小さな手を目一杯上に掲げて、私はピースサインをつくった。周りの女の子はみんな同じように腕を伸ばして手のひらを広げていた。五人、白雪姫役に立候補した女の子の中で、ピースもといチョキを出したのは私だけだった。

「白雪姫役は梨々ちゃんに決まりました!」

 優しい先生がニコニコしてそう言った。幼稚園の時、私は初めてお姫様に選ばれたのだ。嬉しくて嬉しくてその日はずっと鼻歌を歌ってスキップなんてしちゃったりして。幼稚園から帰ってママに自慢げに報告した。一ヶ月後のお遊戯会では、私は赤いリボンのカチューシャをつけて裾の長いドレスを着て、白雪姫を演じた。みんなが「可愛い」と、「本物のお姫様みたい」と言ってくれた。幼稚園児の頃の記憶なんてあまりないのにこのお遊戯会のことだけは何故か鮮明に覚えている。あの時、私はたしかにお姫様だった。
 私はお芝居が大好きになった。お芝居はいい。舞台の上では何にだってなれる。現実のことなんて全部忘れられるから。



 午前の授業が全て終わると、私はクラスメイトのサヤちゃんと女子トイレに向かった。お昼ご飯前にトイレに行くのがなんとなく日課になっていた。

「えっ、タカシくんと別れたの!?」

 個室から出て手を洗いながらサヤちゃんに昨日の話をしたら、トイレ中に響くような大きな声でおうむ返しをされた。私は鏡越しにサヤちゃんと目を合わせてコクンと頷く。

「もったいない、優良物件だったのに……」
「だって、王子様じゃなかったんだもん」
「梨々、まだそんなこと言ってるの?」

 サヤちゃんは一瞬呆れた顔をして、ポーチから取り出したビューラーでまつ毛を思いっきり挟みながら続けた。

「梨々って本当夢見がちだよね、かわいいけどさー。現実も見ないと。運命の赤い糸なんて無いんだから」
「そうなのかなぁ……」
「どこかで妥協しないと、おばさんになっても王子様を待ってたら痛くない?」

 ビューラーから解放されたサヤちゃんのまつ毛がくるっと上がった。サヤちゃんは私よりしっかりしていて、大人っぽい。というか、私が子供っぽいのかもしれない。
 確かに彼女の言う通り、もし、もしも、このまま王子様が現れなかったら、私はおばさんになってもおばあさんになっても今の調子で王子様のことを夢見ているのだろうか。独りぼっちで。想像するとちょっと恐ろしい。
 女子トイレを後にして教室に向かいながらまだ私たちは飽きもせず雑談に花を咲かせていた。

「そういえば、今年の演劇祭、日々樹くんがゲストで一緒にやるらしいよ」
「日々樹くんってあの日々樹渉くん?」
「そう、fineの。そして演劇部部長の」

 日々樹くん。日々樹渉くん。演劇科にいてその名前を知らない人はいない。アイドル科に所属していながらも、演劇の才能を存分に発揮し多岐に渡って活躍している生徒だった。演劇科の生徒には、彼を崇める人もいる。嫉妬に燃えている人も少なくはない。
 そんな日々樹くんが、毎年演劇科が外部の会場で行っている演劇祭で、今年ゲストとして参加してくれるというのは紛れもなくビッグニュースだった。日々樹くんが出演するとなれば観客の入りもいいだろう。

「忙しそうなのに、すごいね」
「ね。練習は来週からだけど、仲良くなったらアイドル科の男子紹介してもらえたりして!」
「サヤちゃん、アイドル好きなの?」
「そりゃあ、うちのアイドル科は将来有望だから」

 サヤちゃんはまつ毛がくるくるの目を輝かせて嬉々とした声で答えた。私はあまり興味を持てないまま、自分の席に座る。

「梨々って意外とアイドル興味ないよね、好きそうなのに」
「だってアイドルってみんなに愛を振りまくでしょ?私は私だけの王子様がいいの〜!」
「うわ、メルヘン」

 サヤちゃんは前の席からこちらを向いて、呆れたように頬杖をついた。
 確かに周りの女の子はみんなアイドルに夢中だ。王子様のような見てくれをしたアイドルも大勢いる。でも私はアイドルにハマれない。何人ものファンに対して「愛している」だとか陳腐な愛の言葉を投げて夢中にさせて、まるで偽物の王子様だ。私はただ、私のことを見つめて私に対してだけ愛を向けてくれる王子様と出会いたいのだ。
 鞄からお弁当を取り出して広げるサヤちゃんを見て、思わず「あっ」と声が出た。今日お弁当持って来ていないんだった。いつもはママがとびっきり美味しいお弁当を作ってくれるけれど。なんとなく、ママに甘えるのを止めようと思って、お弁当は要らないと豪語して家を出て来てしまった。

「購買でパン買ってくる!」

 サヤちゃんに言い残して私は教室を出た。少しだけ駆け足で購買へ向かう。お昼の時間は廊下も中庭も、学院中が賑わっている。これだけ多くの人がいるのに私はまだ王子様と出会えない。
 購買にたどり着き、様々な種類のパンを吟味していた。今日はアップルパイにしようと考えていたその時、同じようにパンのコーナーで立ち止まっている人を見かけた。
 何気なく、横顔を覗いたその瞬間、私の頭の中にヴィヴァルディの『春』の絢爛豪華なヴァイオリンのメロディが響き渡った。その人は、ひどく端正な横顔をしていた。儚げな視線の先には、クロワッサン。そしてブレザーの下には、他の生徒とは違った、まるで異国の貴族が着るようなフリルがあしらわれたシャツを着ている。その姿はまさに……。

「王子、様……?」

 ハッとして口に手を当てる。心の声がそのまま出てしまっていた。私の声が届いたのか、クロワッサンを乗せたトレイを片手に持った王子様(仮)がこちらを向く。その刹那、綺麗なアメジストの瞳と目が合う。びびび。そんな音を立てて私の小さなハートに電流が流れた。正面から見てもあまりに美しすぎる顔の造形は、イケメンというよりもエキゾチックな美形という感じだ。私は自分の顔が熱くなるのを感じながら、立ち尽くしていた。

「何かね、人の顔をじろじろと見て」

 王子様が怪訝そうな表情で私に声をかけた。眉に皺を寄せたその顔すら美しくて見惚れてしまいそうになる。ただ、見つめれば見つめるほど、その顔に苛立ちが表れてくる。

「聞いているのかね?」
「あっ、ごめんなさい……」

 俯いて謝ると、王子様は背中を向けてその場を立ち去ろうとした。待って、行かないで。あなたのことをもっと知りたい。そんな焦りが募っていく。

「あ、あの……!!」

 咄嗟に声を上げていた。王子様は振り向いて私をきつく睨む。

「さっきから何だねッ、用件があるのなら伝えたまえ」
「あなたは、私の王子様ですか?」
「は?……頭でも打っているのか?」

 王子様は戸惑うような、そして真剣に私を心配しているかのような顔で言い返した。私はまた赤面する。いけない、私の悪いところだ。すぐに自分の世界に入ってしまってそれを当然のように人にも押し付けてしまう。何か訂正する言葉を紡ぎ出そうと必死で考えていると、王子様が口を開いた。

「そんな風に呼ばれたのは初めてなのだよ。帝王と称されることはあるけど……それももう過去の栄光だしね」

 そう呟くと、王子様は去っていた。後半は何のことを言っているのかよくわからなかったけど、ほんの一瞬だけ、寂しげな表情をしたような気がした。何かを憂いて悔いているような、そんな顔。私の心臓はまだ忙しなく動いていた。
 アップルパイを購入して教室に戻ると、サヤちゃんはお弁当のウィンナーをつつきながら「遅かったね、混んでた?」なんて聞いてくる。

「サヤちゃん、あのね、王子様と出会ったの」
「はぁ?ちょっと、もしかしてまた一目惚れ!?」
「今回は本物!どう見ても王子様だった!」
「いやそれ聞くのもう五回目くらいなんだけど……」
「また会えるといいなぁ、私の王子様」

 遠い目をするサヤちゃんのことはお構いなしに、名前の知らない王子様の顔を思い浮かべながらアップルパイを頬張った。甘酸っぱい味が口いっぱいに広がって、恋の始まりを告げているようだった。


20210924