彼女の手元で小さな液晶がちかちかと光っている。薄暗くなり始めた病室の中でたった一つ、確かな色彩を持って主張する。詩乃の顔をカラフルに照らす、そのタブレットからかすかに聴こえるのは俺にとってあまりに馴染みのある音楽だ。詩乃は目を細めて穏やかに笑った。その表情にどこか儚さを感じて、目を背けたくなった。背けたところで、無機質なこの部屋を視界に入れて苛立ちを覚えるのはわかっているのに。

「やっぱりKnightsってかっこいいね」
「当然でしょぉ?」

 もう何度、同じ動画を再生しているだろう。詩乃は飽きもせずに目を輝かせながらKnightsのライブ映像に釘付けになっている。生身の俺が画面の中にいる俺に嫉妬するほどには。本当に幸せそうに笑う。その度に俺は思う。こんなもんじゃないから。映像なんかで満足しないでよね、と。強く強く、思わずにはいられない。アイドルとしての意地がそうさせる。嘘、意地よりも臆病な心がそうさせていた。
 ベッドの横に備え付けられた袖机には、何冊かの文庫本が積み重ねられていた。この前来た時よりも、また増えている。彼女がこの部屋で出来る暇潰しなんて、動画を見るか小説を読むかくらいだった。小さな箱の中で詩乃はいつでも、でき得る限りの夢を描いて過ごしていた。

「今度大きなところでライブするんでしょう?」
「まあねぇ、Knights単独のライブではこれまでで一番広い会場でやる予定」
「いいなぁ、私も観に行きたかったよ」

 口を尖らせたかと思えば、その一秒後にはやっぱり腑抜けたような笑みを見せた。詩乃が笑えば笑うほど、俺の胸には苛立ちと焦燥が募っていく。これから開催されるライブに対して、「行きたかった」なんて過去形を使うのが気に食わない。まるで自分で行けないって決めつけているみたいだ。もう、どこにも行けないのだと。

「でもね、泉がいつもここに来てくれるのが嬉しいの」

 落ち着いた声だった。何もかもを悟ったような声だった。
 時間は平等、なんてウソだ。呑気などこかの誰かのめでたい綺麗事だ。だって彼女のそれにはリミットがある。俺よりきっとずっと短いリミットが。世の中、理不尽なことで溢れ返っている。どうして、詩乃が?彼女じゃなきゃいけない理由なんて、どこにあるんだろう。どれだけ考えたって答えは見つからない。誰を怒ったら良いのかもわからない。ただただ明白なのは、彼女の時間にはリミットがあるということ。そして俺はそれを受け入れる勇気を持てていないということ。笑えるくらいに、嫌になっちゃうくらいに、俺の中に臆病が住みついている。
 俯くと、詩乃の青白く細い手首が視界に止まった。そこに繋がれている点滴のチューブ。これがいつだって彼女をここに閉じ込めてきた。鎖だ、これは。俺はそのチューブに手を伸ばして軽く触れる。それに気付いて詩乃は、不安そうな声を出した。

「泉、どうしたの……?」
「これ、外してもいい?」
「え……?」
「それでさぁ、ここから連れ出してもいい?」

 顔を上げると、驚いた表情をした詩乃と目が合った。入院してから、痩せた。痩せて目が大きくなったように感じる。黒目がちなその双眸を、逃さないように見つめた。こっちは本気だ。本気でここから連れ出そうと思っている。そして、病室で液晶越しに眺める世界よりも、もっと美しくてもっと楽しくてもっと生きていたくなるような世界をどれだけでも見せてやる。
 暫くして彼女は、俺から視線を逸らして静かに微笑んだ。諦めの意思をはっきりと感じさせるような笑みだった。

「そんなことしたら私、死んじゃうよ」

 からっとした声が耳に残る。薄暗い病室で笑う詩乃は、たしかに色彩を持っているはずなのに、少しずつ色褪せていって、背景の白に溶け込んでしまうように見えた。俺は、笑えない。チューブに触れた手を簡単に離すこともできない。そんな俺を見て彼女は「でも、」と続けた。

「泉になら殺されてもいいかも」

 そこに貼り付いてるのはいつもの笑顔ではなくて、憂いを帯びた悲しみの表情。初めて見たその顔に、絶句する。言葉は喉まで出かかっているのに、それが詰まってうまく息ができない。鋭い刃物で突き刺されたような、そんな気分だ。
 チューブにかけた手を下ろした。彼女はずっとこの鎖に繋がれたままだ。ここから連れ出すことなんて、俺にはできはしなかった。どうしても、出来なかった。

「明日も仕事でしょ?今日はもう帰って」

 小さく頷き、丸椅子から立ち上がる。彼女の顔を見ることができないまま、ドアに手をかけた。

「泉」
「なに?」
「ありがとう」
「……何が、」
「いつも来てくれて」
「別に、事務所の近くだし」
「連れ出そうとしてくれて、ありがとう」

 返す言葉が見つからないまま、逃げるように病室を出た。そんな言葉が聞きたかったんじゃない。責めてほしかった。無力な俺を。責めて、怒って、泣いて、「生きたい」と叫んでほしかった。
 病院はすっかり暗くなっている。静まり返った廊下を一人歩いていると目眩がした。よろけそうになりながら一歩一歩足を前に進めた。
 世の中、理不尽なことが多すぎる。その理不尽の中で、詩乃は溺れている。俺は助けたいのに、救いたいのに、手を伸ばそうとすればするほど、彼女の鎖につながれた手は遠ざかっていく。俺には、どうすることもできない。
 ふと立ち止まり振り返ると、長い廊下にいくつもの病室のドアが並んでいる。きっとみんな詩乃のように理不尽に苦しんでいて、俺のように救いたくても救えない誰かが見舞いに来てるんだろう。
 彼女の時間にはリミットがある。俺よりもずっと短いリミットが。そのリミットを切る前に見せたい景色がたくさんあった。聴かせたい歌が死ぬほどあった。その手を引くこともできないくせに。うんざりするほど、俺は臆病だ。
 再び前を向いて歩き出す。その途端に、詩乃の啜り泣くような声が頭の中に響いて、俺は足を早めた。どこまで行ってもその声は鳴り止まない。


鍵のない部屋
20210912