恋の病と酸性雨


 宗と恋に落ちたのは、お互い幾らか幼稚な心を持っていた高校時代のことだった。私たちは夢ノ咲学院という少し異質な高校に通っていた。といっても、私はその中でも平々凡々な学校生活を送っていたけれども。その時の私には夢があった。ファッションモデルになりたいと思っていたのだ。抜群に上質な服を纏い、煌びやかなライトを浴びて、ランウェイを歩く。そんな絵に描いたような夢を見ていた。背は高い方だったし、手足も長く、何の取り柄のない私でもスタイルだけは褒められることが多かった。夢ノ咲学院にはモデル科なんて無かったけれど、普通科でも、他の学校よりかは芸能界に強いだろうと思って入学を決めたのだ。
 二年生の五月のこと。私はオーディションの不合格通知を何度も読み直してはため息をついていた。入学して一年経っても夢への距離は縮まるどころか、遠ざかるばかりだった。フィードバックを求めると決まって「スタイルは良いんだけどね…」と言われる。その後に続く言葉なんて容易に想像できた。私の顔には華がないのだ。目は特別大きいわけでもなければ、切れ長でエキゾチックな印象を与えるわけでもない。鼻は低いし薄い唇だって何の個性にもならない。どこにでもいる女子高生でしかなかった。
 沈んだ気分のまま学院の渡り廊下を歩いていると、ある男子生徒とすれ違った。間も無くして「君、」と声を掛けられたのだ。振り向いて声の主を確認すると、暖かみのあるピンク色の短髪に、過剰なほどフリルが縫いつけられたシャツが目に入った。そこには、斎宮宗が立っていた。私は彼の鋭い眼差しと目が合うと、ドキッとして少しよろけそうになった。Valkyrieの斎宮宗。アイドル科の二年生の生徒だ。この学院にいれば、アイドルに興味がなくても必ず名前は耳にしたことがあるだろう。芸能界を目指して奔走する生徒が多い中で、すでに芸能界から高い評価を受ける彼は、学院内では絶対的な存在だった。
 斎宮宗は腕を組みながら、私のことを下から上まで視線を這わせ、推し量るようにじっと見つめる。

「うん、悪くないね」

 私は固まったまま何も声を出さずにいると、難しい顔をしていた斎宮宗は何か問題を解決したかのように表情を明るくした。

「僕についてきたまえ」

 ゆるりと微笑みながら唐突な命令をしてきた。初対面なのに、私は一言も発していないのに、斎宮宗はまるで私が必ず彼に従うと確信でもしているかのように気丈に振る舞っていた。ぼけっと立て尽くしていたら「何をぐずぐずしているのだねッ」と少し苛立たしそうに吠えられた。反射的に私は「すみません!」と謝り、彼を追いかけた。

 辿り着いたのは手芸部の部室だった。無数の布やミシン糸が散乱している。その中央には、異様な存在感を放つ黒いドレスが飾られてあった。ウエストの細さとふんわりと広がっているスカートのバランスが良い。裾や袖にはフリルと細いリボンがあしらわれていて、お姫様のようだ。胸元にはゴールドの糸で蔦のような模様に刺繍が施されていた。

「これを君に着てほしい」
「どうして?」
「いいからすぐに着るのだよ」
「でもここで着替えるのは、ちょっと…」

 帝王らしくもないキョトンとした表情を浮かべた斎宮宗と目を合わせていると、何かに気づいたかのようにハッとして彼は部室のドアに向かった。

「僕は少し外に出ているから、着替えたら呼びたまえ!」

 バシッと勢いよくドアを閉めて斎宮宗が出た後の部屋で私はややや手こずりながらもドレスに着替えることに成功した。ドレスはずっしりと重たい。でも着心地が良かった。少しだけ胸を張れるような気がした。
 緊張しながら廊下にいる斎宮宗を呼んだ。斎宮宗はまた私の全身を見廻すなり、納得したかのように頷いた。

「思った通りなのだよ。とても似合っている。少し手直しは必要だけどサイズも問題ないね」

 満悦の表情で斎宮宗が放った何気ないその言葉はじんわりと私の心に染み入った。「でも、一体どういうことですか?」と問いかけると、そこでやっと斎宮宗は経緯を話し始めた。

「知り合いからファッションショーに出てくれないかと言われてね、何でも、ゴシックやクラシカルなファッションを好む客が集まる小さなショーらしいのだけど。僕は自分たちの衣装も全て手作りしているから、そこを評価されたらしく、女性向けのドレスのデザインを頼まれたのだよ。ただ先方が用意したモデルが僕のイメージとかけ離れていたものだったから代わりを探していた」
「モデルがイメージと違っていて?」
「僕の作るドレスは完璧だけれど、どうせなら一番美しく映えさせたいからね」

 雷のような衝撃が頭を貫いた。それはとんでもないことだった。あの斎宮宗が私をモデルに選んだのだ。たまたまかもしれない。あの時、たまたますれ違ったから。たったそれだけのことなのかもしれない。それでも、数多のオーディションで不合格を喰らい、自己肯定感が地の底についていた私にとっては、大きな救いに思えた。

「ファッションショーは来週の日曜日だけど、出てくれるね?」
「はい」

 神に導かれるかのように、私は躊躇わず、大きく頷いた。すると斎宮宗は機嫌の良い笑みを浮かべた。
 これが宗と私の出会いだった。あの時から宗は私にとって神様だった。宗が選んだから、私には価値が生まれた。宗に選ばれない私には、どこにも価値がない。手芸部の部室に無造作に落ちている布切れと何も変わらなくなってしまう。それが一等恐ろしかった。


20200520