて軽率に聞いてしまったことを後悔する。かける言葉が見つからなくて俯いていると、ぐりぐりと動物を愛でるそれのように頭を撫でられた。

「まァあれだ、いつか弟に会わせてやるよ」
「…! 本当に!?」
「ああ。あいつは泣き虫で手がかかってな…」

そうやって笑うエースは兄の顔をしていた。本当に心配ばかりさせるんだ、という台詞とは裏腹に声は優しい。「それに」そうエースは続けてこちらを見た。穏やかな黒曜石と視線が合う。

「いつかはナマエの弟にもなる」

頭の上にあった手がするりと頬を撫でた。いつかは私の…しばらく思慮してその言葉を噛み砕くうちにどんどん顔に熱が集まる。
それって。頭の処理がようやく追いついた時、急に上から何かが覆いかぶさってきて視界が暗転した。それはエースの帽子で、慌てて脱げば既に彼は視界から消えていた。あっという間に先を歩いてしまった背中を探し出してはすぐに立ち上がる。

「ちょっ、待ってよエース!」
「そろそろ島に着くぞ〜」
「ねえ待ってってば!」

ヒラヒラと振り向かないまま手を振る彼の姿を追いかけた。
ねえエース、それって私都合よく考えていいのかな。この先の未来ずっとエースの隣にいてもいいって、そう思ってもいいのかな。

「ほら早く来いよ、ナマエ!」

振り返ったその時の彼の笑顔は、一面に広がる晴天よりも澄み渡っていて、燦々と降り注ぐ太陽よりもずっと眩しくて綺麗だった。


*****


「ナマエちゃん!」

今日は真夏日。朝にもかかわらず容赦なく照りつける日光に行き場のない憤りを募らせながらマンションを出ると聞き馴染みのある声が鼓膜を震わせた。

「おはよう、エースくん」
「おはよ」

うーん朝から笑顔が爽やか。うだるような暑さももろともせず笑顔を振りまく彼が眩しくて直視できない。なんでそんなに爽やかなの。風とか生み出せそう。

「どうしたの早いね」
「それはナマエちゃんもだろ?今日土曜日なのに」
「そうだね土曜日なんだけどねえ…」

なんでこんな馬鹿みたいに暑い日に私はスーツを着て会社に行かなくては行けないのか。遠い目をする私に慈悲なき休日出勤が課されていることを悟ったのか、大変だな…と彼は申し訳なさそうに呟いた。くっ、気遣いが心に染みる。
エースくんの方はてっきり授業なのかと思えば、どうやら人と会う予定があるとのことだった。そうだ学生は夏休み真っ只中か。かなり羨ましい。
待ち合わせ場所が私の会社の方向と同じらしく一緒の道を進んでいく。道中私の差す日傘に興味を示すので試しに渡してみたらあんまりに似合わなくて笑ってしまった。むくれる彼にごめんごめん、と軽い謝罪を口にしていると、エースくんが何かに気づいたように声を上げる。

「サボ!」

弾かれたように駆け出す先に立っていたのは一人の男の人。サボと呼ばれたその人はスマホを覗いていた顔を上げる。スラリとした手足、絹のような美しい金髪に澄んだ碧眼。うわすごいイケメン…ていうかエースくん私の日傘持ったまま!私が言うより先にエースくんの姿を見た彼は可笑しそうに笑っていた。詳しい会話の内容は聞こえないけれど日傘を指さしているからきっと私と同じことで笑っているのだろう。程なくして恥ずかしそうに頬を赤くしたエースくんが私のところへと戻ってきた。

「悪ィ、持っていっちまった」
「ふふ、いいよ」
「あー笑った。まさかエースが日傘デビューしたのかと思って大雪の心配したぜ…ククッ」
「笑いすぎだぞ。あ、ナマエちゃんこいつサボ。おれの兄貴」
「へえ〜兄…えっ!?」

お、お兄さん!?思わず並ぶ二人の顔を幾度となく交互に見返す。嘘でしょこんなそれぞれ系統の違うイケメン兄弟ってどういうことどんな遺伝子の奇跡?神様ここの兄弟だけ頑張りすぎじゃないかな。もうちょっと人類まんべんなく頑張ってほしい。
暑さと関係無いところで汗を流す私にもお構いなくエースくんはサボさんに「この人ナマエちゃん。ほら前に話した…」なんて涼しい顔で言ってのけている。ちょっと待って前に話したって何を!?

「……」
「サボ?」
「あ、ああ…はじめまして、エースから話は聞いています。お世話になっている人がいると」
「お、お世話だなんてそんな!むしろエースくんにはいつも仲よくしていただいて…」

お互い深々と頭を下げる。これからもエースをよろしくお願いします、と絵画のように綺麗な微笑みをされてしまえば、もちろんです以外の返答の選択肢が無い。すごい。イケメンすごい。

「エース、せっかくならナマエさん連れて軽く食事に行くのもいいんじゃないか?ルフィを迎えに行くまでまだ時間があるだろう」
「えっ」
「いいとは思うけどナマエちゃんこの後…」
「あ、あの、私これから仕事で」
「そうなんですか…それは残念」

眉を下げるサボさんにいたたまれない気持ちになる。厚意を無下にする申し訳なさと、仮に食事に言ってしまえば緊張で死にかける未来しか見えなかったため、その安堵感がせめぎ合った。休日出勤のばか!でもありがとう!という訳の分からない状態だ。
さっきから心理的なものに加えて暑さも相まって汗が止まらない。ハンカチを取り出すついでにスマホの時計を確認すれば、想像以上に時間が過ぎていたことにギョッとした。

「すみません、私そろそろ行かないと…!」
「えっ、もしかして引き止めすぎた!?」
「ううん大丈夫、まだ間に合うから」

余裕をもって家を出たつもりだったけれど思いのほか時間を消費していたらしい。エースくん、そしてサボさんに軽く会釈をしてその場を後にする。また機会があれば行きましょう、とサボさんが言ってくれたことにはとりあえず笑って返しておいた。
なんかすごい非日常感だったな。顔面偏差値エグすぎてドラマとか乙女ゲームの世界に行ってた気分。ホッと胸をなで下ろしながらいつもよりも早歩きで会社に向かった。


*****


その翌週、会社の会議室の一室でただならぬ緊張感に包まれながら私は座っていた。
壁に立てかけてある時計をチラ見してはゆっくりと息を吐く。今日はかなり前から計画がされていたというプロジェクトの発足に向けた協議当日。先週の休日出勤の日にいきなり課長から「今度の会議お前も出席してくれ」と世間話でもするように言われたために今ここに私は座っている。そうかあのイケメンたちと夢のような時間を過ごした代償かこれは。おかげさまでこの一週間渡された膨大な資料を必死に頭に叩き込む羽目になった。あのハゲ絶対許さん。ちなみにそのハゲは現在横で呑気に欠伸なんかしてるから本当にしばきたい。

ただの社内会議であればこんなに緊張することも無いのだが、如何せん今日は訳が違う。社外の…しかも重要な取引先が来る予定だ。今日は初顔合わせみたいなものだけれど、だからこそ今回のあり方で今後の進め方が決めると言っても過言では無くて。本当なんでこんなところに私いるんだろう、もう帰りたい。

予定の時刻をほんの少し過ぎた頃、ガチャリと背後のドアが開く。振り返るという不格好なことは出来ない。机を挟んだ向かい側に座る人たちの動作を固唾を呑んで見守った。数人いる取引先の面子…その中に金髪のウェーブがかった頭が一つ。軽く俯き加減の角度から見るそれは見覚えがあった。斜め前の席、着席して顔を上げたその人と目が合った瞬間。

「〜っサ、!」

思わず出てきそうになった名前を既で抑え込んだ。隣のハゲがこちらを見てきたのでわざとらしく咳払いを二回する。
サボさんだ…!サボさんだ!?あれっ、事前に手渡された出席者に名前あったっけ…!?ああダメだ会議資料頭に詰め込むことにいっぱいすぎて記憶が!不覚!
表情には出さないように取り繕ったものの、目が泳いでしまっているのか、サボさんはにこりと微笑まれてしまった。うう、顔が良い!

「えー、それでは皆様揃われましたので始めさせていただきます」

動揺で私は内心それどころでは無いのだが、時間と仕事というのは無情にもやってくる。静かに息をひとつついて、手元の資料に目を落とした。



…結果からいうと、会議は上手くいった。私のメンタルと引き換えに。

「あのハゲいつか絶対ぶっ飛ばす」

物騒な独り言を呟く声は己でも驚くほど地の這うような恐ろしいものだった。いつかどころかもう今すぐ殴りたい。神様30秒だけムカつく上司殴ってもいい世界作ってください、30秒だけでいいから。
人には一週間前に急に振っておきながら自分は全然資料頭に入れてないってどういうこと。そのせいで私は終始そのハゲのフォローに奔走し、メンタルをゴリゴリに削られる結果となった。あんなに胃の痛かった時間は無い。
ちなみにサボさんは驚くことに相手側のチームリーダーだった。めっちゃエリートじゃん…多分私と年あんまり変わらないよね?無能上司に爪の垢煎じて飲ませたい。いや爪の垢ですらもったいないわ。

命からがら会議室から解放されると、光の速さとも言うべきスピードで女性社員たちに囲まれた。何事かと思えばみんなが口を揃えて言っていたのは取引先にいた金髪イケメン…サボさんのことで。会議室に向かう取引先一行をみんな目にしていたらしく、彼の容姿はそれはそれは話題をかっさらったそうだ。そりゃそうなる。

「あんなイケメンがいるなんて、私もプロジェクト参加したかった〜!」

なら私と代わってくれ、なんて心の底から言いたいのを堪えて乾いた笑いだけを漏らす。イケメンを眺める幸福よりもハゲ上司を相手にする苦痛が遥かに上回るから本当に誰か変わってください。

「ナマエさん」

きゃっ、と周りの女性社員たちが短い悲鳴を上げた。振り返れば、噂をすれば何とやらを実現するように颯爽と彼がこちらに向かってくる。え、これもしかして私を呼んでる?

「さっきはありがとうございました。メンバー一覧に名前があった時からもしかしてとは思ってたんですけど、やっぱりナマエさんだったんですね」
「は、はは…そうですね…」

──痛い!視線が痛い!
「どういう関係?」と言いたげな視線があちこちから私に突き刺さっている。

「よかったら今日食事でもどうですか?ほら先週は行けませんでしたし」

ざわっと一気に周囲がどよめいた。
そんな誤解を招くような言い方ー!!違うんです、違うんですよ私とこの人はまだ一度しか会ってなくて殆ど初対面なんです決して親しい仲とかそういうんじゃなくて!そんな私や周りの動揺もお構いなしという顔でサボさんはまたあの綺麗な微笑みを見せる。そして流れるような動作で私に耳打ちをした。

「今日の19時、先週エースと一緒にいたところで」

誰にも聞こえないような小声でそれだけ伝えると、では、と背を向ける。
まずそもそも私は行けるかどうか何も言ってな…って待ってよ!呼び止める間もなく彼は自分の会社の人とどこかに行ってしまった。

ああこれから一日質問攻めなんだろうな、と残された私に出来ることは自分のこの先を憂うことだけだった。



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