恋の病と酸性雨


 明日の早朝から仕事があるという宗は早々に就寝した。私は洗い物を終えた後、寝室にそっと忍び入る。模範的な仰向けで横になっている宗がしっかりと眠りに落ちていることが確認できたら、私はまたこっそりと寝室を後にした。

 冷蔵庫からミネラルウォーターの500ml入りペットボトルを取り出すと、向かった先はトイレだ。オレンジ色の小さな明かりが光る狭い室内で、私は便器を正面にして跪いた。それは祈りのポーズに似ている。ペットボトルは膝元に蓋を開けた状態で置いて、私は今日もそれを始める。
 単純作業だった。口を開けたら舌を出して、右手の人差し指と中指を口の中に侵入させていく。口という機能を通り過ぎると、それはもう通常入りようない喉奥まで到達する。全身に鳥肌が立つ。おえっという嗚咽を何度か繰り返す度に肩が大きく震えた。体が拒絶している。もうやめてほしいと訴えている。それでも私は止めない。左手の平でみぞうちをグッと圧迫する。体の中が異常を起こしている気配を感じ、便座に腕を置き、顔を便器に向けた。びちゃびちゃと吐瀉物が落ち、便器を叩く。宗の作ったグラタンが形を変え、色を変え、正しく消化されずに、流れていく。胃酸が混じり、口を通る時には、ツンとした酸っぱさを感じた。
 吐けるだけ全部吐くと、トイレットペーパーをちぎり口元を拭う。喉がヒリヒリとして痛い。生理的な涙も溢れていた。全部をリセットするように、ミネラルウォーターをひと口、ゆっくりと流し込む。私はこれをする時いつも、自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなる。

 片付けを終えて浴室へ向かった。脱衣所で服と下着をすべて脱ぎ捨て、恐る恐る体重計に足を乗せる。私はいつもこの電子仕掛けの箱の上で裁かていく。映し出された数字は、昨日よりも僅かに下回っていた。それを見て、全身から力が抜けていくのがわかった。深い安堵に、ため息が溢れる。……よかった。これでまだ、私は宗のそばにいられる。
 降り注ぐシャワーは全てを洗い流してくれる。私の醜い感情もすべて。私はただ、宗に見限られてしまいたくない。それだけだ。宗に嫌われたくない。宗に捨てられたくない。いつだってその危機感が私を動かす。でもきっと、私が吐いていることを知ったら、宗は軽蔑するだろう。こんな汚い、みすぼらしい姿の私を、こんな風にでしか自分を保てない私を、見限ってしまうのだろう。でも私にはこれしか思いつかない。
 シャワーを浴びながら、今日見た広告塔のモデルのことを思い出す。宗が選んだという女性。その事実を反芻するたび、私は消えてしまいたくなるのだった。


20200519