◎イベントストーリー『エレメント』の内容含む


 目の前のドアが開くのを待っていた。
 行儀悪く地べたに座って、もうずっと。とっくに登校時間は過ぎているし、こんな昼間にマンションの一室の前に居座る女子高生を通りすがりの人は怪訝そうに見るし、スカート越しに伝わるタイルの感触は固く冷たいけれど、そんなことは些細でどうでもよくて、重大なのはこのドアが開くかどうかということだけだった。
 イヤホンで大好きな曲を聴きながら、スマートフォンのロックを解除する。画像フォルダをタップした瞬間、存外あっさりとドアが開いた。私はとっさにイヤホンを外し、出てきた男の顔を見上げた。その男、宗は私を見つけるなり、あからさまに顔をしかめた。予想通りの反応だ。

「おはよう、宗」
「地べたに座るな、はしたないのだよ」
「えっ、パンツ見えてる?」
「……いつからここにいた」
「えっと、みかちゃんが学校行く前からかな」
「そんな朝から…君には常識というものがないのかね」
「高校生がずっと学校を休むのは常識なの?」
「いいから早く立ちたまえ」

 ドッヂボールのような会話の末に、スカートをはたきながら立ち上がると、宗の顔がよりくっきりと見えるようになった。制服を着た彼を見るのはいつぶりだろうか。西洋の貴族を彷彿させるような装飾が施された手作りのシャツを見て、ほっとする。よかった。宗はまだ、宗のままだ。

「宗と登校したくて待ってたんだよ」
「迷惑なのだよ、全く」

 ため息を一つ吐いて歩き始めた宗の後ろに続く。音楽プレーヤーを停止し、画面が暗くなったスマートフォンと一緒にブレザーのポケットに押し込んだ。
 エレベーターに乗って一階まで下がり、エントランスを出ると、高い陽が眩しかった。光を浴びる大きなマンションは、男子高校生が二人で暮らすには豪勢な気がする。アイドルとはそういうものなのか、はたまた宗の家柄に依るものなのかは分からないけれど、宗もみかちゃんも当然のようにここを家としていた。宗が学校を休んでいた数ヶ月間、ここで何が起こっていたのかは知らない。想像するのは諦めた。
 学校に向かう宗の足取りはいかにも重そうだった。何とか地を踏んで歩いているけれど、目を離した瞬間に倒れてしまうんじゃないかと大袈裟な不安に駆られる。宗がどうしてこんな思いしなきゃいけないの。思わず唇を噛み締めた。こういう同情を彼は一番嫌うのを知っているから、胸を焦がす本音を押し殺して私は歩く。

「久しぶりだねぇ、学校。大丈夫?授業ついていける?」
「君にだけは心配されたくないね。普通科は芸能活動のあるアイドル科と違い、出欠に厳しいのだろう?それなのに毎日僕を待ち伏せるなんて、呆れるよ」
「じゃあ今日宗が出て来てくれたのは私のため?」
「自惚れるな」

 宗の口元が少しだけ緩くなるのを見た。石膏のようだった表情に柔らかさが出て安心する。それでもなお、今の彼を支配する感情は恐れと怒りと果てしない虚無感だろうけれど。
 私は彼を暗い井戸の底から引き上げる術を知らない。ただ、慰めの花を降らせるだけだ。そして宗を落とした人間がもっと深い井戸に落ちるのを健気に祈っている。お願いだから、地獄に落ちて。
 しばらく当たり障りのない会話をしながら足を進めていたら、学校の前まで来てしまっていた。大きな校舎が待ち構えている。木々がゆっくりと揺れた。アイドル科と普通科は入り口が違うから、もうここで宗と離れなくてはいけない。私はまだ不安だった。これから宗が一人になって向かうのは天祥院英智と同じ教室だ。

「宗、じゃあ、また後でね」
「また後で?僕は勝手に帰るのだよ」
「やだ、また会いたい」

 宗の安否を確認したいからとは言えなかった。大丈夫だ、大丈夫に決まってる。そう思っても私は宗がいなくなってしまう想像ばかりを繰り返していた。今日放課後に宗に会えなければ、もう一生会えない気がする。怖い神様に連れて行かれてしまうような、そんな気がした。

「…君、妙だね、今日」
「…そんなことないよ?」
「まあいい。僕はもう行く。君も急ぎたまえ」
「うん、じゃあね」

 宗がアイドル科の校舎へ進むのを見送った。その瞬間、自分の顔から笑みが剥がれ落ちた。本当は私の方がずっと、石膏で固めたような顔をしていたことを思い出す。
 踵を返して、普通科の校舎に向かいながら、ポケットに入れたスマートフォンを取り出しパスコードを入力した。さっき開けたままの画像フォルダが表示される。いくつもの写真には、同じ人物が写っている。fineのライブを最前で観ている女生徒が。スクロールしながら自分の胸に怨恨が積もって溢れ出しそうになるのが分かった。私は酷く、この女を憎んでいる。
 あの日、Valkyrieの音響を切ったのは、この女だ。その事実だけで私は発狂してもいいはずだった。怒りが込み上げ衝動的にスマートフォンのホームボタンを強く押し、女の姿を視界から消す。すると代わりに、待ち受け画面には三人の見目麗しいアイドルの画像が表示された。きっともう同じステージに並ぶことのない三人。大好きだったValkyrie。私はスマートフォンを再びポケットにしまい、自分の教室へ続く道を歩いた。

 あの日まで、宗は学院で一番のアイドルだった。誰よりも光の当たる場所に立っていた。彼の生み出す芸術は、観る者すべてを魅了した。大きなステージで、踊り、歌う彼らに、拍手の嵐が巻き起こった。宗の才能と努力は、教師から賞賛され、芸能界から評価され、彼には輝かしい未来が約束されていた。そう、あの日までは。

 教室に着くと、生徒は不在で、静寂だけが留守番していた。今は体育の時間だ。机の一つ一つに生徒の制服が置かれている。ある席は無造作にだらしなく、ある席は几帳面に折りたたまれて。私が向かうのは自分の席ではない。廊下側から二番目、最後列の席の前で立ち止まった。綺麗にたたまれた制服、そこにfineのロゴが入った缶バッチが付いている。あの女の席だ。故意にその光景を目にしたはずなのに、気がおかしくなりそうなほどの鬱憤が溜まっていくのをひしひしと感じる。
 …てきだ。敵だ。敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ。宗を傷つけるやつは敵だ。宗を不幸にするやつは敵だ。宗に呪いをかけるやつは敵だ。宗を、地獄に、落とそうとするやつは、みんな敵だ!!
 私は自分の鞄の中に用意していたカッターナイフを取り出し、鞄を放り捨てた。カッターの刃を三センチほど繰り出し、その鋭利さを確認して、思いきり振りかぶった。全部裂いてしまえ。無様に壊れてしまえ。宗がされたように。目を瞑り、勢いよく下ろそうとした。その刹那、カッターナイフを持った手首を強い力で掴まれた。目を開ける、目の前の制服は綺麗なままだ。私は私の手首を掴む人間の正体を確かめるべく振り返った。すると、見慣れた菫色の双眸が痛いほど鋭く私を睨みつけている。

「宗…」
「何をしているッ」

 どうして宗が普通科のこの教室にいるのか。そんな驚きは、私の手首を掴む宗の手の力の強さに掻き消された。細い腕で、力なんて大して無いくせに、決して離すまいと、痕ができそうなほどの握力をかけて掴んでくる。何もかもをその指の隙間から落としてしまった手で、懸命に。

「制服を破くんだよ、離して」
「馬鹿な真似をするな」
「どうして?宗がされたことよりずっとマシでしょ」
「やめるのだよ」
「なんで止めるの、宗だって憎んでるくせに!」
「君はこれ以上Valkyrieの品格を落とす気か!」

 宗の怒鳴り声は空っぽの教室に、そして何より私のおかしくなった頭に響いた。彼のこんなに大きな声を耳にしたのは初めてだった。掴まれた手首がじんじんとして痛い。痛いよ、宗。
 私がValkyrieの品格を落とす…?まさか。違う、そんなんじゃない。私がしたいのは。

「私はただ、宗のために、」
「僕のためだと?」

 宗の眼差しはより強く、激しい怒りを宿して、私に向けられた。そして言葉に勢いをなくした私とは対照的に彼は言葉に熱を乗せていた。

「そんなことで僕が喜ぶとでも、救われるとでも思ったのか…?君のしようとしていることは、やつらのしたことと同じじゃないかッ!君は人を傷つける理由に僕を、Valkyrieを使おうとしているだけだッ!」

 その声は鈍器となって私の後頭部を思いきり殴った。思考が鈍くなり、返す言葉が見当たらない。理解したくなくても理解できてしまうし、納得なんて死んでもしたくないけれど、私は宗の言葉に納得することを強いられていた。本当は分かっていた。彼の言う通り、私はあの女と同じことをしようとしていたのだ。宗が軽蔑の目を向けるようなことを。でも、だって。

「だって、悔しい」

 声にした瞬間、緊迫感が熱湯に入れた氷のように溶けていくのを感じた。手の力が抜け、カッターナイフがすり抜けていく。音を立てて机の上に落ちた。刃は机の表面をかすったけれど、制服は依然として綺麗にたたまれたままだ。
 宗から解放された右腕を力なく下ろし、首も同じように垂らした。涙が出た。涙腺が馬鹿になったみたいに溢れ出た。これはどこで生まれたものなのだろう。脳みそだったか心臓だったか。身体全身から押せ寄せてきた。

「悔しい、悔しい、くやし、い…」

 言葉にすればするほどその感情が濃くなっていく。支配されていく。涙が止まらなくなる。もう何も見えなくなってくる。
 膝が震え、立ち方が分からなくなり、よろけるようにしゃがみこんで床に膝と手をついた。宗が履いている革靴のつま先がすぐ目の前に見える。そのまま地面に向かって何度も何度も「悔しい」と吐く。声にならない声で、惨めに泣き続ける。

「ああ、僕も悔しい」

 上から降ってきた声は、確かな重みがあった。悲しそうで怒っているようで、それでも私をなだめる声だった。宗は私と違って現実を受け入れているのだと、その言葉を聞いて思った。宗は私よりもよっぽど傷ついているのに、私よりもずっと正しく、地をしっかりと踏んで立っている。折れそうな脚で真っ直ぐに立っている。誰よりも光の当たる場所から追放され、こんな薄暗い日陰に来ても。あの日までと変わらず立っている。それがより私の胸を締め付けた。
 私は宗の革靴のつま先に額を押し付けて泣いた。ただ泣いた。宗がかわいそうで泣いた。自分が不甲斐なくて泣いた。強い宗が愛しくて泣いた。弱い自分が忌まわしくて泣いた。神様が、許せなくて、ただずっと泣いていた。
 もうすぐ授業が終わる。クラスメイトたちがここに戻ってくる。その前にこの教室を四角く切り取って、宇宙に飛ばしてほしかった。宗とただ二人、迷子になってしまいたかった。


光遠く
20161022