ぐずぐずと鼻を啜る音が耳を煩わせる。私は仰向けに寝た体勢のまま、目だけを横に動かした。ベッドの縁に腰掛ける真の背中がすぐそこにある。下はジーンズを履いているけれど、上は裸のままで、肩甲骨の凸凹もよく観察できる。こんな光景を目にできるなんて、きっと彼のファンには羨望されるだろう。それでも私は、泣く真の、弱々しく、情けなく、それでも爪痕一つない綺麗な背中を見て、静かに絶望を覚えた。
 その絶望を振り払うように目を閉じる。しかしながら当然小さな嗚咽は聴こえてきて、ついに私はベッドとの一体化を懇願した。安っぽいホテルの安っぽいベッドは、大人になれない私たちが愛の真似事をするのにはちょうど良い。大してムードがあるわけでもないこの部屋を、大して寝心地が良いわけでもないこのベッドを、私はすでに愛していた。たった一度、真と寝ただけで、どうにもならない愛着が生まれて暴れ出す。その事実がまた私の体内に濁った水を巡らせるのだった。
 目を開けて、今度は身体ごと横に向ける。真の背中は一層頼りなく丸まっていた。少し押したら崩れ落ちてしまいそうだった。馬鹿みたい、そう苛立ちながら口を開く。

「なんで泣いてるの?好きでもない女とセックスしたから?」

 自分が思っていたよりずっと感じの悪い声が部屋に冷たく響いた。真は何も答えず、ただ、メソメソと泣き続けている。声を出せばいいのに、言葉を使えばいいのに、真はそれを選ばない。いつだって攻撃側に回ろうとしない。何も言わずに訳も分からなく泣く赤子でいたがるのだ。私は真の背中に傷をつけることはできない。許されない。どうしたって叶わない。だから私は代わりに言葉で突き刺していく。

「真ってずるいよね、絶対悪者になってくれない」
「……ごめん、やっぱりずるいよね、僕」

 涙声に乗っけられて、かろうじて真の口から零れたのは、剣ではなく盾のような言葉だった。私はぎゅっと拳を握る。

「そういうところだよ。罪悪感ありますアピールすれば嫌われないって思ってる」
「思ってないよ」
「思ってるよ。真は自分のために泣いてるの。許されたいから泣いてるんだよ」
「…ごめんね」
「謝るなら、悪者になってよ!」

 つい声を荒げると、真の情けなく落ち込んでいた背中はすうっと伸び、首はゆっくりと私の方へ振り向いた。鮮やかな新緑色の瞳が、私を見下ろす。涙の膜を張った目と視線がかち合う。その瞬間、私は何も口にしていないのに喉が詰まって呼吸ができなくなるような気分になった。何か得体の知れないものに全身が襲われている。怖い。苦しい。やだ、見ないで、そんな目で見ないで。そんな、申し訳なさそうに、同情するように、私のことを見下さないで!

「どうしてそんな顔するの…?ねえ、最後まで嘘つき通してよ!この部屋出るまで、私を愛してる男を演じてよ!惚れた馬鹿な女を騙す酷い男でいてよ……」

 私は怒鳴った。そして惨めになる。真に対して憤りをぶつけているはずなのに、その言葉はすべて私に突き刺さり、血の海をつくってしまった。そうだ、馬鹿なのは私のほうだ。
 真が好きだった。死ぬほど好きだった。でも彼は私を好きにならなかった。そう分かっていても私は真に自分勝手な愛情を何度も何度も押し付けた。真は、その臆病と優しさから、私を同情して好きなふりをして抱いたのだ。それなら良かった。それで終われば、私はきっと幸福になれた。真にとってどんな惨めな女に成り下がっても私だけは幸せな、はずだった。けれど真は最後まで騙してくれなかった。ひとりでに泣く背中を見て、魔法は解けた。嫌でも受け止めなくてはならなかった。真は、私を愛していないということ。真はあまりにも無垢で、残酷だった。分かっている、本当は全部私のわがままだ。
 真は何も言わずに首を戻して、再び沈むように背中を丸めた。彼の背中を見ていると苛々する。本当は爪痕をつけたかった。でもつけないように気を遣ったのだ。真は、私の男じゃないから。
 上半身を起こして下半身を引きずり、その背中に近づく。座る真の背後で膝立ちをした。

「真、」

 綺麗な背中に平手打ちしてやりたい。思いきり踏みつけたい。いっそのこと鋭利な刃物で裂いてしまいたい。そう思いながら結局、私は彼の背中を抱きしめた。
 真の素肌の温かさを直に感じると気が触れそうになる。腕を鎖骨の前で組んで、私も裸だというのに容赦なく胸の膨らみを押し付けた。どうせ真は何も感じない。また、鼻の啜る音が聴こえる。私はそれを徹底的に無視する。

「真、私が好きって言って」
「言えないよ」
「好きって言って」
「言えない」
「嘘で良いから言って」
「ごめん」
「好きに、なってよ」
「……ごめん」

 そうしてまた真の流した涙が私の腕に伝ってくる。不毛だと思った。終着駅のない線路を途方もなく歩いている、そんな気分だ。どれだけくたびれても誰も何も教えてくれない。本当は足を止めてしまえばいいのに、私はまだ惨めによろけながら歩き続けるのだ。
 腕をほどいて、真と自分の身体を離す。ぼやけた彼の背中はやっぱり綺麗なままで、どうしようもなく私を拒絶するのだった。


卑怯な背中
20161003