彼の手元で布が揺れるのを見ていた。細い針が真紅の布を泳いでいく。自分の意思で自由に動いているようにすら見えるそれは、確かに、彼に操られている。真剣に針先を見つめる宗の目は麗しく、そして猟奇的にも思えた。

「……綺麗」

 思わず声に出ていた。宗は、両手で頬杖つく私を一瞥したけれど、気にも止めず手芸を続ける。手芸部の部室は、穏やかで眠たくなるような静寂が流れていた。私がここにいること自体、不自然でしかないのに、彼はそれを許容している。拒まれて、拒まれて、それでも会いに行った。その積み重ねの上に成り立った、顔見知りという脆弱な関係だ。それでも、自分を褒めたくなるくらいの成果だった。同時に、斎宮宗という人間も、傍若無人そうに見えて案外人に弱いのだということを知れた。

「これは次のライブで使う衣装?」
「……ああ」
「どんな曲を踊るの?」
「質問責めかね、全く。Valkyrieの既存の曲をオーケストラアレンジで披露するのだよ」
「素敵だね。私も観に行っていい?」
「君も夢ノ咲の生徒なのだから、好きにしたまえ」

 彼の言葉を一つ一つ記憶しながら、舞台の立つ宗の姿を想像した。宗の作る舞台はいつだって完璧で、芸術的で、情熱的で、美しくて。観る人を釘付けにしてしまうのだろう。でも私には、そんな彼の舞台に心を震わせる資格なんて無い。
 宗の手により、ただの布が忽ち格式高い衣装に変わっていく。中世ヨーロッパを彷彿させるそれを、宗は誰よりも着こなし、味方につけて踊る。私はただただじっと見つめていた。半分は惹きつけられるように、もう半分は観察するように。

「いつもの事ながら、目的もなくじろじろ見られるのは良い気がしないね」
「ごめん、つい見惚れてた」
「調子の良い口なのだよ」

 目的がないわけではないけれど、きっとそれを宗に伝える日は来ないだろう。

「でもね、宗。私、Valkyrieが好き」
「唐突に何かね」
「本当だよ。本当に好きなの」
「……疑ってるわけではないよ」

 本当に好きなのに、ごめんね。心の中で小さく呟いて、私は席を立った。

「もう行くね、お邪魔しました」
「待ちたまえ」
「何?」
「……これを渡そう」

 宗は衣装を作っていた手を止めて、どこからかワインレッドの薔薇のようなモチーフに黒いレースのリボンがふんだんに施されたバレッタを取り出した。それを私に向けてテーブルの上に置く。

「私にくれるの……?」
「君以外に誰がいる?」
「いや、ちょっと、びっくりして……」
「たまたま余った布で作ったのだよ、君の長い髪に似合うと思ってね」

 私は宗の顔を見ることができず、バレッタを見つめた。やっと宗と顔見知りになれたと思っていたけれど、もしかしたらそれは計算違いで、それ以上の関係になれているのかもしれない。そんな都合の良い妄想が浮かんで、この事態を嬉しいと感じている自分に危機感を覚えた。

「ありがとう、大切に使うね」

 バレッタを手に取って両手で包むようにして、細部まで観察した。どこまでも丁寧に作られていて、作り手の愛情を感じさせられる。私はきっとこれをもらっていいような人間ではない。そう思いながら宗に歪な微笑みを見せて、手芸部の部室を出た。ドアを閉めてしばらくは暗い廊下に立ち尽くしていた。自分がどこにいて、これからどこに向かわなきゃいけないか、見失ってしまったのだ。バレッタをもう一度見る。綺麗な薔薇が咲いている。私の中にも咲いてはいけない花が芽吹こうとしていた。咲いたって、枯れるのを待つしかないのに。
 バレッタをブレザーのポケットに優しくしまうと、一度深呼吸をした。そして私は自分の向かう場所を思い出し、足を踏み出した。







 生徒会室のドアを開けると、正面の生徒会長の席に座り肘掛けに肘をつけながら瞳を閉じている英智が目に入った。一瞬ドキッとした。英智の瞳を閉じている姿は、まるで綺麗な死体のようで、本当に息をしていないんじゃないかと懸念してしまうのだ。かすかに寝息が聴こえてきて、まだ彼が生きていることを確認する。
 私は英智の席に近づいて、少しだけ迷ってから声をかけた。

「英智」
「……」
「英智、ねえ」
「……うん?」

 英智はゆっくりと瞼を上げた。ターコイズの宝石のような双眸と目が合う。形の綺麗な口が小さく欠伸を零した。

「書類の確認中に眠ってしまったみたいだ。これじゃあ生徒に示しがつかないね」
「疲れてるんだよ、きっと」
「君がここに来たってことは、何かお土産があるのかな?」
「……うん。頼まれてたValkyrieの情報。資料にまとめるね」
「それは楽しみだなぁ。よく働いてくれてるね」

 私の世界は天祥院英智を中心に回っている。ずっと前から。英智の願いが叶うように私にできることは何でもしようと、そう決めたのだ。英智の一番の味方でいられるように。わかっている。彼の願いを叶えるために、傷つかなければならない人がいることを。必要悪だなんて、彼は言うけれど。それでも傷つけたくないと思ってしまう人が、たった一人いる。思い浮かべてしまう。

「それにしてもあの斎宮くんが君には心を開いているようだけど、一体どんな魔法を使っているのかな?」
「別に、ちょっと芝居を打っているだけだよ」
「お芝居かぁ…本当に恋にでも落ちてたりしてね」
「そんな、わけないでしょ」
「冗談だよ。そうなったら一番困るのは僕だ」

 英智は、どんな意図か分からない笑みを浮かべた。私は恐れを抱く。
 ねえ、英智。どうして私に斎宮宗を与えたの?こうなることを知っていたのだろうか。こうやって私の心が揺れ動くことを。それでも、最後はこの部屋に、英智の元に戻ってくることを。全部全部、彼は知っていたのではないのか。

「英智、お願いがあるの」
「何だい?君の望みなら出来る限りのことは叶えよう。国を買うとかはさすがに難しいけれど」
「今すぐ抱きしめてほしい」

 英智はきょとんとした顔で私を見つめる。

「ふふ、詩乃が甘えてくるなんて珍しいね」

 英智は立ち上がって私の前まで来た。黙って見下ろされると、全てを見透かされているような気分になって落ち着かない。そして英智は腕を私の背に回し、抱きしめた。私もそれに応えるように腕を回す。英智の重みと熱が、心臓の音が伝わって、実感する。英智が死んでいないことを。そして私の恋心が死んでいないことを。脇腹あたりに異物感を感じた。ブレザーのポケットに入っているバレッタが英智の体と私の体の間に挟まれているのだ。形を崩してしまわないか心配だ。いや、でも、咲いてはいけない花なら最初から握りつぶしてしまうべきだろうか。わかっているのに、私はどうしようもなくそれを苦しいと思ってしまう。おかしい、私には英智が全てだったはずだ。
 私は瞳を閉じて、恋人の腕の中で祈った。世界の終わりを。あるいは、宗が今すぐその裁ち鋏を私の背中に突き刺しに来てくれることを。


もうずっと遭難している
20210705