拍手喝采の中、幕が下りていく。舞台では大勢の役者が並んで深々とお辞儀している。物語の登場人物としてではなく、劇に魂を売った抜け殻として。宗はそれを、真正面の席、どこよりも値の張るであろう特等席から鋭く見下ろしていた。隣の席には宗をここへ連れて来た張本人、詩乃が小さく拍手を送る。この席だって彼女が用意した。彼女は、誰もが欲しがるこの席をいとも簡単に手に入れられる位置にいる。宗はその事実にいつも軽く憎悪を覚える。詩乃は、魔物に愛された女だ。
 公演が完全に終わり、人々が席を立つと、劇場中がざわめいた。人混みを嫌う宗は、その空気に苛立ち、眉間に皺を寄せる。それを察したのか、詩乃は立ち上がろうとはせずに、体を宗の方へ寄せ、顔を覗き込んできた。目が合うと、宗とは対なるように機嫌の良さそうな笑顔を見せる。自分より年上なのに、その笑みはあどけなく悪戯好きな少女のように見えて、宗は苛立ちを一瞬忘れた。

「どうだった、劇?」
「僕だったら最後の演出はもっと繊細に表現する。あれは野蛮だった。ただ役者の根性を見ているようで、美しくない。それから、動きが足りなかった。これだけ立派な劇場だというのに、あんなのは錆びれた空き地でもできるような踊りなのだよ。一つ褒めるとするならば、ヒロインが良かったところだね。役者自体はまだひよっこだろうが、その未熟さの魅せ方が上手かったよ。演出家の技量だろうね?」

 宗が長々と批評するのを、詩乃は満足げな表情で聞いていた。まるで授業参観で自分の子供が完璧な発表をするのを見ているように。もっと聞きたいというように。一通りの感想を聞くと彼女は「やっぱりあなたってすごいのね」と小声ながらも嬉々とした声で囁いた。「天才よ」宗の耳元でそう口にする彼女は、やはり掴みどころがなく、大人の余裕と子供の純真さを持ち合わせているようだった。天才。宗は自分が天才であることをとっくに自覚させられていたし、才能以上の努力で守り続けていた。そして時には酷く恨んでいた。しかし、彼女の口から聴くその単語は、誰に言われるよりも誇らしく、自分の全てが肯定されているようにすら思えた。
 観客がほとんど流れたので、宗と詩乃も席を立ち、劇場を後にした。空調が効いていた室内から出ると生温い空気に包まれる。真夏の夜だというのに、これでは夢なんて見られないと、宗はげんなりとした。隣を軽い足取りで歩く詩乃を見ては、落ち着かない気持ちになった。彼女に糸はついていない。どれだけ希求しても、自分が彼女を操る日など生涯来ない。宗は強くそう感じるのだった。

「喉渇いたでしょう?バーに寄ろう」

 返答を待たずに、詩乃はさり気なく宗の腕に自分のそれを絡ませた。宗は拒絶せず許容もせずに黙って歩く。詩乃は宗の態度にちっとも関心がないようだった。いつもこうだ。彼女は宗の意思をまるで無視して、もしくは意思疎通しているという過剰な自信を持って、接してくる。それに不満を抱きつつも心地好いと感じるのだから、宗は自分の感性を疑い、人間らしさを嘆きたくなった。
 劇場の裏にある品格漂うホテルの一階に、その品格を崩さない、重厚な雰囲気のバーがある。詩乃はカウンター席に座り、隣に宗を座らせた。そして初老のマスターに挨拶をして、注文を口にした。

「ギムレットを一つ。それから、子供でも飲めるような美味しいジュースを作ってあげて」

 「子供、」と思わず復唱した。あまりにもその単語が癪に触り、宗は詩乃を睨んだ。すると彼女は愉快そうに「ここがフランスだったら宗も飲めたのにね」と笑った。宗は「くだらない」とそっぽを向く。彼女はそれもまた気にしていないようだった。
 マスターが飲み物を作り始める。店内に流れる古い洋楽は、宗の好みではないけれど、場の雰囲気をつくるのに十分な役目を果たしていた。「ねえ」という甘えた声が聞こえ、宗は再び彼女に視線を向ける。

「宗と劇を観るのは五回目くらいだったかな」
「…九回目だ」
「あら、そんなに?」

 その無関心は少しずつ宗の心に傷をつけていく。そして自分が傷ついていることに気づいて宗は狼狽えた。彼女といるといつも自分の脆さが浮き彫りになる。
 詩乃はよく宗を観劇に誘う。劇を見ては宗に感想を求め、それを聞いて満足したように笑う。今日ばかりではなく九回全てがそうだった。彼女はまるで劇ではなく宗の言葉を目的としているようだった。宗はこれが俗に言うデートとは程遠く、狂気混じりの拷問であるように感じている。何故なら彼女が観させる劇はどれも、宗にとって忌々しく憂鬱なものだった。
 「どうぞ」と低い掠れ声とともに、グラスが二つ、カウンターに置かれた。宗の前に出された “子供でも飲める美味しいジュース” は不透明な赤で、グラスの縁にはレモンが添えられていた。

「バージンブリーズね」

 詩乃は瞳を輝かせ、マスターの顔を見上げた。

「そう、この人には赤が似合うの」

 そうして彼女は自分のグラスを持つと、「乾杯」と言って一方的に宗のグラスにぶつけた。コツンと高い音がする。宗は、どんどん詩乃のペースに飲み込まれる状況を悲観しながらも、酒を含む彼女の口元を見つめていた。美しいと思っていた。そして自分自身も喉の渇きに気づき、バージンブリーズとよばれるノンアルコールカクテルをひとくち口にする。酸味が広がった。

「宗がね、彼の劇をボロクソ言ってくれると、安心する」

 落ち着いた、というよりは落ち込んでいるような声だった。宗は濡れたグラスを持ちながら、彼女の顔を見る。大して強いわけでもないのに酒を一気に飲むから、頬は薄く紅潮している。宗は黙ったまま次の言葉を求めた。

「でもね、同時に悲しくなるのよ」

 詩乃の様子がいつもと違うことに気づいて、宗はグラスを置いた。そしてよく耳を傾け、脳を動かそうとする。彼女の声が正しく聞こえるように。

「私は宗をとても愛しているけれど、彼から離れられないの」

 その言葉は強大な力で、宗の心臓を握り潰した。今さっき喉を通った赤を吐き出したい衝動に駆られる。それを堪えながら宗は反撃の言葉を考える。ちっとも浮かばず、零れ落ちたのは弱音にも似た皮肉だった。

「それは僕が君にとって嘴の黄色い子供でしかないからかね?」

 詩乃は少し驚いたかと思えば、笑って首を横に振った。

「心がそういう風に出来ているから」

 悲しみと諦めを感じるような言葉を吐いて、彼女はグラスに残った酒を飲み干した。宗は心臓のみでなく全身が引き裂かれていくような気分になりながら、今日観た劇のことを思い出していた。
 彼女が観させる劇のヒロインはどれも彼女に似ている。それは偶然ではなく、舞台監督の意図だった。日本の演劇界では名の通った演出家がすべての劇を作った。そしてその男が彼女の糸を操っている。いくら自分の手元にあって、自分に抱きついてきても、糸はいつだってあの男に繋がっているのだ。宗はそれでも自分に歩み寄る彼女を愛しく、そして憎く思った。
 店内の音楽はいつのまにか消えていた。代わりに詩乃の息を吸う音が聴こえた。

「好きよ、宗。あなたとならこの世の最果てだって怖くない」

 詩乃は宗と目を合わせて言った。彼女の得意な微笑みで。その表情がだんだん歪んでいく。眉は弱々しく下がり、瞳は揺らいだ。

「あるいは、宗。あなたが、私の最果てなのかもしれない」

 言葉と同時に彼女の目から一筋涙が流れた。それは照明に当てられ、小さなダイヤモンドのように光る。
 彼女が泣くのを初めて見た。宗は、どうしたらいいのかが分からなかった。ありふれた男であれば、優しい言葉を一つ二つ吐くか肩を寄せるかでもして彼女を慰めたり甘やかしたりするのだろう。宗はその仕方が分からない。彼が今まで愛してきたのは決して涙を流さない人形だけだった。
 宗はしかし、動揺するわけでもなく、ただ、何故か冷静になってその涙が顎から落ちるのを見ていた。欲しいと思った。美に肥えた宗の目に、彼女の涙はどんな宝石よりも美しく映った。それを一粒奪い、ネックレスのチャームに付けてもう一生抱いていたいと思った。
 詩乃は自分の左手で涙を拭う。濡れる、細い指先。その薬指には本物のダイヤモンドが光っている。宗は咄嗟に目を逸らした。自分の中の臆病が猛烈にその現実を拒む。
 バージンブリーズの氷が溶けてカランと音が鳴る。それは酷く悲しい響きだった。


僕のテレプシコーラ
20160821