それは私にとっての少女時代、あるいは彼にとっての少年時代だった。私たちはよく同じ空間にいた。よく名前を呼び合って、よく手を取り合って、おままごとをして遊んでいたのだ。それは運命なんかじゃなくて、大人の勝手な都合だった。親同士が仕掛けたことだった。私が宗と仲良くすると母親はそれは大層喜んだ。「宗さんは将来あなたの旦那さまになる方なのよ」と、よく私に目線を合わせ笑い掛けたものだ。私にとっては遠すぎる未来で、あまり想像はできなかったけれど、黙って頷いていた。宗と私は同じ本を読んで、同じ映画を見て、同じ場所に訪れて、同じ感性と価値観を育んでいった。宗が美しいというものを私も美しいといった。私が好きなものを宗も好きになった。どちらがどちらの影響を受けたのかわからないけれど、私たちはよく似ていた。自分たちの世界を作って、その世界に閉じこもって、夕暮れまで遊んでいたものだ。時には人形を愛でて、時にはスケッチブックを広げて。宗は変わり者だと言われて小学校ではいじめられていたらしいけれど、私には彼の考えや想像するものが痛いほど理解できた。それに耽溺することすら、出来たのだ。私にとって宗は、好きな人というより、唯一の同志という感じがした。

 おままごとの延長だったと思う。その日、私は小学校が終わると宗と一緒に宗の住む屋敷のように大きな家に帰った。宗のお母さまが出してくれたロールケーキと紅茶を頂くと、私たちはすぐに屋根裏の物置きになっている部屋へ向かった。古い絵画や本、人形に時計に楽器に、とにかく、そこには私たちの好奇心をくすぐる宝物で溢れていた。ここに何時間も入り浸っては、宗と空想話をするのが好きだった。宗はいつもと変わらず、埃の被った人形を一体一体取り出して、櫛で髪をとかしてあげていた。私は緊張しながら、ポシェットからある物を取り出した。

「ねえ、宗」

 宗は手を止めて私を見た。私は、それを宗の前に置いた。学校から持ち出したカッターナイフを。宗は意味が分からない様子できょとんとしていたと思う。

「これでね、私の心臓を刺してほしいの」
「……どうして?そんなことしたら死んでしまうよ」
「この前、一緒に本で読んだでしょ。心中っていうの。私あれがしたい」

 文学の影響を受けていた。その物語で描かれていた男女の死はとても美しくて儚くて尊いものに思えた。大人になってから思い返せば、浅はかで呆れてしまうようなことだけれど、その時の私は本気だった。死ぬことへの恐怖よりも、物語の主人公のように美しく死にたいという恍惚とした願望が強かった。お気に入りの生成りのブラウスとネイビーのジャンパースカートは私の最期を飾る衣装に選ばれたのだ。
 宗は半分理解したような、半分はまだ戸惑っているような、曖昧な表情をした。同志だと思っていた宗が、なかなか受け入れてくれないことに私は苛立たしさを感じていた。

「宗、私たちこれから大人になってどんどん醜くなっていくのよ。綺麗なまま死にたいと思うのはおかしなこと?」

 宗は首を横に振った。私は一度置いたカッターナイフを持ち直して刃を数センチ出し、宗に手渡した。宗はそれを両手で持って、ゆっくりとその刃を私に向けた。私は待ち構えていた。その瞬間を。宗は覚悟を決めたように真っ直ぐに私を見つめるけれど、一向に私の胸を突き刺そうとはしなかった。古い時計が一秒一秒時を刻む音が聴こえた。だんだんと宗の手は震えてきて、表情が歪んでいった。そうしてやっと絞り出したような声で「できない」と言った。目に涙を浮かべて、吐き出すように私に訴えた。

「君がいなくなるのが怖い……」

 大粒の涙を流して、ぐすぐすと鼻を啜って、宗は泣き出した。カッターナイフはもう役目を失って、床に放られていた。どうしよう、宗が泣いている。宗に泣かれると私は困った。こんな状況を彼のお母さまに見られたら私は嫌われてしまうかもしれない。宗に泣き止んでほしくて、どうしていいか分からなくて、私は咄嗟に宗のことを抱きしめた。赤ちゃんをあやすみたいに「泣かないで」と言った。宗の髪の甘い匂いがつんと鼻をくすぐった。宗の体が温かくて、私は彼といて初めてドキドキした。愛はおろか恋ですら、本や映画のそれしか知らなかったけれど、その時にすとんと腑に落ちた。私は今この瞬間、宗が愛しいのだと。
 泣き止んで顔を上げた宗と上手く目を合わせられず、言葉を交わすこともできなかった。凶器になれなかったカッターナイフをまたポシェットにしまって、ジャンパースカートの裾を整えて屋根裏部屋を後にした。

×××

 それからも私たちは一緒に年月を重ねていった。私は宗に伝えられない仄かな恋心を抱きながら。
 状況が変わったのは、高校生に上がるタイミングだった。宗がアイドルになると言って、私とは違う学校に進むことになったのだ。そしてアイドル活動を始めて、すぐに彼は芽を出した。私だけが理解していたはずの彼の世界が、大勢の人に評価された。
 それを聞いた私の親は激怒した。父親が吐き捨てるように言った。

「アイドルなんて何を考えているんだ、斎宮家の次男坊は!これまで築き上げてきたものが台無しだ!詩乃にはすぐに新しい嫁ぎ先を探す!」

 私はまた何も考えないようにして頷いた。都合よく思考停止させるのが得意になっていた。

「大体俺は最初から反対だったんだ。長男でもないし、変わり者で頼りない男だったじゃないか!」
「宗の悪口は言わないで」

 自分の声がとても低くて冷たくて驚いた。ぎろりと父に睨まれたが、その視線よりもずっと強く私は父を睨み返した。父は文句言いたげな顔でその場を去ってしまった。

 それから宗と会うことは無くなった。連絡を取り合うことも。別に禁止されていたわけじゃない。私たちはもう子供じゃないのだから会おうと思えばいつでも会うことは出来たはずだ。お互いにその行動を起こすきっかけがなかっただけだ。私たちが一緒に過ごした日々はあまりにも淡くて古ぼけていて、取り出したら壊れてしまいそうだったから、私は蓋をしたのだ。彼だけが持っている鍵までかけて。

×××

「はじめまして」

 親に勧められて、というよりは半ば強制的に同年代の男の人とお見合いをした。大企業の社長令息だという。黒い髪と白い歯が似合う好青年だった。料亭の一室で庭園を見ながら、懐石料理を口にしながら、ありきたりな会話を、まるで台本を読むように繰り広げた。

「ご趣味は?」
「ずっとテニスをやっていまして、幼い頃から体を動かすのが好きなんですよ」
「それは、素敵ですね」
「詩乃さんは?」
「私はお裁縫とか……小さい頃はよくお人形で遊んでいました」
「へえ、女の子らしくて良いじゃないですか」

 その人は爽やかな笑顔で言った。私に対する好意がひしひしと伝わってくる。私はその言葉が可笑しくて、少し頬が緩んでしまった。いつかの思い出が胸を叩いたのだ。

「……本当に、女の子みたいですよね」
「えっ?」
「いいえ、こちらの話です。これからもよろしくお願いいたします」

 私は案外すぐに彼を受け入れた。一緒にテニスもしたし、彼の趣味の映画も観た。音楽も聴いた。どれも私の知らないもので新鮮だった。好きかどうかは分からなかったけれど、好きになろうとした。初めて知る世界を。宗じゃない男の人を。これでいいのだと、これが正解なんだと言い聞かせて。

×××

 会おうと思ったら、本当にすぐ会うことが出来た。二人とも二十歳を過ぎて、あの頃の遠すぎた未来に辿り着いてしまっていた。久々に見た彼は大人びていて自信の満ち溢れたような表情で、泣き虫だった頃の面影はなくなっていた。
 運ばれてきたコーヒーを飲みながら、幼馴染との再会とは思えないほどの沈黙を味わっていた。彼の仕事の話とか、何気ない世間話を試みたが盛り上がらない。私たちは昔、何時間も何を話していたのだろう。

「私ね、結婚するの」

 突然の宣言に、宗はちっとも驚かなかった。こんな話題を出した自分が恥ずかしくなるくらい。

「そんなことを言うためにわざわざ僕を呼び出したのかね。電話かメールで済むような話だと思うけれど」
「忙しいのにごめんね」
「まあ、せっかくだから祝ってあげよう。おめでとう、詩乃」

 宗が柔らかな笑みを浮かべて私に祝いの言葉を述べた。まったく嬉しくないのを悟られないように笑顔で「ありがとう」と伝えた。別に、他の言葉を期待していたわけじゃない。宗は、式場のドアを押し開けて花嫁を連れ去るような、そんな男ではないことは確かだ。蓋をした恋心を呼び起こす気なんてなかった。それでも今、わずかに、微かに、思い出す。密かに彼を慕っていた幼い少女を。

「もう、君がいなくなるのが怖いって言ってくれないの?」
「……いつの話をしているんだね、忘れたまえ!」

 宗は、恥ずかしい昔話を掘り返されたことに憤っているようだった。少しだけ懐かしくて、もう今彼といるこの時間が蜃気楼のようで、泣きたくなってしまう。あの頃泣いていたのは宗のほうだったのに。

「あの時、本当に死ねばよかったのかな」

 あの時、もしも死んでいたら、宗と心中していたら、天国で結ばれたのかもしれない。あるいは地獄で同じ苦しみを分かち合っていたのかもしれない。なんて、どうしようもない絵空事だ。

「いや、君は生きていくべきだったのだよ。僕もね」
「生きてていいことあった?」
「大人になった君とまたこうして会えた」

 宗がコーヒーカップを口に運んだ。今の私には彼の言葉を理解することができない。宗は、こんな台詞を吐くような人だっただろうか。あれから、どんな本を読んだの?どんな映画を観て、どんな場所に行ったの。どんな涙を流したの。どうやって生きてきたの。私の知らない世界で。聞きたいことはたくさんあったけど何一つ言葉にならなかった。後戻りができなくなる前に彼を忘れなければいけないと思った。

「綺麗なまま死にたいなんていう君の夢は残念ながら叶わないのだよ。君はこれから醜く老いぼれて、それを嘆くのも忘れるくらい平凡な幸せに浸かって、いつか多くの人に囲まれながら死ぬんだろうね」

 厭みたっぷりの彼の言葉は、いつかの彼らしい臆病な優しさで溢れていた。さよならと同義なのだと、すぐに解った。なんとなく悟った、もうこの先、彼と会うことは無いのだと。彼の人生と私の人生が交わることは無いということを。それならせめて。
 私はコーヒーを飲み干して、目の前にいる愛しい人を見つめ直した。


「そしたら宗、私の死体を抱きしめて」


私だけの秘めやかな痛み
20211103