おとなは、きらい。
 だって汚い。みんな穢れているから。違う、穢れを知ったその時に"おとな"に成るんだ。大人はみんな醜くて、欲に塗れていて、快楽に溺れていて、嗚呼、馬鹿みたい。大人になんてなりたくない、あの女のようには。穢れを知らない子供でいたい。ずっと少女のままで、いたかった。

 見たくなければ、目を閉じるけど。聞きたくなければ、耳を塞ぐけれど。そこに在る空気を自分の体に入れたくないときは、どうすればいいんだろう。鼻をつまんで、口も閉じて、そうしたら苦しくなって、やがて死んでしまう。
 斑の匂いがする。嫌だ、ウソだ、私がどれだけ現実を拒否しようとしても、ここは斑の部屋で、私がいるのは斑のベッドの上だ。生まれて初めて、他人のベッドで朝を迎えた。男の匂いがする、このベッドで。カーテンの隙間から白い光が射し込む。身体は気怠くて、力が入らない。何もしたくない。私はただベッドの真ん中にぼんやりと座っていた。こんな朝、来なければよかったのだ。
 部屋のドアが音を立てた。男が入る。

「詩乃さん、起きたのかあ、おはよう!」

 斑はグレーのスウェットを履いていて、上半身は裸だった。髪は結わないまま、肩にはタオルをかけている。シャワーを浴びてきたのだろう。そして朝から喧しいくらいの楽しそうな笑顔を私に向けてくる。斑の顔を見た瞬間、安心すると同時に死にたくなった。やっぱり私は斑と、そういうことをしたのだ。こんな朝は、絶望だ。
 斑はベッドに腰をかけて、背を向けながら、顔だけこちらに向ける。

「身体は大丈夫かあ?痛いところがあったら言うんだぞお」

 その背中には肩甲骨の下辺りに引っ掻いた爪痕が無数にあった。私がつけた、傷。その事実は私をどこまでも奈落へ突き落とす。

「浮かない顔をしているなあ……やっぱりどこか痛いんじゃないのか?」
「違う」
「それじゃあ、俺とこうなるのは嫌だったかなあ?」
「……」
「無論嫌がる女の子を襲うほど鬼畜ではないし、詩乃さんが嫌がっているようにも見えなかったが」
「……嫌じゃないよ」

 本当に嫌じゃなかった。でも嫌がっていない自分には嫌悪を覚える。だって、これは私にとって最も穢らわしくて愚かしい行為だった。

「よかった。詩乃さんが元気ないのは気になるけど、俺は詩乃さんとこうなれて嬉しかったんだ」

 斑は優しく微笑んだ。その言葉をもう聴きたくないと思った。どうしたって、彼を愛している自分を思い知るばかりだ。
 思い出したくなくても鮮明に覚えている。眠りにつく前のこと。斑の熱帯びた瞳、地肌に伝わる体温、揺れる茶色い髪、浴びせられた愛の言葉。艶やかで濃密な時間。その時に感じた幸福を。自分の甲高い声を。何もかもが身体に深く刻まれている。吐き気がする。

「詩乃さん、お腹は減っていないかあ?ママが何か作ってあげよう」
「やめて、そのママっていうの、嫌いな言葉なの」
「うーん、困ったなあ。ママはママだからなあ」
「斑は斑だよ」
「俺の名前を呼ぶ詩乃さんの声は優しいなあ!」

 スプリングが軋む。斑がベッドに乗り込んで、私を抱きしめた。あやすように頭をポンポンと撫でられる。不貞腐れている私のご機嫌をとるみたいだ。ああ、また、自分の心拍数が上がる。愛しくて悲しくてどうしようもない。こんなにも私は斑に支配されている。

「とりあえず詩乃さんの好きなココアを用意するから待っててくれ」

 そう言うと斑はベッドから退いて、部屋を出ていった。
 斑がいなくなっても、やっぱりこのベッドは斑の匂いがする。私はもう、この部屋の空気を吸って生きていた。吸わなければ、死んでしまう。生きていくということは、これを、受け入れるということだ。悲しいけれど、そうするしかない。どんなに嫌だと喚いても、もう私は戻れない。昨日の夜、斑に抱かれる前の私とは別人になってしまったんだ。一滴、朱が落ちた白は、もう白ではない。純白に戻ることなどない。少女の私は死んでしまった。
 はっとして、ベッドに乗ったまま体を動かし、床に転がるバッグからコンパクトミラーを取り出した。恐る恐る、鏡に写った自分の顔を見る。似ている。そっくりだ。わかっていた。年を重ねれば重ねるほど、嫌でも似てきてしまう。私の、大嫌いな女に。
 その女は馬鹿な大人だった。思い出す。十二歳のとき。襖の隙間から見えた、父親ではない男に抱かれて、恍惚の表情を浮かべて動物のように喘ぐ母親を。醜かった。汚かった。許せなかった。軽蔑した。大人になんてなりたくないと本気で思った。あの日からずっとずっと私にとって性行為というものは、この世で最も穢らわしく愚かしい蛮行だった。
 それなのに私は、その蛮行をついに犯してしまった。だって、知らなかったの。本当に愛する人とするそれが、こんなにも幸福なものだったなんて。涙が出るくらい、このまま死んでも良いと思えるくらい、気持ち良いものだなんて。斑に抱かれるまで知りもしなかった。
 脱力して、コンパクトミラーを床に落とした。私はもう戻れない。穢れを知ってしまった。そしてそれに伴う幸福を知ってしまった。きっと私はこの先何度も彼と抱き合うんだろう。幸せだと、気持ち良いと感じて、母親のように下品に喘いで、また爪を立てるのだろう。私はどうしようもなく、大人になってしまう。
 おとなは、きらい。欲に塗れて、快楽に溺れて、嗚呼、馬鹿みたい。そうわかっていて、受け入れるから、嫌い。そうしないと生きていけないの、大人っていうのは。私が一番、馬鹿みたい。
 しばらくうなだれた後、ベッドから下りて、窓の側まで行きカーテンを開けた。白い光が眩しくて少し目が痛い。ぼうっと変わらない景色を眺めていたら、ココアの甘ったるい匂いが鼻をかすめてきた。


少女密葬
20210706