魔法みたい。そう思いながら、白く汚れた黒板を濡れた雑巾で拭いている影片くんの後ろ姿を見ていた。みるみるうちに黒板が本来の黒を取り戻していく。白が汚れで黒が綺麗だなんて不思議だ。まるで正義と悪が逆転したみたいだ。 影片くんから視線を外し、手元にあるクラス日誌を捲った。まだ白紙のページの上の方に今日の日付と、日直である私と影片くんの名前、そしてなぜか天気を晴れと書く。そしてペンケースから定規を取り出し、表のようにマス目をつくった。上のマスから、一、二、三、四、五と数字を入れる。今日の授業は何をやったかぼんやりと思い出しながら手を動かした。一時間目は数字で、世界史は二時間目、いや三時間目だったか。
「ごめんなぁ、日誌書かしてもうて」
黒板掃除を終えたらしい影片くんは、そう言って私の前の席に、後ろ向きに座った。私は日誌に視線を落としたまま「ううん」と呟く。
「おれ、字下手やからこうゆうん書いたらあかんねん」
困ったような声だった。そんなことない。影片くんの字は下手なんかじゃない。ノートを回収した時に見たこともある。少し丸っこいけれど、決して下手ではなかった。影片くんはいつも自分を過小評価する。まるで自分はゴミだとでも言うように、あれができない、これはできない、おれ馬鹿やからと笑うのだ。その度に、それは違うと全力で否定したがる自分と、そう思っているくせに口にはできず何も伝えられない自分がせめぎ合う。 知ってる。影片くんは優しい。おとなしくて目立たないタイプだけれども、私はいつも見ていた。クラスで飼っているメダカに餌をやる姿も、話しかけた時に必ず見せてくれる安心したような笑顔も。
「二時間目って何だったっけ?」 「んあ?えっと…現代文?」 「あ、そうだ。羅生門」
二時間目のところに、科目:現代文、授業内容:芥川龍之介の羅生門をみんなで読んだ。難しかった。と記入する。どうせ先生は流し読みしかしないのだから埋めてさえいればテキトーでいい。そんな風に全ての授業の感想を書いて、下のフリースペースだけが空白の状態になった。これまでのページをちらほら見てみると、みんな思い思いに先生へのメッセージやイラストを残している。私も何かキャラクターでも描こうとシャーペンの芯を出した時に、影片くんがいつもスクールバッグにクマのマスコットをつけていることを思い出した。少し年季が入ってきたような、薄汚れている、クマ。彼はああいうかわいいのが好きなのかもしれない。
「影片くん」 「ん?」 「フリースペース、何か描いてよ」 「え〜?無理やわ、おれ絵下手やもん」 「お願い」
開いたままの日誌をくるりと回して影片くんの方に向きを合わせたら、彼は少し悩んだ後「どうなっても知らんで?!」と言い、私のシャーペンを握ってくれた。そしてするすると何かを描いていく。ちっとも戸惑いや躊躇いのない手つきで描かれたそれは、丸いフォルムに大きな目、少し無愛想なクマだった。やっぱり、全然下手なんかじゃない。漫画チックな絵柄のそれは、ひょっとしたら私よりも上手いかもしれない。私はもうすでにそのクマに愛着と執着を覚えていた。
「かわいい…」 「ホンマぁ?」 「もっと描いて」 「え〜?」
口でそう言いつつも影片くんは手を動かした。蝶々、リンゴ、星、ひよこ、宝石。瞬く間にそのページがかわいく装飾されていく。世界観はバラバラだけども、彼のポップな絵柄がそれを感じさせない。次は何かと気持ちを弾ませながら日誌を見ていたら、影片くんが次に描いたのは花のようなものだった。花びらが尖がっている。なんとなく、珍しい花だ。
「それ、花?」 「せやで。蓮の花」 「蓮…?あの、水に浮かんでる?」 「そうそう、その蓮」
影片くんは蓮にどんどん花びらを書き足していく。蓮はどんどん大きく丸く、存在感を出してくる。チューリップやコスモスじゃなくて、わざわざ蓮の花を描いた影片くんを、なんだか良いなと思った。上手く言い表せないけれど、影片くんの、そういう、少し他の人と違った感性が好きだった。
「蓮って、泥沼の中でしか咲けへんのよ」 「え?」 「生物の先生が言うてた」
私は想像してみた。真っ白な蓮の花が、混濁した、生臭い泥沼に浮かぶ姿を。その痛々しさに少し泣きたくなった。
「…かわいそう。せっかく綺麗なのに」 「んー、そうかなぁ?」 「咲かなきゃよかったって、思っちゃうよ」 「おれは、たとえ泥沼でも目一杯に咲けるなら本望やけどなぁ」
羨ましそうにそんな言葉を零して、影片くんは手を止めた。完成した大きな蓮の花が、クマよりも星よりも目立っている。 日誌を全て書き終えたので、それを教卓の上に置いて、私たちは帰る支度をした。グラウンドで行われているサッカー部の練習を一瞥してから窓を閉め、カーテンも閉める。今日の役目を終えた教室を見渡して、日直の仕事にやり残しがないことを確認したら、スクールバッグを肩に掛けて二人で教室を後にした。 影片くんが少し前を歩く。人影のない長い廊下で私はその後ろ姿を見ながら、憧憬と焦燥に駆られていた。影片くんが、好きです。今日も言えなかった言葉をそっと抱きしめる。ずっと思っているのに、伝えたいのに、私は影片くんの顔すらまともに見られない。何も言葉にできないまま、廊下を歩いて階段を下りる。音楽室から吹奏楽部のチューニングの音が聴こえてくるのを、ぼうっと聴いていた。
「今日暑かったなぁ」
下駄箱で靴を履き替えながら、影片くんが呟く。私もローファーを履いてつま先で何度か地面を蹴りながら答えた。
「明日は雨らしいよ」 「そうなん?こんな晴れとるのに」
校舎を出て校門まで歩くと、影片くんは右の道、私は左の道に足を向けた。今日はもうお別れだ。
「ほなな。日直お疲れさん」 「影片くんこそ、お疲れ様。また明日」
先に影片くんが踏み出した。何の名残もなく、歩み始める。私は校門の前に立ち止まったまま、やはり彼の後ろ姿を見つめていた。もしも振り向いてくれたら、顔を見れたら、好きって言おう。そう決めて無駄に緊張感を持って見ていたけれども、影片くんが振り返ることはなかった。ほっとしたような虚しいような情けないような複雑な感情に支配される。その気持ちを振り切るように、私も左の道へ歩き出す。 こうして今日も言えなかった想いが砂時計のように降り積もっていく。どんどん重くなっていく。明日になったら言えるかな。明後日かな。想像しながら、ため息が溢れた。私は未来の自分をちっとも信頼できないでいる。ずっと影片くんのそばにいながら話しかけながら笑いながら、それでも大切なことは何も言えないような気がした。帰り道はいつも一人のはずなのに、いつもより孤独感を味わいながら、私は足を速めた。
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次の日、予報通り、朝から雨が降っていた。朝の本鈴が鳴っても、一つだけ席が空いている。
「えー、本人の希望で、今日まで黙っていましたが、影片くんは東京の学校へ行きました」
先生の言葉は、鈍器になって私の後頭部を殴った。影片くんが東京へ行った…?もう、既に?自分の心と体が分裂していくような錯覚に襲われながら何とか状況を察しようとする。教室は少しだけざわついたけれど、悲しむような素振りを見せるような人は誰もいない。影片くんは特別仲の良い人がいなかった。そう、誰も彼のことを惜しんでいない。彼らは影片くんを軽蔑していた。だから私はすぐに彼らを軽蔑した。心の底から。 先生がすぐに影片くんの話題を終わらせて、次の何かを話すのを、映画を観るように客観的に眺めながら、私は少しずつ確かなことを実感していた。もう影片くんには、会えないのだ。昨日同じ教室にいた影片くんは、一緒に日誌を書いた影片くんは、蓮の話をしていた影片くんは、遠くに行ってしまったのだ。影片くんの行方は誰も知らない。 手先が痺れていく。ホームルームを終えて先生が教室を出て行った。みんなが授業の支度を始める。一時間目は何だったか、今日は何曜日だったか、考えられない。私は必死に頭に影片くんを描こうとしていた。昨日一緒にいた彼を描こうとした。でも上手く描けない。私は彼の顔を思い出せなかった。当たり前だ。私はちっとも彼の顔を見ていなかったのだ。彼のことをしっかりと見ていなかった。どうせ明日も明後日も会えると思っていたのだ。最低だ。彼を軽蔑するクラスメイトたちと何も変わらないじゃないか。 耐えられなくなり、机に顔を伏せた。目を閉じる。浮かんでくるのは影片くんの優しい笑顔、ではなくて、昨日見ていた後ろ姿だった。その寂しそうな後ろ姿が、一歩、また一歩と遠ざかっていく。そして彼は、濁った泥沼の中に踏み出していく。私は何も、言えないまま。
あの子はきっと泥の中 20160812
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