「じゅん、鼻赤いぞ」

つん、と自身の鼻先に人差し指が当たる。当たったのは一瞬なのに、その指はずいぶんと温かい。首元に巻かれたマフラーに顔をうずめて小さく「うっせ」と返せば、木吉は笑いながら手元の単語帳に視線を戻した。
きれいに綴られた英単語をペラペラとめくる音が耳につく。自分の手元にあるそれと同じもののはずなのにあいつが使っているとなんだか全く別のもののように感じられる。目を伏せてそちらを見ていたことに気づいたらしい木吉は、そっと俺の頬に手を当てて「どうした?」と聞いてきた。

「べつに、明日本番だし、気合い入ってんなって思って」

「はは、そりゃ受験だからな。落ちたら日向と学校行けないし」

「あほか。俺だってまだ受かってねーぞ」

じゃあ日向が落ちたら、俺も合格辞退するわ。木吉の声が静かな住宅街に溶ける。すぐに何か言い返してやりたかったけど、唇に触れた柔らかな感触に全て飛んでしまった。一瞬だけドアップになった顔はすごくきれいで、こいつが好きだなあと実感する。顔がいいから好きになったというわけではないのに、あいつの仕草のひとつひとつに緊張してしまうのは何故だろう。鳴りやまない鼓動が聞こえる。
そのまま胸板にすりよって背中に手を伸ばす。恋人の、しかも男同士で、同じ学校に行きたいがために合格を辞退するなんて馬鹿か。だけど俺だけ合格して木吉が落ちたら、多分俺も同じことをするんだろうなと考えたらなんだかおかしくなってきた。それほどまでに俺はこいつに溺れていて、こうして抱き締めてくれる木吉にいつまでもすがっていたいとさえ思う。すきだ、鉄平。自分にだって聞こえるかどうか分からないように呟いたのに、さらに力を込められたってことは聞こえてたんだろうな。人の話は聞かないくせに。都合のいい耳だよ。

「大丈夫だ。絶対に二人とも受かる。」

「わーってるよ」

「そのわりには不安そうだけど」

「言うな。お前だって不安なくせに」

「ちょっとな」

ちょっとかよ。俺はこんなにも不安で仕方ないのに。言ってしまいたいのを必死に飲み込んだあと、ぱっと離れて再び単語帳をめくればなんだか拗ねたみたいになってしまった。俺だけが不安なんじゃないと頭では分かっているつもりだ。だけどやっぱり、分かってないのかもしれない。

「日向」

「ん?」

「好きだぞ」

「…な、なんだよ急に」

「え、言ってほしそうな顔してたから」

反射的に自分の顔に触れる。そんな顔、してるわけがない。こいつの目はどうなってるんだ。だけどそのことに対して不安になっていたというのは本当なのだから何も言い返せない。「…あんがと」顔も見ずに、英単語に話すみたいに呟く。するとどうだろうか。先程まで木吉の手にあったはずの単語帳が、カシャンと音を立ててアスファルトの道路に落ちた。金属でできたリングがぶつかって単語の書かれた紙がばさりと空中に舞うのを、横目で見ながら体は木吉に任せる。ぼすん。また音を立てて俺は再び木吉の胸板に倒れこんだ。

「じゅん、好きだ」

「……ん、俺も」

ぎゅうぎゅうと締め付ける腕にそっと手を伸ばして、するりと撫でた。鼻を掠める木吉の匂いが心地よくて鼻が曲がるんじゃないかってぐらいに強く押し付ける。ほんとに、木吉が好きだなぁ。好きだからこそ不安で仕方ないのだ。受験のこともこれから先の将来のことも。
だけど木吉は俺の悩むそれ全てに気づいているかのように、そして受け入れるかのように全てを包み込む。その優しさに甘えているのも事実だけど、どこかで別れることなんてできやしないと端から答えが出てたり、する。
それがおかしくて木吉にはばれないように小さく笑っていると、頭上から「じゅん、」と声が降ってきた。

「ん?」

「受験終わったら、いっぱい遊ぼうな」

「…だあほ。当たり前だ」

言葉と共に吐き出した不安は、まるで吐息のように白くなって夜の住宅街に溶けていった。


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白丸さまよりリクエスト。



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