恋の病と酸性雨


 ぼんやりとした意識の中、ゆっくりと瞼を開ける。真っ白な天井はいつも起きた時に見るそれと同じものだった。上半身を起こして時計を見やれば、もう朝が来ている。不思議と頭はすっきりとしていた。昨日の記憶を少しずつ辿っていく。トイレで例の作業をしているところを、宗に見られたのだ。絶望している私を宗は抱きしめてくれた。もうその後は何がどうなってこのベッドで眠りについたのかは覚えていない。
 そういえば、ベッドには宗がいない。今日も確か早朝から撮影があったはずだから、きっともう出て行ったのだろう。きっとそうだ。それでもまだ私は疑っている。やっぱり彼は私を見限って出て行ってしまったのではないか。そしてもうここに帰って来ないのではないか。私はまた不安になり、身体を起こして寝室を出た。一歩一歩と廊下を進み、リビングのドアを開ける。
 真っ先に目に入ったのは、トルソーに飾られた白いドレスだ。フリルがふんだんに施され、胸元には黒いリボンとカメオのモチーフが飾られている。スカートの部分には生地の上から細かな模様のレースが合わせられていて、繊細で美しい。お姫様みたいだ。そう思いながら、あの日、宗に導かれて辿り着いた手芸部の部室で見たドレスのことを思い出していた。私が初めて人から選ばれて何者かになれた時の記憶だ。
 ドレスに気を取られていたら、テーブルにわずかに人の気配を感じて視線を向けた。ミシン、生地、型紙、様々な物が雑多に散らばっているテーブルで、宗が頭を突っ伏しながら寝息を立てていた。

「宗!?」

 思いがけず大きな声が出て自分でもびっくりした。その声は宗の耳にも届いたらしく、彼は眉をひそめて目覚め、上半身を起こした。

「……僕としたことが、こんな所で眠ってしまったのだね」

 宗の目の下にはくまが出来ている。頬にはテーブルに押し付けたような赤い痕が。それは私に様々な考察の材料を与えた。

「このドレス、宗が作ったの?一晩寝ないで」
「ああ、創作意欲が掻き立てられるままに手を動かしてしまったのだよ」
「またブランドとのコラボ?」
「違う。君のことだけを考えながら作った」
「え……?」

 宗の言葉を聞いてもう一度ドレスを見る。私のことを考えながら一晩で作ったという白いドレス。その事実だけで、もう愛着が湧いていた。細部まで細かく作られているそれは、一晩で出来たものとはとても思えない。宗の手はいつだって魔法のように美しいものを生み出していく。宗はいつだって私に諦めさせてくれない。どうしたって希望を与えられてしまう。

「着てくれるかね?」
「私でよければ」
「君のために在るのだから」

 私にはもったいないくらいの代物だ。本当に私が着ていいのだろうか。もっと上手く着こなせる人がいるんじゃないか。例えば、あのモデルとか。相も変わらず黒い渦のように頭に広がった憶測を私は強い意志を持って打ち消した。大丈夫、宗の言葉だけが私にとっての真実だ。
 ドレスを手に取り、宗の目の前で着替えを始める。私の痩せ細った身体は容易に華やかで複雑なドレスを受け入れた。背中の編み上げリボンを結んで着替え終わると、緊張しながら宗の顔を見た。宗は立ち上がり、私の全身を見廻した。

「思った通りなのだよ。とても似合っている」

 そう言うと宗は疲れた顔でそれでも優しい笑みを浮かべて私を抱きしめた。宗の腕の中で、私の身体の中を駆け巡っていた黒い渦が浄化されていくのがわかった。劣等感も嫉妬も焦燥も孤独も、少しずつ少しずつ溶けていく。私は泣きそうになるのをグッと堪えて、宗の背中に手を回した。けれどその瞬間、重大なことに気付いてしまって、身体を離す。

「そういえば宗、仕事は?」
「全てキャンセルしたのだよ、君を置いていく気にはなれなくてね」
「ごめんなさい」
「謝ることなんて、何もないだろう」
「……こんな私で、ごめんなさい」
「いかにも君らしい台詞だね。けれども僕は、"こんな君"を心底愛おしく思っているよ、失うのがどうしようもなく怖いくらいにはね」

 我慢していた涙が一粒、頬を伝って顎から落ちた。ただの言葉だ。ただの言葉にどうしてこんなにも私の心は揺さぶられるのだろう。こんなにも、幸福と安堵を与えられるのだろう。答えは簡単で、斎宮宗という人間がそこにいるからだ。宗は、私を幸せにすることも不幸にすることも簡単にできる。ずっとそうだった。それが怖くて、私は先に自ら不幸になろうとしていた。でももう、そんなことはしなくていい。宗は選ばない。私を不幸にすることを。

「僕は寝室で少し眠るけれど、君は朝食でもとってゆっくり過ごしたらいい」

 そう言って宗はカーテンを半分開けた。連日の雨が嘘のように、よく晴れていて、白い朝陽が部屋に射し込む。それはいつかのスポットライトによく似た眩ゆい光だった。


20210606