テーブルに運ばれてくる料理を、ふたりは食べ進めていた。人目につかぬよう気を遣って選んだ個室には、品の良い絵画や花が飾られている。シャンデリアは暖かみのある色を輝かせ続けていた。まとわりつくように優雅な時間の中で、宗は苛立ちを募らせていた。鮮やかなかぼちゃのポタージュをスプーンですくい、口に運んで、ゆっくりと飲み込む。そして目の前にいる女を睨んだ。詩乃は宗の視線を気にする様子もなく、オリーブオイルに浸したバケットを小さな口に放り込む。その呑気な姿がより宗を不愉快にさせた。
 久々に帰国した日本の空気はパリと違ってどんよりとしていて心地悪いし、道を歩けば人も多くてごみごみとしている。それだけでも憂鬱なのに、容赦なく過密なスケジュールを組まれて、取材や撮影、ライブの事前打ち合わせなどの一つ一つを全て完璧にこなしてきたのだ。疲労は溜まっていた。今日のうち、宗が自由に使える時間は十九時から二十一時の二時間だけ。そしてこの貴重な時間を一応恋人であるはずの詩乃と過ごしているわけだが、そこには情熱もなければ癒しもなく、高級な料理と淡白な会話だけがあった。そう、一応、恋人だ。それも俗に言う遠距離恋愛中の、数ヶ月ぶりに再会した恋人だ。宗は凡俗な恋愛観は持ち合わせていなかったが、それでも少しだけ予想、というより期待していた。久々に自分と対峙した詩乃が瞳を輝かせて顔をほころばせるのではないかと。ところが、どうだ。詩乃ときたら顔を合わすなり「ちょっとだけ顔丸くなった?」なんて一言を宗に放った。宗は年頃の娘のように膨れて機嫌を悪くしてしまった。そして思い出した。彼女はこういう女性なのだということを。自由気ままで水のように掴めなくて図々しく自分の心を揺さぶり続ける存在であることを。

「ん、おいしい」

 オマール海老のテルミドールを咀嚼して詩乃は微笑んだ。あまりにも無邪気に笑うものだから宗は自分が苛立っているのも忘れてうっかり見惚れてしまいそうになる。はっと我に返り、自分もフォークで刺した海老を口に押し込んだ。数日前まで青く広い太平洋に生息していたであろう海老の、ぷりっとした歯応えを存分に堪能する。食事を進めつつ、ちらりと腕時計に目をやると二十時十五分だった。

「この後もお仕事?」
「雑誌の撮影が残っているよ」
「大変ね、芸能人って」

 詩乃は他人事のように呟いた。実際、他人事なのだろう。彼女は自立した女性だ。自分のこと以外、大して興味はないのだ。久々に会った恋人のことでさえ。宗は厭みを込めて言葉を紡いだ。

「君だって忙しい人間だろう?僕との食事なんて断ってくれてもよかったのだよ」
「誕生日に一人で過ごすのは寂しいでしょう。だから宗も私を呼んでくれたんじゃないの?」

 大きな黒目で宗を真っ直ぐ見つめてくる。何もかも分かっているような口ぶりが気に入らなくて、宗は不機嫌な声を上げた。

「僕を何歳だと思っているのかね?そんな子供ではないよ」
「私は嫌だな、宗を一人にするのは」

 宗の刺々しい言葉をもろともせずに詩乃は答えた。そして反応を待たずに「……宗が何歳になってもね」と続ける。宗は何も言い返せず口を閉じた。思い出した。彼女は、自由気ままで水のように掴めなくて図々しく自分の心を揺さぶり続ける存在であることを。そしてそんな彼女をこの上なく愛してしまっていることを。

「私はね、宗が呼んでくれたらパリでも地獄の果てでも、どこにだって飛んでいくから」

 にこっと笑って、牛肉のポワレをナイフで切る詩乃。どんな美術的な絵画に描かれた女神よりも、この瞬間で一番美しいのは彼女だと、宗は思った。
 そうだ、思い返せば詩乃は、いつも宗のそばにいた。自由気ままにふらふらと、それでも確かに宗の元にやってくるのだ。どんな時も。二年前のこの季節、宗がそれこそ地獄に落とされた時だって、彼女は平然とした顔で何も言わずに宗のそばにいた。特に深い意味は無いと思っていた。たまたま、風に吹かれるがままに自分のそばに来たものと思っていたが、もしかしたら詩乃は強情な意志を持って宗のそばにいたのかもしれない。そして今も。そう気付いた途端、宗は目の前にいる彼女がしおらしく思えて、鼓動が早まるのを自覚した。けれど負けん気の強い宗は、このまま彼女に反逆もせずにペースに飲まれる気はさらさらなかった。メインディッシュを完食すると、グラスに口をつけ、水を喉に流した。

「あまり僕の前で余裕ぶらないでほしいね」
「実際余裕だよ?私、一つ歳上だしね」
「少なくとも今日から数ヶ月は同い歳なのだよ」
「そういうところが子供っぽいけれど」
「フンッ、君は僕よりほんの少し早く産まれたくらいで大人の顔をしているけどね、僕の方が経験は豊かなのだよ。この半年だってパリで、日本では得られないような感性を磨いてきたのだから」
「えっと、宗。急に饒舌になったけどどうしたの?」

 詩乃は目を丸くした。血色の良い唇を、あひるの嘴のように突き出ている。宗は早くそれを奪いたいと思った。

「君は昔から僕のことを子供のように扱うから、それが癪に触っただけだよ」
「それは宗が……」
「悪いけれど僕はもう行く。戯言なら後でたっぷり聞いてあげよう」
「あとで?」

 宗は立ち上がると彼女の元まで歩み寄り、テーブルの脇に黒いカードを置いた。このレストランが入っているホテルのスイートルームのカードキーを。詩乃はその意味をすぐに理解できたが、予想していなかったことに狼狽えているようだった。

「宗がこんな直接的なお誘いをしてくるなんて、驚いちゃった」
「誕生日に好物を味わいたいと思うのは、ごく一般的なことだと思うけれどね」
「好物って、私のこと?」

 宗は質問に答えなかった。けれど、彼女の瞳と絡み合う熱を帯びた視線はその言葉を肯定している。詩乃は珍しく顔を赤くして、目を逸らした。宗はその様子を見て機嫌を好くした。いつもおちょくるような言動で自分を振り回す彼女に、ちょっとした仕返しができたのだ。そしてまた夜が更ける頃には彼女の余裕を失くした姿を見ることができる。仕事の後の愉しみが出来た。あと一本残っている撮影も、妥協せずに完璧にこなしてみせよう。

「せいぜい、僕が帰るまで大人しく待っているのだよ」

 デザートが運ばれてくるのを待たずに、宗はレストランを後にした。ホテルの裏口で待っていた黒いタクシーに乗り込んで次の撮影場所まで向かう。窓から見上げた空には三日月が浮かび、満ち足りないその形で懸命に街を照らしている。ふと、窓の表面に焦点を合わせると、そこには瞳を輝かせて顔をほころばせている男がいた。


とっておきのフルコース
20211030