Apartment & ××× 03【紫赤】 「ほらぁ、やっぱり」 「……」 「だからいっつも言ってるじゃん。喉で声止めたらだめだって」 「……あつし、煩い」 いつもの凛とした声……ではなく、がさついた声。むっすりしている赤ちんは幼くて可愛らしいけど、喉は自業自得だから仕方がないことだ。 案の定赤ちんは声が出なくなってしまう一歩手前まで来てしまったらしい(あのあと少し眠ってまた盛ってしまったのだから仕方がないかもだけど)(そのときも声を我慢する悪い癖は発揮されてた)。 「てゆーか、昨日言ってたことなんなのか聞くの忘れてた」 「昨日の? なにか言っていたか?」 「俺の方がひどいって。なんでか考えたけどやっぱりわかんねー」 行為にもつれ込む前に言われたこと、魚の骨みたいに喉に突き刺さってとれずに残っていた。あの時の顔はあまり赤ちんにとって良くないことの方が多い。多分だけど、俺が傷つけた、と、思う。なんであんな顔をさせたか本当に分からないからもう本人に聞くしかない。 「……どうだったかな、忘れてしまった」 「え、絶対覚えてるじゃん」 「忘れてしまったんだよ、本当に」 「赤ちんが忘れるわけねーし」 「敦」 「だって……、」 諌めるように名前を呼ばれたけど、あんな顔したのに忘れるなんて絶対ない。すぐにばれる嘘なんてつく方が悪いじゃん。もう何年一緒にいると思ってるんだろ、まだまだ分からないことだらけだけど放っておいちゃいけないかどうかくらい分かるし。 「昨日のことはお互いにもう言わない。喧嘩した日のこととか引きずるものじゃないよ」 「……」 「それよりも今日を楽しませて欲しいのだけど?」 赤ちんの手には市販のホットケーキミックス。一緒に作って仲直りしようということらしい。赤ちんが赤ちんなりに昨日のことを払拭しようとしているのなら俺はもう分かったと言ってそれの手伝いをするしかない。 大きいボールにたくさんの粉を入れて牛乳に卵に。ダマにならないように、でも早く混ぜる。その間に赤ちんが生クリームを用意してくれて、話も弾んだ。会ってなかった時を埋めるようにして一日一日なにをしていたか聞いていく。覚えてなかったら手帳まで出して、その間にホットケーキが焦げちゃったりして。 その日一日のんびりと同じ時間を過ごす。本を読んでいたりお菓子食べてたり、していることは別々だけど、ふと顔をあげると赤ちんがいるということだけで満たされた。手を伸ばすと温かさを感じられるのが安心した。笑う優しい顔を見ると、昨日浮気だと言ったのは少し言い過ぎだと思って謝りたくなったけど、昨日の事をぶり返すときっと赤ちんは怒るから言うのを我慢。 「風呂、入ってこようかな」 「んー」 「自分のところで入るよ」 「え!」 「メールチェックもしたいし明日の用意もしないといけない。あとで戻ってきてもいいか?」 「どーぞ。ご飯作っておくから。あ、今日も一緒に寝ようね」 「もちろん」 じゃあと言って赤ちんはするりと自宅に帰っていった。 ふむ、これは良い空いた時間になった。赤ちんが出ていってから食事の下準備。きっと赤ちんは和食が食べたいって言うだろうから味噌汁と生姜焼きとおひたしくらいでいいかな。今日はホットケーキ作りすぎて赤ちんすごいいっぱい食べてたからそんなに夕食摂るとは思えないしこれくらいでもいい。 一通り終わると部屋の鍵を閉めて共有リビングに行く。そこにはやっぱりお目当ての人がそこでパソコンに向かっていた。 「黒ちんやっほー」 「おや、紫原くん。こんばんは」 「原稿ちゅー?」 「はい。でも締め切りまで時間がありますから」 黒ちんの締め切り前は本当にすごくて、自分の部屋にいると電話がかかってくるのが怖いからって携帯を置いて共有リビングで仕事をするときとかある。死んだ魚の目でパソコンの画面を見る黒ちんにようやく最近慣れてきたけど、やっぱり一声かけて心積もりしておかないといきなりあの表情になられたら怖い。本人曰く、「人間を捨てないと締め切りなんて守れない」らしい。 「あんね、今時間ある?」 「大丈夫ですよ。珍しいですね」 「んー、実はぁ」 あれがあーで、これがこーで、それでこうなって。 人に説明することはすごい苦手だけど、俺なりに一生懸命頑張って話した。黒ちんは話を書く人だからか知らないけれど俺の拙い説明でもしっかりと分かってくれる。とりあえず俺は赤ちんに「酷い」といわれた理由を知りたくて仕方がなかった。彼に酷いと言われるようなことをしてしまっている自分が許せなくて、でもそれがなんなのか見当もつかなくて無力で。黒ちんは赤ちんと通ずるところがあるらしくて分かるかなって。みどちんも分かりそうだけど聞くのは嫌だ(だってみどちんと赤ちんはすごく仲が良くて妬ける)(黒ちんもだけど、こっちは俺が妬いてるって自覚を持ってくれてるからまだいい)。 「酷い、ですか」 「そー。俺なんか酷いことしてる? してなくねー?」 確かに酷い酷いって最初に言ったのは俺だけど、浮気してるって怒っちゃったのも俺だけど……。けど、そんなことで赤ちんは怒らない。また言ってるって感じで相手にしてくれない。 「これは言っていいものか分かりませんが、答えが分からないと紫原くんがずっと考えてショートしそうなので言いますね。多分、ですよ?多分赤司くんは考え方が酷いと言ったんでしょう」 「考え方?」 「赤司くんは自分の大切なものが増えている自覚があります。昔だったらきっとそんな事決して言わなかった。でも、美容師の道に進んで店を持っていろんな人と関わって大切だと思うことが増えた。貴方は赤司くん以外大切なものがない」 「うん」 「ここまでで分かりませんか?」 「え、考えるとこあった?」 黒ちんははぁーと長く深いため息をついた。でも黒ちんが言っていることは正解だからなんも考えるとこなかったじゃん。 赤ちんは美容師仲間が大切だと言ったし(それは寂しいことだけど仕方がないと頭では分かっている)俺は赤ちんだけが大切。赤ちんがいるから俺がいる、出会った時からこの考えは変わっていない。 「じゃあもう少し。紫原君は仕事仲間が好きですか?」 「うん好きー」 「もしその人たちと会えなくなったら、仕事が出来なくなったらどうですか?」 「え、寂しい」 室ちんたちに会えなくなるのはそれは寂しい。でも赤ちんまでとは……いか…ない? ん? でも、仕事出来なくなっちゃったらやだ。会えなくなるのはやだ。みんなで新作考えたり、店の改装したいって目標額決めて頑張ったりするのは楽しいし好き。全部なくせって言われたらとても悲しいことだ。 「大人になったら大切なものも増える。どれが一番だなんて言えないほどに」 「……」 「盲目は一見ロマンチックですが、残酷な一面もあります」 「……だから赤ちんは俺に酷いって言ったんだね」 ――敦は酷いね。大切なものをたくさん持っているくせに俺だけなんて嘘をつくんだから。 「酷い」の意味を理解した瞬間、分からなかったとはいえそんなことを暢気に言ってしまった自分を殴りたくなった。大人になりきれていない自分に自覚はあったけれど、別に不自由してないしなりたい願望もなかったからどうとも思わなかったけれど、初めて子供みたいな自分の考え方に嫌気が差した。 その嘘は赤ちんの表情を歪めるのに十分な破壊力を持っていた。 「一番」だなんて選べないほどいつの間にか大人になっていた。赤ちんはそれに気付いていたのに俺だけ気付いてなかった。そんなの、残酷だ。残酷な嘘をついた。 「まぁでも、赤司くんもそのときは口を突いて出てきてしまっただけで今はそこまで気にしてないかもしれませんし」 「赤ちんにあんな顔させたっていうのがもうあり得ねーの! しかも一番赤ちんのことよく分かってる俺が!!」 頭を抱えてぐるぐるとやってしまったことを悔いる。 いつまでも赤ちんしか要らないと思っていたけれど、いつの間にか俺にも大切なものっていうのが出来てしまっていた。今からそれを切り離すなんて考えられない位それは自分の中に浸透してしまっている。 「敦? 良かったここにいた」 「赤司くん、こんばんは」 「こんばんは、その様子だと締め切りはまだ先なようだね」 「正解です。まだまだ時間があるのでゆっくり仕上げようと思って」 「ふふ、あまりゆっくりしてまた締切前に人間を捨てないようにね」 「善処します。あと紫原くんをお返します」 「ありがとう。敦、もう少しここにいるかい?」 「帰る」 首を振ってそのまま黒ちんの居るリビングをあとにして自分の部屋に帰る。 「ご飯、ありがとう」 「んーん」 「俺が温め直しておくから、敦も先に風呂に入ってくる?」 「んー……そうする」 「? 敦、元気ない?」 するりと手が俺の顔を包み込んだ。 熱はないようだけど、と額に手を当てて心配してくれる。今言うべきか、このまま言わないでおくべきか迷った。赤ちんが蒸し返すの嫌だって言ってたし、これ以上言うと怒るって目で訴えてきてたから。でも、でも。 「あのね、赤ちん」 「うん?」 「怒らせるかもしれないけど、言わせて」 「……」 その言葉で赤ちんはすぐに昨日の事だと分かったらしく、顔を包み込んでくれていた手はスッと引いて、料理を温め始めた。 そんな喧嘩した日の事を引きずるものじゃないと言っただろう、分からなかったのか? この駄犬め、と背中で言っている。コンロの前に行った赤ちんの後ろに行って先程の話を思い出してため息をついた。 「赤ちんが俺に酷いって言った意味、わかったよ。俺ひとりじゃどうしても分かんなかったから黒ちんに教えて貰っちゃったんだけど」 「……そう」 「大切なもの、俺にもいっぱいできてたって初めて気付いたの。俺には赤ちんだけ居てくれれば生きていけるって思ってたのに、いつの間にかいっぱいのものを背負ってた」 このアパートの住人、店、同僚、客、すべての人に認められていまここに立つことが出来ている。赤ちんと堂々と一緒に居れる男になれてるつもりだ。ここまで成長できたのはみんなのお陰だということもよく理解してる。今日、本当の意味での理解をしてしまった。 その人たちに支えられていて、その人たちのことをとても大切に思っている自分がいるということを。 「敦、俺は敦のことが好きだよ。一番ね。でも、敦を中心として動けない」 「うん」 「敦にどうしても仕事を辞めろと言われても、仕事を辞めないと別れると言われても辞めるか分からない。今の僕は美容師であり続けることに自分の存在意義を見出だしているから」 「うん」 「敦がパティシエとして成功していくのは嬉しかったけれど、怖かったよ。ああ、敦にも僕以外にも大切なものが出来てしまうのか……ってね」 赤ちんは分かってたんだ。その時から俺の大切は赤ちんだけじゃなくなってしまうということ。自分のことなのになんの疑いもなく大事なのは赤ちんだけだと思い続けてた。最低だ。 「ごめんね、俺、赤ちんだけを大切に思えなくなってた」 「それが大人になるってことだよ。俺も敦だけを大切に思えない」 「……それは、すごく悲しいことだね」 大人になったから、大切をたくさん持たなくちゃいけなくなった。それらが要らないわけじゃない。俺を構成するだ大事な大事なものだし、これからも大切にしていきたい。 でも、そうやって取り巻くものを大事にして、自分から大切にしたいって思った赤ちんのことが見えなくなるのがすごく寂しいし悲しい。 「でも、敦は僕を一番愛してくれるだろう?」 「赤ちん、」 ようやくこっちを見てくれた赤ちんは、なにを泣きそうになっているんだ、って頬を撫でてくれた。 「髪を切るのは誰がいい?」 「赤ちんじゃなきゃ嫌だ」 「一緒に眠るのは?」 「赤ちんと眠りたい」 「例えば、この世の最後が来て一人誰かと共に過ごせるとしたら誰と過ごしたい?」 「赤ちんとがいいに決まってる」 そんな当たり前なこと聞かないで。全部全部赤ちんとかいいよ。 「誕生日を忘れずに祝ってくれて、記念日を一緒に祝ってくれて、そうやって愛してくれるだけで十分だよ」 「……、」 「大人になることは枷が増えていくことと同義だ。けど、枷の分、羽根も強くなっていく。子供の頃はこうやって一緒に過ごせなかった。自分の感情をコントロールできなかった。敦を護る手立てがなかった。今は違うだろう? お互いの距離感も分かっている」 「うん。赤ちんが怒るライン分かってる」 「ふふ、そうだね。そうやって成長していることが大人になるってことだよ」 大人になって背負うものが増えたと気付いた瞬間、その分赤ちんを護りたいとより一層思った。重いものをお互い背負っているなら、俺の方が大きい身体してるんだから小さい体で頑張ってる赤ちんの事を俺が護ってやるんだって思った。 赤ちんもそれは一緒なんだろうか。そうだとしたら俺は護られるほど弱りたくはないけれど、その気持ちがむずかゆくって気恥ずかしくて、なんだかとっても嬉しい。 「大人になるって、悪いようで、悪くないね」 「うん、そうだね」 「……大切なもの、いっぱい増えたけど一番は赤ちんだからね」 「うん。僕の中の一番も敦だよ」 「今まで気付かなくてごめんね、傷つけてごめんね」 あんな顔をさせてしまってごめんね、と謝罪の意味を込めて額にキスをした。 「でも敦は分かろうとしてくれた。それだけで十分だよ。ありがとう」 そのお返しというように赤ちんは俺の頬にキスを落としてくれた。 抱きしめ合って、お互いの体温を感じて、同じ気持ちを共有して、これほどまでに幸せになるのはきっと今後赤ちんだけだと思う。他の誰でも味わえない幸福感だ。 「お風呂後にするから、先にご飯食べよっか」 「ああ。あっさりしたもので助かるよ」 二人で食卓に並んで手作りのご飯を食べる。そんな日々を積み重ねていきたい。 小さな幸せを積み重ねていけば、どんなに大変なことがあってもどんなに大切なものができても赤ちんを見失うことなく生きていけると確信してる。 ああ、今日のベッドもあたたかい体温があると思うと自然に笑顔になる。 <了> |