とっておきのフルコースのつづき


 ホテルの最上階、ガラス張りのスイートルームからは宝石箱のような夜景を一望できる。
 彼と出逢う前の私なら、きっとこの夜景に心躍らせて感嘆のため息を漏らしていた。それが、今はなんとも。どんなに美しい景色も、彼の創るそれに敵うはずがないもの。
 豪華なジャグジーバスには一滴もお湯を溜めずにシャワーを浴び終えると、柔らかなバスローブに身を包み、部屋に戻った。私一人の身体を沈めるにはあまりに広すぎるベッドの上で、何をするでもなく、宗が来るのをただ待つ。
 今日は食事をして終わりだと思っていたのに、すぐ別れることを想定した態度を取っていたのに、夢の続きがあるなんて。今さらどんな顔で彼を迎えればいいのだろう。「余裕ぶらないでほしい」だなんて不満げに宗は言っていたけれど、じゃあ不安定な私が彼と対峙してどんな良いことがあるの。彼はもう何も背負わなくていい、背負わせてはいけないのだ。やっと足に絡みついた鎖を壊して自由になれたのだから。

 パリに行くと、宗が言った日。驚きはしなかった。空が青いのと同じくらい、当然のことのように思えた。私が知っているパリは、宗に相応しい場所だった。宗の目に迷いは無かったと思う。
 「そう」とだけ言った。それ以外に適切な言葉が思いつかなかった。嬉しい気持ちも寂しい気持ちも全て飲み込んで喉が詰まりそうになったけれど、なんとか消化することができた。
 それまでは、私は何が何でも宗のそばにいようと思ったけれど、それが私の役目だなんて随分と傲慢なことを考えていたけれど、もう宗にとって必要なくなったのだと理解した。それは喜ばしいはずのことだった。

「なんかあったら言ってね、パリまで飛んで行く」

 一緒に行ってもいいと思った。けれど、それは自分の欲でしかなくて、この欲が肥大化する頃にはきっとまた宗のことを苦しめるだろう。宗に呼ばれて私が飛ぶことはあっても、その逆は駄目だ。宗をここに呼び戻すことは。
 だから、いいの、これで。胸の奥がぎゅっとなるような、そんな感情と向き合うのは止めにした。



 まどろみの中でゆっくりと瞼を上げる。目尻の睫毛が引っぱられるような感じがした。乾いた涙が張り付いていた。どれだけの間眠りに落ちていたのかは検討もつかない。上半身を起こすと、広いベッドの縁に座る人影をとらえた。

「宗、いたの?」
「ああ、やっと起きたかね」

 宗はバスローブではなく、持参したのであろうネイビーのシルク地のシャツを身に纏っていた。どうやらシャワーはもう済ませているらしい。一体宗はいつからこの部屋に来ていたのだろう。
 髪を手櫛で整えたら身体を移動させて、宗の隣に腰掛ける。

「ごめん、気づいたら寝てた」
「僕のいない間に何かあったのかね?感傷的な表情で涙を流して眠っていたようだけど」
「ううん、なんでもないの。あくびをすると涙が出るでしょう?」
「……君がそう言うなら、そういうことにしようか」

 宗はもっと言及したそうだったけれど、何かを察したように口を閉ざした。
 何か別の話題を出そうと必死に考えるけれど思い浮かばない。お互いの近況についてはレストランであらかた話してしまったし、間接照明の光しか頼れないやけに色気のある空間で話すことなど限られてしまう。

「いつ向こうに帰るの?」
「明日昼過ぎの飛行機に乗るよ。もう少し長居しても良いと思ったけれど、向こうで行われる展示会に向けて作品制作中だからね」

 宗はいつも、パリでのことを話す時、楽しそうに、得意げな顔をする。それを見て私はホッとする。日本にいた時よりも心穏やかに過ごせているのなら良かった。本当に良かったと思う。

「パリでは随分楽しく過ごしているみたいじゃない。私のことなんて忘れちゃって」

 嫌味のつもりで放った言葉は、本当に余計な一言になった。宗に向かって話したつもりなのに自分の胸に酷く響いて、私は気付く。これがどうしようもなく自分の本音なのだと。
 宗は顔色を変えた。眉を寄せて私と目を合わせた。菫色の瞳がじっと私を見つめてくる。

「君には僕がそんな薄情な人間に見えているのか?」

 宗の顔は真剣だった。その全てで私の言葉を否定してくる。宗はぷいと私から視線を外して、全面の窓に目を向ける。私もつられるようにして窓を見た。キラキラと光る夜景が、途方もないほど広い真夜中の街並みが、広がっていた。

「遠い異国にいても、君を忘れたことなんて一時もなかった」

 甘い囁きというよりは、不服そうな声色だった。想像もしなかった恋人の言葉に、今度は私が宗の顔を見遣る。頬が少し赤らんでいた。
 宗の左手が私の右手を迎えにくる。今日初めて彼と直接触れた右手が痛いくらいに伝えてくる。彼のことが好きだと。彼のこの体温が、恋しいと。

「つまり、その……会いたかった」

 その言葉が躊躇いを振り切るようにして彼の口から放たれると、私の手を握る手の力が強くなる。
 この人は本当に宗?……そんなの、自分が一番わかってる。偏屈で神経質で繊細で愛情深い、私が半年間毎日のように会いたいと願っていた人だ。自分の心の奥底の思いを無視できない程度には、もう私は宗に絆されていた。

「私も、ずっとあなたに会いたかった」
「君はもっと素直になりたまえよ」
「宗がそれ言う?」
「…君はああ言っていたけどね、僕だって君が呼べば日本でも地獄の果てでもすぐに行くのだから」

 レストランで何気無く呟いた言葉が彼を通してそのまま帰ってくる。確かな温度を乗せて。二人ともよくも恥ずかしげなく言えたものだ、こんな絶対的な愛の科白。

「ご機嫌だね、なんだか」
「その理由は君だって、なぜ気付かないんだろうね?」
「宗が私のことどう思ってるかはなんとなく分かったよ」
「いや、君はもっと僕に愛されていることを自覚するべきだね」
「それは今から解らせてくれるんじゃなかったの?」

 返事をする代わりに、宗が私を抱き寄せた。宗の体温に包まれる。力が抜けて、もう彼に全て委ねたくなる。身体が離れると、今度は顔が近づいてくる。唇を重ねて、閉じた目を再び開く頃には、もう私の視界には宗の端正な顔とその背後の天井しか見えなかった。

「そういえば、お誕生日おめでとう」

 日付は変わってしまったけれど。宗は穏やかに微笑んで「ありがとう」と言う。そして再び私にキスを落とした。私は必死に彼の背中に手を回し、甘美な雰囲気に自分を馴染ませることに努める。スイートルームのベッドは二人の身体を沈めてもまだ広い。


なんでもないアラカルト
20221030