恋の病と酸性雨


 私はまた、宗が眠りについた頃にペットボトルを持ってトイレに向かった。何度目か分からない祈りのポーズを取って、今日もその作業は始まっていく。指を口に突っ込む度に人差し指と中指の付け根に歯が当たり、赤紫色の痣ができている。もう腕まで入れてしまおうか。この手で自分の全ての内臓を吐き出してしまいたい。私は焦燥に駆られながら、吐瀉物を出した。既に涙は溢れ悪寒が走り、頭は締め付けられるように痛かった。でもまだ、足りない。私が宗のそばに置いてもらうためには、もっと細くなって、綺麗になって、人形のようにならなきゃ。あの女よりも細く……!左手で殴るようにみぞうちに圧を加えた。痛みも苦しみも無視して指をさらに喉の奥まで突き刺す。咽せるような咳とともに胃酸の混じったものをぶちまける。
 その時、背後からキー…というかすかな物音が聞こえた。それはドアが開いて金具が軋む音だった。そしてここのドアを開ける人は私以外には一人しか有り得なかった。私は口元を拭いながら、恐る恐る振り向く。そこにはドアノブを握ったまま、立ち尽くす男がいた。宗は、目の前で交通事故でも見たかのような、傷ついた表情をして私を見下ろしている。

「っしゅう……」

 頭は混乱しているがただ一つだけ、取り返しのつかないことをしているのだけは理解できた。嫌でも理解させられる。とんでもないことをしてしまった。これは絶対に、宗にだけは見られてはいけなかった。彼は軽蔑するだろう、こんな醜い私を。私を見限って離れていくのだろう。そうしたら私はもう、どうしたらいいのだろう。宗の顔を見ていられなくて再び白い便器にしがみついた。
 顔はもうぐちゃぐちゃだ。生理的ではなく、感情的な涙が溢れた。宗の視界に映りたくない。消えてしまいたい。彼に拒絶されるのは、死ぬよりも怖い。声にならない声を上げて私は泣いた。この世の終わりだと思った。けれど、宗は、その場から立ち去らなかった。それどころかしゃがみこんで、躊躇いがちに私を後ろから抱きしめた。潔癖であるはずの彼が、こんな汚い私を、まるで大切なもののように抱きしめている。どうして。その事実がまた私に涙をもたらした。

「……いつから、これを、」

 後ろから聴こえたのは詰まらせたような声だった。問い詰められているように感じないのは、彼の悔いと戸惑いが痛いほど伝わったからだ。口を開けるが、上手く声が出ない。情けない嗚咽だけが漏れて、私は彼に何も伝えることができないままだ。
 宗は私の腕を撫でるように触った。その手は少し震えていた。

「ああ、こんなに痩せ細っていたんだね……」

 本当はわかっていた。この行為で自分を保とうとしながら、この行為を繰り返して自分が変わり果てていることを。本当は全部わかっていた。宗は私がどんなに醜くても拒絶しないということを。私がこうなっていることを知ったら自分を責めるということも。全部全部わかっていたのに。夢を諦めた自分でも宗のために努力していると思いたくて、宗に気づいてほしくて、私はどうしようもなく幼稚で愚かだった。
 宗の腕の力が強くなる。私をこの世界に繋ぎ止めようとするかのように、必死に。宗の咽せるような吐息が耳元で聴こえた。宗は、泣いていた。私も声をあげて泣いた。
 男女が抱擁するにはあまりにも似つかわしくないこの場所でいつまでも二人分の嗚咽が響いていた。


20210604