長男であるおそ松兄さんと俺らのたった一人の妹である名前がそういう関係だっていうのは、結構前から知っていた。





「一松兄さん」


照りつける太陽に似つかわない雨。
明るいのに雨が降っているなんて変だ。

路地裏の薄暗い空間でいつものようにすりよってくる野良たちにそこらで買ってきた猫缶を振る舞っていると、ぽちゃん、と音を立てて頭に水滴が落ちた。じわりと滲んで頭皮までそれが到達したとき、またぽちゃんと水滴が落ちてきて、思わず顔を見上げる。建物と建物に挟まれて青い空が広がっていて太陽だって見えているのに、頬には水滴ばかりが落ちてきて、今日は一日晴れだと言っていたくせに、とそれだけで全てが面倒になってがしがしと頭をかいた。 今日はもう帰ろうかと重たい腰を上げようと、膝に手を当てた、そのときだった。


「一松兄さん」


その声に、首だけで振り向く。真っ黒なセーラーと程よい長さのプリーツスカート。セーラーの上からは数日前の誕生日にトド松からもらったキャラメルのような明るい茶色のセーターを前も閉めずに羽織り、それでいてスカーフと同じ赤色の傘を片手に、こちらに微笑んでいる名前。こんな薄汚いところと全てにおいて似つかわない妹は、そのままローファーを鳴らして俺の隣まで来ると「また餌あげてるの?」とそこにしゃがんだ。


「そう。…つーか、スカート汚れんぞ」


「だいじょーぶ。あ、今お天気雨降ってるの。兄さん気づいてた?」


「ああ」


「濡れるといけないから、入れてあげるね」


真っ赤な傘が傾けられて、水音が傘にぶつかるそれに切り替わる。視界が赤みがかって、「この傘お兄ちゃんがくれたんだよ」と頬っぺたを赤くして嬉しそうに傘をくるくると回転させていた数日前の名前が脳裏をよぎった。名前はすりよってきた猫の首元を撫でながら、あの日と同じように傘を回している。器用なことだ。

本人が気づいていたかは知らないが、名前は6人いる兄の中でも特におそ松兄さんと仲がよく、物心つく前からお兄ちゃんお兄ちゃんって兄さんのあとをついてまわっていた。おそ松兄さんも「名前は兄ちゃんのお嫁さんになるんだもんなー」って、だらしないくらいにへらへらして笑っていたもんだ。
今のようにあからさまになったのはおそ松兄さんと名前が喧嘩に巻き込まれて以来だけれど、その前から名前はおそ松兄さんに家族以上の感情を抱いていた、と思う。それはまた、おそ松兄さんもだ。

ただ、おそ松兄さんかいつから名前をただの妹として見れなくなったのか、二人がいつから家族の目を盗んで体を交えるようにまでなったのが、俺にはよく分からない。微塵も興味がわかない。
でも、そういうことを人に何も悟らせないあたりが、おそ松兄さんは前から変わらないなと思った。

六つ子だからといって昔ならまだしも今はお互いが何を考えているかなんて、分かりやしない。特におそ松兄さんは。
六つ子なんだから兄も弟もないようなものだと言われても、たとえそうだとしても、おそ松兄さんはやっぱり昔から"長男"だった。小学生の頃イタズラをしていたときも、中学高校と喧嘩をしていたときも、実行犯は六つ子でもリーダーはおそ松兄さんだった。だから、名前が高校に上がるまではアイツが狙われねえようにするぞって、そう言ったときも『おそ松兄さんが言うなら』『それで名前を守れるなら』と全員すぐに同意した。自分の膝に頭を乗せて寝息を立てる名前の頭を撫でて、それから額に軽く触れるだけのキスを落とす。「普通の生活をつくってやれなくて、ごめんな」だなんて珍しく弱気なおそ松兄さん。名前はそんな兄さんのことは知らんぷりですやすやと夢の中だった。
別におそ松兄さんと名前が昼間っからセックスしようが何しようが、俺には関係のないことだ。はじめは驚きながらもどこかで納得していたし、何度か(といっても片手に収まる程度で決定的な瞬間をばっちし見たわけではない)場面に出くわしていくうちに慣れてしまった。こっちが気を使っていることにも気づきやしないで、いや、ま二人は俺と、それから末っ子のトド松が気づいていることも知った上で何も言ってこないのだ。妹は俺のものだ、長男はわたしのものだ、とお互いが抱えているとんでもない執着心を他の兄弟にはあくまで見せないつもりなのだろう。だから俺たちのことを知った上でも"何も知らない風に振る舞え"って、口には出さないけれど、『何も言わないこと』でそう言っている。俺は頭の出来がよくねぇから、うまく言えないけど。
けれどおそ松兄さんは名前だけじゃなく家族をこの上なく愛しているし、名前も惜しみ無いほどの愛を俺たちにそそぐ。だから、俺は正直、二人のことがよく分からない。兄と妹の関係がそこらの恋人のように甘いものなのか、それとも家族愛の延長なのかは、特に。


「お天気雨ってね、狐の嫁入り雨っていうんだって」


名前の手元で喉を鳴らしていた猫が路地裏の奥へと駆けていく。にゃあ、とこちらを振り返ってひと鳴き。それに「どういたしまして」なんて返事を返すコイツも、かなりの変わり者だ。松野家にはそういう人間しか生まれないわけ?


「…なに、狐?」


「うん。いくつか諸説はあるけど、一番有名なのは雨乞いの生け贄に人間に化けるのが上手い狐が選ばれて、村の男を使ってその狐に婚約をもちかけるの。何度も話をするうちに狐と男は相思相愛になるんだけど、狐は自分が生け贄にされようとしていることを知る。男は狐を逃がそうとするんだけど、狐は男や村のために自ら生け贄になった。だから、狐の嫁入り雨」


「へぇ」


「素敵だよね。愛する人のためにって。わたしもそういう人と結婚したいなあ」


別に興味なんてないけど、でも、


「お前はおそ松兄さんとこに嫁ぐんだろ?」


小さい頃からそう言ってた。
名前のくりくりの大きな目が、さらに大きく開かれる。
兄妹は結婚できない。そんなのは常識でそれが分からないほど頭の出来は悪くないし無知ではない。というか、誰だって知っていることで特別難しいことでもない。ただ昔からイタズラやら喧嘩やらばかりする悪童で今や全員揃ってニートをやっている俺たちや、その妹でごく"普通"の生活も送れずに常に傍らに危険が潜み、挙げ句には長男と行為に走る名前は、世間からしたら普通ではない。おかしいのだ。常識なんてものは、俺らには通用しない。だから、なんとなく聞いただけだ。


「やだ、一松兄さんてば」


「……」


「家族は結婚できないの、知ってるでしょ?」


「…ああ、知ってる」


小さな頃はおそ松兄さんにくっついて、今だってそういうことしてるってのに、何が結婚できないだ、って、これじゃあまるでおかしいのは俺のほうだ。
まあ例外はあるものの、名前も普段外では徹底的に兄さんの妹でいようとしているし、たとえここが野良猫や俺みたいなクソニート、それから暇をもて余している不良しか寄りつかないような薄汚れた路地裏で誰も聞いてはいないと分かっていながらも、ボロを出すのは戸惑われたのだろう。きっとここが家で、おそ松兄さんがいたのなら、名前は兄さんに腕を絡めて「うん、だってわたしお兄ちゃん大好きだもん」とかなんとか甘えた声を出して、他の兄弟や母さんにも呆れられて。兄さんも「名前はほんとかわいーな」とか言って頭を撫でて、でも抑え込んではいるもののドロドロに溶けた愛情は素直で、俺やトド松は兄さんのわずかな表情や仕草でそれが分かってしまう。見て見ぬ振りをするのも意外と疲れるんだからな。


「でもね」


奥に駆けていった猫を見送って、名前は立ち上がる。もう帰るつもりなのだろう。俺も重い腰を上げて、ちらりと名前のほうを見やる。「でも、なに」傘に入っていないといけないわけじゃないから名前を置いて先に表通りに出てもいいけど、それだと名前は濡れちゃうでしょって怒るし、兄さんは名前をそんなとこに置いて先に行くなって言うから、俺はこいつが動かないと動けない。じっと猫にやっていた視線が、こちらに向いた。


「既成事実つくっちゃえば、お兄ちゃんもわたしから離れられないよね」


こてんと首を傾げた拍子に、綺麗な黒髪が揺れる。
いま、なんつった。


「既成事実、」


「うん。きせーじじつ、っていうかまあ、子供ね」


「…お前、」


「別に外でつくってきてお兄ちゃんの子だよって言ってもいいんだけど、お兄ちゃんそういうの鋭そうっていうか、その子が大きくなったときとかお兄ちゃん似てないとやだし、何より外でしてきたのバレたら怒られそう」


「…いいわけ」


「何がー?」


「…おそ松兄さん以外とするの、いいわけ」


言ってから失言だったと思った。いくら路地裏だっていってもここ外だけど、んなこと言っていいのかよ、とか、さっきとは矛盾してるけれど他に言うべきことはあっただろうに。こいつの口から兄さん以外でもいいだなんて言葉を言わせてみろ。その時はおそ松兄さんが何をしでかすか分からないぞ。やっぱり言わなくていいと告げようとしたとき、名前は俺よりも先に口を開いた。


「嫌だよ。お兄ちゃんとだから気持ちいいんだし、好きな人以外に脚なんて開きたくない」


「…、…なら、」


「でも、ね。お兄ちゃんてばなかなか生でやってくれないし、前に誘うっていうか、生でしたくなるように誘導してみたけど、軽く受け流されちゃって。うまくいかないから、他人とセックスっていうのは最終手段かなって」


「…んなことしたら、あの人たぶん、お前のこと一生監禁でも何でもするよ」


「ふふ、そうだね。お兄ちゃん自分のものに手出されるの嫌いだから。…あ、そっか、なら、他の人としてほしくなければゴムなしセックスしろーって、今度言ってみようかなあ」


「……、…やめろよ。お前と兄さんがそれでどうなろうと俺には関係ないけど、あらかじめそうやって俺が聞いてたって知られたら、こっちにも被害が出る」


「そこはかわいい妹の保身のために一肌脱いでほしいな?」


「はっ、誰が」


「あれ、"かわいい妹"は否定しないんだ?」


「…しねぇよ。お前実際にかわいいだろ」


「ありがとー」


わたし、なんだかんだでとっても優しくて頼りになる一松兄さんが大好き。
ローファーをかつんと鳴らして、名前は表通りのほうへ歩き出す。「帰ろ、一松兄さん」視界の端でスカートが揺れたのを捉えた。


「おい」


「んー?」


その返事、おそ松兄さんにそっくりだ。


「兄弟がいないときは路地裏なんて近づくなよ」


意外と危ねえぞ。
表通りに出てから、いまだにくるくると回していた傘をぶんどる。いくら猫背といっても妹からしてみればうんと高身長なのだから、二人でさすのならばこのほうがいいだろう。傘をとられた名前は一瞬ぽかんとしたけれど、すぐにいつものように微笑んだ。


「うん、約束する」


表通りを歩きながら、横を歩く妹の頭を撫でた。
こいつはおそ松兄さんとセックスするし、既成事実とか言い出すし、世間一般でいう普通の女子高生とはずいぶんとかけ離れている。けれど、それでもこいつは、俺ら六つ子の、大切でかわいい妹には変わりないのだ。