ガタンゴトンと、列車が揺れる。私と羽風先輩は拳ふたつ分ほどの距離を空けて座っていた。乗客は疎らにしかいない。何の言葉も交わさないまま、私たちがしまわれた箱は目的地に着こうとしていた。饒舌であるはずの彼の口は、肝心なことは何も教えようとしてくれない。
「海に行かない?」
 そう羽風先輩が声をかけてきたのはつい一時間ほど前、下校しようと校門へ向かっている時だった。唐突すぎる誘いに戸惑ったが、先輩のいつもの軽いノリではなく、憂いを感じる声と表情で、なんとなく、本当になんとなくでしかないけれど、今日羽風先輩と海に行かないと取り返しがつかなくなるような気がして首を縦に振ってしまった。
 正面の座席の窓から西日が差している。ふと羽風先輩の顔を見上げると、明るい髪に日が当たって、こがね色に煌めいているように見えた。横顔はとても綺麗で、どこか遠い国の王子様のようだった。

 列車が目的地に到着し、ホームに降りた瞬間、既にふわっと潮の匂いが漂ってきた。小さな改札を抜けて駅を後にすれば、もう海の誘いがそこまで来ている。短い踏切を渡って少し歩いていくと海が視界に入った。砂浜へ続くアスファルトの階段を一段一段、羽風先輩に続いて下りていく。段差が大きいものだから慎重に足を踏み出していると、「大丈夫?」と、最後には先に下りた羽風先輩が手を差し出してくれた。

 砂利道を進んでいくと、足下はどんどん柔らかくなり砂浜に近づいていく。少し歩きづらいけれど、一歩だけ前を歩く羽風先輩に必死でついていく。目の前の海では、紺色の波にオレンジの夕陽が差して、キラキラと揺れている。手招きされるように、海へ向かう。
 羽風先輩、どうして海に来たんですか?何気ない質問なのに、答えを聞くのが怖くて口に出せない。肝心なことを伝えられないのは私も一緒だ。
 もう、大きな波が来たら靴が濡れてしまうくらいの距離まで来ていた。私の視界には海と羽風先輩しか存在しない。それは写真に納めたいくらい、ドラマティックな景色だった。

「波の音が好きなんだ」

 羽風先輩が呟いた。穏やかな波が、寄せては返す。ザァ…ザァ…とメトロノームのように規則正しく反復し続けている。止まることはない。

「なんか、落ち着かない?」
「…そう、ですね」
「思ってないでしょ」

 くすりと羽風先輩が笑う。見透かされている通り、同調はしたものの、心の底から共感はしていなかった。波の音を聴くと、私は落ち着かない。胸の中がざわついて仕方ないのだ。

「詩乃ちゃん、向こうに何があると思う?」
「向こう?」
「水平線の先」

 羽風先輩はただまっすぐ前を見つめていた。何か慈しんでいるような、何かを後悔しているような、切なげな瞳だった。その目に映っているのは、本当にただの海だろうか。水平線だろうか。私はどうも羽風先輩のこととなると、必要以上に深読みしてしまう。質問の答えなんてちっとも思いつかないのに。
 しばらく静寂が続いた。羽風先輩は変わらず遠くを見ていた。私は焦る。早く、はやく、答えを出さなければ。答えを出して、羽風先輩をこっちに取り戻さなくては。

「気にならない?」

 羽風先輩の右足がまた一歩、海に向かう。その瞬間私はとっさに両手で先輩の左腕を強く掴んだ。そして、羽風先輩の鼓膜を揺らすには十分過ぎる声で叫んでいた。

「羽風先輩、だめ!」

 羽風先輩は驚いた顔をして私を見る。私も強く見つめ返す。続く言葉が出なかった。どうして羽風先輩の腕を掴んだのか、自分でもよく理解できていなかった。

「詩乃ちゃん?どうしたの、そんな血相変えて」
「…行っちゃいそうだから、向こうまで」

 おかしなことを言っている自覚はあるけれど、本心だった。怖かった。腕を掴まなければ、引き留めなければ、羽風先輩がこの海に消えてしまうと思った。羽風先輩が探している、ずっと焦がれているものを求めてしまったら、辿り着く場所は天国しかないだろう。でも、そんなの私は嫌だ。

「入水自殺ってこと?ははっ、そんなことしないよ」

 困ったような顔で笑った羽風先輩。途端に私は恥ずかしくなる。ありえないはずのことを考えた自分が間抜けに思えて、先輩の顔をまともに見られず、俯いてしまった。でも、確かに今ここに羽風先輩はいる。その事実だけで私は随分と安堵した。泣きたくなるくらい愛しかった。

「もう暗くなるし帰ろうか。家まで送っていくね」

 来た道と同じ道を歩き、駅に向かった。列車の中ではもう白い蛍光灯が煌々と光っている。私と羽風先輩は、今度は体をくっつけるようにして座った。出発して間もなく、「ありがとう」という声が降ってきたけれども、何に対する感謝なのかは考えずに私は目を閉じる。思い出すのは、波の音。いつだってそれは危うくて、彼を連れ去ってしまいそうで、やっぱり私は落ち着かない。
 −−向こうに何があると思う?
 海での羽風先輩の言葉を思い出す。水平線の先には何があるのだろう。どうか、羽風先輩が一生知ることがありませんように。その代わりに、溢れるばかりの幸福を知れますように。小さな箱は私の祈りも乗せて終点を目指していた。


誰かがいた海
20200517