ぴんと弾けもしないピアノの鍵盤を叩く。
今では黒い色がちょっと剥がれかけてくすんでしまったけれど、昔はぴかぴかと光って傷一つ無かった生まれたばかりのピアノだった。
今でも好きだ。もしかしたら、今の方が好きかもしれない。やっぱり弾けはしないのだけれど。空間へ消えていく音。次々鍵盤を叩く。昨日切りすぎて深爪の人差し指と鍵盤の白。
やがて、ひとつの鍵盤の音が鳴らないことに気づいた。うんともすんとも言わない。ひとつ足らない音。
「…壊れちゃったかな」
わたしの声だけが響く。
「ぬぬ?誰かいるのか?」
脳天気な声。聞き覚えがある。ひょこと床下から顔を出した人物に私は瞬きをした。
「翼?」
「ぬ?」
「…なんでいるの?」
床下から手をついて地上へ足を着けたのは翼だった。目の前で翼がくしゃみをした。
床下から出てきたよ、この子。確かに、下は地下室になってるけどさ。
鼻の頭が汚れている。
「俺の発明品追っかけてたら、ちょうど開いてた穴に落ちたのだ!ぬはは!びっくりした!」
「いやいや、こっちがびっくりだよ」
穴っていうか、それ、地下室への入り口でしょ。
「うん…真っ暗で怖かったのだ…」
そして、眩しそうに目を細めて、翼の眉が下がった。
目を瞬かせる。
真っ暗で、怖くて、寂しくて、何の音も聞こえない。誰も、いない。そんな空間。彼は昔を思い出してしまったのだろうか。ひとりだったあの頃を。
突然、翼が顔を上げた。
「でも、今はひとりじゃないから寂しくないのだ!」
ぬははは!と彼は笑う。
笑えない。十中八九、彼は思い出してしまったのだろう。それをごまかすように笑う。この笑顔はきっと嘘だ。いつもの笑顔じゃない。目だけが違う。どこか、何かに迷っているような。寂しいような。そんな、目だ。
彼の両手は空っぽのまま。
「翼」
「ぬ?」
「ここ、出よう」
がしりと翼の手首をつかんで引きずりながら走り出す。
彼はわたしより体が大きいから引きずってしまうのだ。ごめんね。口には出さないけれど。
手首と私の手のひらをつないだまま、わたしは駆けていく。ぴたりと足を止める。彼の足が突如として止まってしまったから、走るのがしんどくなったのだ。手のひらを自由にする。彼の手首もこれで自由。翼の顔が下を向いている。どうかしたの?と声をかけようとしたら、がばりと顔をあげた。
「?」
そして数歩下がり、何かを心に決めた様子だ。
「ぬーん!!」
彼独特の掛け声と共にがっしと腕へ閉じ込められる。悲鳴にならない悲鳴を上げたが、びくともしない。彼はよく人に抱きつくし、わたしも慣れっこだが、重い。身をよじりながら、気づいた。ちょっとだけ震えているのが。彼は本当は怖がりで寂しがり屋だ。わたしと同じで。
「寂しいも怖いのも苦しいね」
白かったブラウスが黒ずんでいる。これも決まっていたことなんだろうか。
いつかのピアノが鳴らなくなってしまったのも。
「翼、連れてってあげて」
わたしがあなたをわたしの未来には連れて行ってあげられない。彼には彼の未来がある。
「…ぬ?」
「寂しくない未来に自分で自分を連れて行ってあげてよ」
彼の隣に私がいられる保証はないのだ。ずっと一緒にいるなんて弱い私は言うことができない。
だから、
「嫌だ」
「嫌だってあのね…!」
「きみも来るのだ」
「は?」
「行くのだぬーん!!」
そう言って坂道を走り出した。しかも下り坂。転がるように足は止まらなかった。強い風を頬に受けながら、彼は笑っていた。
そして、叫ぶ。
大きな空に向かって。
「俺が放しはしないのだ!」
彼の言葉にもう何も言えない。目をぱちくりさせて、そっかと私は呟いた。なんだか温かいものが湧き上がる。いつの間にか、笑えてきてしまった。
坂道を下りきって、もっと遠くもっと遠い遠い未来を走っていたい。
未来はそりゃあ不確かで。そりゃあ不安はありすぎるくらいある。今はまだ考えなくてもいいかな。なんて思っている自分がいた。
スパイダー
寂しがりやは未来を紡ぐ
(翼、ピアノって直せる?)
(ぬ?)
○企画 星にkissして、俺のすべてを君にあげるさまに提出
曲を聞きながら書いてみました スピッ/ツ好きです
20110420
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mokuji